スリーデーマーチ殺人事件
この推理小説の第1話比企の風から第4話熊野三山までは、過去に存在したネット小説投稿サイト、e-ペンギンで発表した小説です。部分的な修正はありますが、内容は同じです。第5話に『志摩の真珠』を投稿しました。
大和太郎事件帳:第1話《比企の風》
〜スリーデーマーチ殺人事件〜
比企の風1
プロローグ;
東武東上線池袋駅かJR池袋駅の北口改札を出て地下道を通り池袋西口広場に上がると正面にマクドナルドの看板が目にはいる。そこから、右方向に目を移していくと、極上ネタ・格安会計弁慶寿司』の看板が掛かる間口4メートルくらいの小さなすし屋がある。このすし屋の看板には、もうひとつの案内が書かれている。
《大和探偵事務所 よろず相談、調査を安価にお請けいたします。当すし屋にお尋ねください。》
40歳くらいの小奇麗な婦人が、この寿司屋に入っていくのを女子大生らしき3人ずれが横目で見ながら歩いていく。初秋の日差しを感じる十月十四日の午後の出来事である。
「いらっしゃいあし」
弁慶寿司の板前が昼食のサラリーマンが出て行った後のガラーンとした店内に入ってきた婦人に向かって、威勢良く挨拶する声が表通りまで聞こえている。
「あの、大和探偵事務所は?」
「ああ、私立探偵さんね。そこのピンク電話で、そこに書いてある電話番号にかければ、つながるよ。」と、板前が部屋の隅の電話の方を指しながら答えている。
「ここには、事務所がないのですか?」
「ああ、探偵さんは東松山にいるよ。電話で話してみな。」
「ありがとうございます。」
婦人が電話をかけると、向こうから男の声が返ってきた。
「はい、大和探偵事務所です。」
「あの、相談事があるのですが。」
「どのようなことでしょうか?」
「あの、電話ではちょっと・・・・・。」
「ああ、失礼いたしました。今、どちらですか?」
「池袋のお寿司屋さんですが」
「では、よろしければ、電話の横に置いてある地図をみて、東松山まで来て頂けないでしょうか?だめな場合は、どこか都内のホテルのロビーでお会いしてお話をうかがいますが。」
「では、これから、そちらに向かいます」婦人が地図を見ながら返事をした。
「えーっと、東上線東松山の西口駅前でよろしいのですね。」
「そうです、看板が出ていますので、すぐわかるとおもいます。東武東上線で1時間くらいですので、今からですと、2時半くらいには着けると思いますよ。お待ちしています。」
婦人は、板前に挨拶をしてから表にでて、西口広場から地下道への階段を下りていく。池袋はよく来るのであろう、わき目も振らずに東武東上線の方向へ歩いて行った。
比企の風2
依頼;
東武東上線東松山駅の改札を出て西口階段をおりると正面に『大和探偵事務所 〜よろず相談、調査を安価でお請けいたします〜』の看板が目にはいる。
婦人は『事務所ココ→』と看板にかかれた矢印の方向にある3階建ての小さなビルの2階に上がり、大和探偵事務所とかかれた小さなドアーの横にあるインターホンを押した。
「ぞうぞ、お入りください。」男の声で返事がした。
婦人が中にはいった。
10畳くらいの広さの部屋の窓際に事務机が置いてあり、30歳台半ばと思われる男性が
ネクタイ姿で事務机にすわっているのが目に入った。
「そこにお座りください。」と男が新調したばかりと思えるソファーを指して言った。
「大和太郎と申します。」 男は名刺を婦人に差し出しながら言った。
「山田美穂と申します。」婦人が挨拶した。
「わざわざ、東松山までおこし頂いて恐縮です。早速ですが、ご用件は?」
婦人は、相手が若いので、しっかり調査できるのだろうかと不安に思いながら言った。
「あの、大和さまはこのお仕事は長いのでしょうか?」
