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息を、吸う。
胸が風船のように容積を膨らませ、その中に乾いた熱気が満ち満ちていく。取り込んだ大量の酸素と結合したヘモグロビンが血流に乗じて全身を廻り、身体に活力のみなぎりを感じる。
息を、吐く。
老廃物が、不純物が、雑多な思考が、その長い吐息とともにどこかへ消えていく。そして残る、虚無。全てを失ったかのような、それでいて全てがそこにあるかのような───完全なる無。
鳴神朱雀は今、この世界に独りと成った。
「さてと。青影くんは出てこんみたいやし、もう一回朱雀くんに相手してもらおかな」
再びダブルチームへ戻ってきた幽玄の言葉など朱雀には届いていない。それどころかその存在さえ、彼は意に介していない。
第四クォーター。試合が再開した。
審判からサイドラインの曲戸にボールが手渡された瞬間、森と宿間谷が朱雀のためにオフボールスクリーンをセット。肩を寄せ二人分の横幅を確保したそれを巧みに利用することで、朱雀は一瞬の自由時間を得た。
「チッ、マーク出てくれ幽玄ッ!」
「あかん…!」
そしてついに、ボールが朱雀の手に渡る。
「俺が右のコースを切るからお前は左を頼むッ!」
「任せえ。スリーも警戒や」
「当たり前だ、絶対ェ決めさせっかよ…!」
鳴神朱雀警報が発令され、最大レベルに引き上げられた水浦のディフェンス・セキュリティ。朱雀の目の前にいる二人はもちろんのこと、その他の三人もカバーの準備を万全に整えた完全な防御態勢。リングへの侵入経路は完全に断たれたようにさえ見える───
───だから、何だと言うのか?
朱雀の筋肉群にパルスが波打つ。
来る。彼の目の前に立つ二人がそう感じた瞬間───
彼の肉体は、遥か後方に転移していた。
「なっ…!?」
「…んだその速さはァ!?」
ワンドリブル。二人のマークマンの間にある僅かな隙間を、消えたと錯覚してしまいそうなほどの切れ味と加速ですり抜けたのだ。
(一クォーター目とは比較すんのもおこがましい程の超スピード!まさかこいつ、今までのプレーは本気じゃなかったんか!?)
(反応すらできなかった…!ただの一歩も、動けなかったッ!)
ツードリブル。エリーが動く。朱雀の侵攻を撃退するべく、その進行方向に両手を広げて立ちふさがる。
しかし朱雀の勢いは衰えないどころか、むしろ更なる加速を見せた。門番が待つゴール下へ向けて一片の迷いもなく愚直に直進していく。そしてペイントエリアを目前にして、彼の身体が宙に舞う。
「エリー相手にそのまま突っ込むんか!?」
「舐め腐るのも大概にしろよなァ…!叩き落としてやれ、エリーッ!」
目指すゴールの目の前には難攻不落の巨城が一つ───
───だから、何だと言うのか?
今の朱雀にはそんな些細な障壁など何の問題にもならない。彼は今、“完全に”集中している。
今までずっと何かに気を散らしていたというわけではなかった。
しかし人間が“ただの集中”で出せる力は、甘めに見積もってもせいぜい八十パーセント。百パーセントには程遠い。
だが敗北の二文字がすぐ背後に迫った危機的状況下で、極限まで追い詰められた朱雀にかかる精神的ストレスとプレッシャーは、彼の集中力を“明鏡止水”の領域へと研ぎ澄ましたのだ。
そして突入する“無我の境地”。
鳴神朱雀は今、持ち合わせた天賦の才を百パーセント引き出すに至った。
「く、空中で…」
「一回転だとォ!?」
飛びかかってきたエリーのブロックに対して、朱雀は空中で身体を三百六十度旋回してかわす奇想天外な回答を突きつける。
前に向かうエリーの身体の側面を回転しながら滑るように移動した後、誰もいない無人のリングへと彼はボールを放り上げた。
△▼△▼△▼△
「戻れ、戻れーッ!」
反響する悲痛な叫びとともに、ドタバタと走りだす黒と青のリバーシブルたち。その先頭を駆ける堀内の心を絶望が覆いつくす。追いかけている背中との距離は、走れど走れど縮まることはない。相手側はドリブルをしているというハンデを貰っているにもかかわらず、だ。
(お、追いつけねえ!こうなったらもう…!)
苦渋の決断。それは前を走る朱雀の身体に抱きつき、フリースローを与えてでもその進行を止める対処療法。
堀内は朱雀の肩に両手をかけ、彼のベクトルを強制的に変更させるべく目一杯の力でそれを引っ張った。
が、止まらない。
(何だこのパワー!?こいつのどこからこんな力が…!)
体格からは想像もできない異常な超怪力。止めにきたはずの堀内の身体を逆に引きずりながら、朱雀はゴール下へ到達せんとする。
鳴らされる笛。
直後放たれたボールは見事にリングの中央へ。
バスケットカウント・ワンスロー。
「「「「うわあああああああ!」」」」
言葉にならない驚嘆の阿鼻叫喚を振りまきながら、春陽の四人が朱雀の元へと駆け寄っていく。ある者は笑い、ある者は彼の身体をひたすら叩き、ある者は信じられないといった様子で首を横に振り続ける。
「これで何連続やねん…」
「凄すぎる。これが」
「鳴神朱雀かァ…!」
「パワーもスピードもスキルも、何もかもの次元が違う」
「Il n’est pas humain. Dieu sous la forme d’un être humain.(あんなの人間じゃない…人間の姿をした、神だ)」
恐怖、絶望。水浦の五人が感じたのは、それらのネガティブな感情を超越した“畏敬”。事象を超えた“神秘”と呼ぶに相応しい神業は、人間が超自然的存在に対して抱く感情を彼らの中に誕生させていた。
しかしそんな喧騒も、朱雀の意識からは完全に蚊帳の外。
彼の興味を惹きつけるのは、タイマーに表示された数字のみだった。
5:30。54-65。
あと十二点。
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