9
今からほんの二日前。時は、部内試合の少し後まで遡る。
午後七時。街はほのかなオレンジに染まっていたが、それを夕焼けと呼ぶにはあまりにも暗すぎた。
帰路に着く朱雀は、ある男について考えている。
高校バスケ界全体を見渡しても、朱雀は自分を超える才能を持つ人間はいないと思っていた。そして事実、いなかった。
ところが、出会いとは思わぬところに転がっているものだ。ましてや何の期待もしていなかった春陽高校に、それがあるとは。
悠木大雅。
『待てよ』
正門に差し掛かったところで、朱雀は呼び止められた。君も誤算だったな、と彼は心の中で呟いた。
青影龍臣。山口県の高校一年生の中で最高のポイントガード。例えその範囲を県内の高校生全体に広げたとしても、五本の指に入るかもしれない。
『俺、電車なんだけど』
『良いだろうが別に。電車の一本や二本ぐれえはよ』
朱雀は彼の追跡から僅かな逃走を試みたが、その目論見はあっさりと却下された。降参の意、お手上げのジェスチャー、非対称の笑み。
『強引だね。そっちは歩き?』
『家、こっから五分だからなァ』
『へえ、だから春陽に』
『ロマンだっつってんだろうが』
続く会話は一見世間話の風体を成しているが、二人の興味関心は微塵もそこになかった。
堂々巡りの上っ面な会話はもう無駄だ───そう言わんばかりに、本題を切り出し始めたのは龍臣だった。
『大雅のことだけどよ…どう育てる、お前なら』
その言葉に朱雀は拍子抜けした。話の方向性は彼の予想通りだったが、アドバイスを求めてくるとは思ってもみなかったからだ。
『意外だね。龍臣ってもっと人のいうこと聞かず猪突猛進するタイプだと思ってたんだけど』
『うるせえ』
苦笑交じりの朱雀、それに不満気な龍臣。
『随分惚れ込んでるんだね』
『お前もだろうが』
『まあね』
朱雀の目が少し空を泳いだ。やや紫がかった皐月空に、月とオリオン座が静かに映えている。二人の間に思考の沈黙と行き交う排気ガスが流れ、
『バスケットボールのオフェンスを、極端にシンプルに表すとするなら』
その灰色が風でどこか遠くへ流れた時、朱雀は口を開いた。
『シュート、ドリブル、パス。この三つの複合物…そう言えると思う。じゃあ、この中で“最も重要なもの”は何か』
朱雀の語り口はまるで哲学者のようだった。黒も白へとひっくり返りそうな堂々としたその語勢は、一歩間違えれば稀代のペテン師へと彼を生まれ変わらせそうだ。これもまた、自分が持つ才能への絶対的自信の副産物なのか。
『単純な話だよね。100%シュートが入る選手と、100%ドリブルがスティールされない選手と、100%カットされないパスが出せる選手。誰が一番活躍できるかって話なんだからさ』
龍臣は考えた。もちろん、現実にそこまで完璧な能力を持った選手がいるはずはない。これはあくまで仮定の話だ。しかしリアルとはかけ離れた話だからといって、龍臣は思考をないがしろにするような無粋な男ではない。熟慮し、答えをはじき出す。
『シュート』
『気が合うじゃん、珍しく。バスケットボールは点を取らなきゃ勝てない。つまりはそういうこと』
その答えに満足そうに笑った朱雀は、駅の方角へ向けてまた歩き始めた。
『四月の春季地区大会はどうでもいい。大事なのはインターハイのかかった五月からの総体だから。それまでの二ヶ月弱で大雅にシュートを身につけさせよう。もちろんスリーポイントまで、な。大雅をただの“センター”にする気はないから』
夜の闇に溶けていく背中。
『おいッ!明日から朝練やるぞッ!五時集合、遅れたらアイス奢りだからなァ!』
『体育館空いてんの、それ』
『俺に任せろッ!』
秒速約340mの空気の震えをそこに感じながら、朱雀はポツリと言った。
『じゃ、明日からは自転車通学か』
△▼△▼△▼△
