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ぼうっと混濁した意識からようやく龍臣が顔をあげた時───いつの間にか不快な汗にびっしょりと濡れた彼の身体は、寂しくベンチの端に佇んでいた。
頭長から肩にかけてだらりと垂れ下がったスポーツタオルが、やや俯き加減な彼の表情を覗き見ることをより一層困難にさせていた。しかし、ほとばしっていたはずの野生がすっかり鳴りを潜めてしまったその姿は、それを覗くまでもなく彼の心境が絶望のどん底にあることを悟らせるものだった。
第三クォーターを間もなく終えようとしている目の前の試合に、自分の姿はない。受け止めきれない現実に奥歯を嚙みしめる龍臣は、足元に刻まれた規則正しい木目にそれから逃げるための場所を探した。
なぜこうなってしまったのだろうか。抑えきれない無念の情が、濃霧に包まれたような彼の記憶に一筋の光を照らした。
△▼△▼△▼△
「キャプテン」
幽玄の言葉が龍臣に与えた精神的ショックは、彼にその場から動くことを許さない。茫然自失と立ち尽くす彼を見かねたように、朱雀が宿間谷に進言した。
「あいつを交代させて」
「青影をか?」
「いいよね、龍臣」
肩の落ちた彼の背中越しに声をかけた朱雀だったが、龍臣からの返答はない。
「青影?おーい、青影!」
「呼んでも無駄ですよ。聞こえてないから」
試合が再開に向けて動いている中でも、彼の時間だけは止まったままだ。“流れ”の中に彼一人だけがのめり込めていないのは、もはや自明だった。
「仮にただ無視しているだけだとしても、何も言い返してこない時点でいつものあいつじゃないでしょ。今の龍臣には戦いに必要な覇気がない。あんなのをコートに置いて置く意味なんてない」
その言葉と龍臣の姿を念頭に置いた宿間谷の脳裏には、提案を受け入れる以外の選択肢など何一つ見当たらなかった。そしてベンチに座る面々を一人一人確認していく。
「…森!青影と交代だ!」
「了解です!」
指名された森がコートに足を踏み入れ、龍臣といくらか言葉を交わす。
やがて龍臣は、黙ってベンチへと引き上げていった。
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回想を振り払い再び龍臣が顔を上げた時には、第三クォーターは既に終わってしまった後だった。
ベンチに戻ってくる選手たちの顔は険しい。それもそのはず、表示されているスコアは41-59。点差は二桁へと拡大したうえ、春陽のオフェンスは龍臣の離脱からたったの一度しかボールをリングに通すことができていないという散々な結果に終わっていたのだ。
「鳴神くん」
ベンチに戻ってきた大雅が朱雀に声をかけた。心配そうに龍臣を見る彼の眉毛は、いつもよりも何割増しかで角度の急なハの字を描いている。
「青影くんは…」
「多分この試合にはもう戻れない」
「そ、そんな!」
「大丈夫。あいつは必ず今日を乗り越える。必要なのは時間さ」
「それならいいんだけど…凄く落ち込んでるみたいだから…僕心配で…」
「それよりも今は目の前の試合だよ、大雅。俺たちは負けてるんだから」
「うん…」
その時朱雀は、水分を補給する大雅のふくらはぎがピクピクとほんのわずかに痙攣していることに気が付いた。
まずい。朱雀の全身からさっと血の気が引き、身震いするような悪寒が彼の背筋を伝う。
無理もない。大雅は自分よりフィジカルの強い相手と何度も衝突し、幾度となくリバウンドやブロックに飛び、速攻のシチュエーションではその先団を常に全速で駆けている。
そして何より県内王者を相手どった試合にフル出場。バスケットボールを始めて僅か一週間足らずの男が、だ。それらを考えれば、試合が終わるよりも前に身体が限界を迎えるのはもはや自然の摂理でさえあると言えるだろう。
しかしここで大雅を失うわけにはいかない。大雅がラインナップから外れてしまえば、春陽はエリーを止める手段が無くなってしまう。そうなれば、ジ・エンド。正真正銘の終わりが訪れる。
(あと十分…大雅の負担を少しでも)
水分を取り終えた朱雀はその場から立ち上がると、ベンチ全員に対してこう告げた。
「第四クォーターのオフェンス、速攻はなしで。そしてボールは全部俺に回してください」
ベンチがざわつく。
「ちょっと待て鳴神。ボールをお前に回すのはまだしも、速攻なしってのはどういうことだ」
「能力で劣っているからこそ、俺たちは走り勝つことに活路を見出さなきゃいけないんじゃないのか」
「半端な速攻を出すよりも、俺がハーフコートでボールを持った方が点は決められる。無駄に走ってスタミナを使うぐらいなら、それをディフェンスに割いて失点を減らして欲しい」
たまらず曲戸と宿間谷がぶつけた反論を、朱雀は超然と拒否した。
「これは徒競走じゃない。俺たちがやってるのはバスケットボールだ。“走り勝った”ところで点を決められないんじゃ意味がないんですよ」
語勢を強めた彼の言葉と同時に、最終ラウンドの開始を告げるブザーが鳴る。コートへと歩き出す彼の双肩には、それ以上反論する隙を与えない強い意志がのしかかっている。
「ハーフコートに入ったら、俺についてるダブルチームをスクリーンで引き剝がして。ボールさえ持てば、俺は例えディフェンスが五人居たって点を決められる」
そして後ろを振り返った彼の瞳には、凝縮された矜持が燦然と燃え上がっていた。
「俺は“天下無双”の鳴神朱雀だ」
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