「って言ってたのに、今日入れてあと五日しかないじゃん」
「ご、ごめん…」
「お前が謝ることじゃねえだろ」
水曜日。日曜日の水浦戦までほんのわずか。ルーキーたちはまたも朝の体育館に集まっている。
よし、とストレッチを終えた龍臣が立ち上がった。
「今からお前に、シュートフォームの基礎を教えるッ!」
「お願いしますっ」
朝の眠気を感じさせない声量と歯切れに、思わず背筋がピリッと伸びる大雅。
「まずは大前提からだ」
龍臣は人差し指をピンと立てると、大雅の眼前に突き出した。その様子は昨日大雅にゴール下シュートを教えた時の朱雀に似ている。どうやら彼の“アドバイス”を実戦しようとしているようだ。なんだかんだで素直に聞くところが、なんとも龍臣らしい。
「たった一つの大前提ッ!“シュートフォームに正解無し”!」
「シュートフォームに正解無し?」
「そうだ」
「えっと…それはどういう…」
「人によって最適なシュートフォームは違うってことだよ」
言葉の真意を測り兼ねている大雅へ、未だフロアに寝そべって柔軟に勤しんでいる朱雀がその内容を補足する。
「体格には個人差がある。俺と大雅の身長は違うし、ウイングスパンや筋肉量も違うだろ?体格が違えば、最適なフォームもまた違う。万人にとって最適な一つのフォームなんて存在しないんだ」
「教科書通りのシュートフォームが正解だと思うな!己にとっての正解は、己以外のどこにもないッ!最高のシュートフォームを探すことは、バスケットボール選手にとっての永遠のテーマだ!」
コクコクと何度も頷きながら、腕組みをした龍臣がさらなる注釈を加える。大雅は初めこそ難解さを全面に押し出したしかめっ面をしていたが、すぐにポンと手を叩いた。
「陸上のランニングフォームとか呼吸法と同じってことだよね、つまり」
「そういうこと」
“万人にとって最適な一つは存在しない”。これはバスケットボールのみならず、どのスポーツにも共通して言えることだ。野球で言えばバッティングやピッチング。陸上で言えばランニングフォーム。
身体操作の面だけではなく、道具でもそうだ。ある選手がメーカーAのシューズを履きやすいと感じていても、別の選手にとっては果たしてそうだろうか?個人差が存在する以上、解は人の数だけ存在して当然なのだ。
「そして!今の大前提を心に留めた上で」
龍臣は、自分のボールを大雅に渡した。
「お前に“教科書のフォーム”を伝授するッ!」
「…あれ?」
頭の上にいくつも疑問符が乗った大雅はその重みで首をかしげる。シュートフォームに正解が無いといった矢先、教科書のフォームを教えるとはどういうことなのだろうか。
「えっと、自分に合ったフォームを見つけないといけないんだよね?なんで教科書のフォーム?」
「難しいところなんだよ。シュートフォームに“正解”はないけど、“正解への方向”は間違いなくあってさ。教科書のフォームは多くの人間の実践の上に構築されてきたものだから、それ自体が正解じゃないにしろ身に着ければ正解に素早く近づくことができるんだ…ちょっと分かりにくいかな」
朱雀が並べる呪文のような言葉たちを必死に解読しようとする大雅。その理論の全てを理解したと自信を持っては言えないようだったが、彼は何とか咀嚼し簡単な結論を打ち出した。
「教科書のフォームを覚えてから、自分に合うようにアレンジすればいいってことかな」
それを聞いた朱雀が、寝たままサムズアップした。にかっと笑った龍臣もボールを手に取り、両手でバシンと強く叩いた。
「ようやく分かってきたな大雅ァ!分かったら早速始めるぞッ!」
かくして大雅は二人の協力のもと、短期間でのミドル&スリーポイントシュートの会得に励み始めた。
@HokusetsuYonagi Twitterをフォローして頂くと、作品の更新が分かりやすくなります。