「ええ、大学を出てから、5年くらい弁護士事務所で調査助手をしてから、この稼業を始めましたので、10年くらいのキャリアになります。」
「左様ですか。あの、実は、主人の浮気の調査をお願いしたいのですが。」と婦人は安心したように言った。
探偵のキャリアが短ければ、このまま帰ろうと考えたのだが、10年と聞いて依頼するに足りると判断したようである。
このとき、
「タローいる?」と制服姿の女子高生らしき女の子がノックもせずに入って来た。
「あ!お客さん?」と女子高生はびっくりしたように言った。
「失礼しました。私のアルバイト助手です。」と大和が婦人に説明した。
「お客様にお茶だしてくれる。直子。」大和が言った。
大和探偵事務所の在る東松山市は1954年(昭和29)に松山町と他4村の合併で出来た市である。四国の松山市と区別するため東の松山と言う意味で名づけられた市であるが、歴史は古く、この地の箭弓稲荷神社(和銅5年創建)の由緒書によると、箭弓稲荷のご神威を受けて源頼信が平忠常の反乱を抑えたころから東松山の繁栄が始まったらしい。
婦人の依頼内容はつぎのような事であった。
《婦人の夫が約2週間後の11月2日から4日にかけて、東松山市を中心として行われるスリーデーマーチに参加する。このとき、浮気相手と一緒に参加するのではないかと婦人は考えており、浮気の証拠写真を撮ってほしいという事であった。たまたま夫が携帯電話を持たずに会社へ出かけたあと、夫の携帯が鳴り、婦人がNHKの朝のドラマを見てから、携帯の留守伝をきくと、若い女の声で、スリーデーマーチで会えるのが楽しみであるといった内容の伝言が入っていたとのことであった。婦人の夫はウォーキングが趣味で、土、日用は散歩に2時間から3時間かけているらしい。また、ハイキングも月に1〜2度くらいは定期的に行っているとのことであった。婦人にはウォーキングの趣味はないらしい。》
比企の風3
作戦会議1;
「何で私がアルバイト助手なのよ!!」直子が怒ったように大和に言った。
「いやー、ごめん、ごめん。初めてのお客なので、逃がしたくなかったんだ。直子のおかげで、ご夫人は安心したみたいだよ。」
「うそー。そんなので安心なんかしないわよ。もっと他にうそついたでしょ、タロー。あなたみたいな新米探偵に安心する依頼人なんていないわよ。ちがう?タロー」
「その、タローという言い方は何とかならないのか、直子。犬を呼んでいるみたいで、格好悪いじゃないか。」
「だって、私のペット犬に似た顔だから、タローでいいじゃん。で、どんな嘘をついたのよ!悪党さん。」
「おいおい、悪党はないだろ。商売では、嘘も方便ということわざがあるんだ。嘘によってお客さんが安心して良い商品を購入できることは、お客にとっては価値あることなんだから。わかるかなー、わかんねーだろーなー。」
「わかったわよ。あなたは頭が良いのは確かだから、ご婦人としては、いい探偵を見つけたと思うけど。だから、どんな事を言って安心させたの?初めてのお客さんに。」
「だから直子が好きなんだよな、俺。物分りが良いというのは美徳だよ、直子ちゃん。」
「・・・・・・・」
「いやー、簡単なことなんだ。10年間、この稼業をしていると言っただけさ。だって、学生時代を含めて、19年間推理小説を愛読し、研究してきたんだから、10年のベテランと言っても可笑しくないだろ。10年でも短いくらいだよ。じゃない、直子ちゃん。」
「ま、いいか。でこれからどうするのよ。ひとりで調査できるの。」
「まかしてくださいよ。伊達に推理小説を読んできたんじゃないんだから。もう頭の中で、調査方法は出来上がっているよ。だからアルバイト助手が必要なんだ。直子手伝うだろ。」
「え、私が入ってきたあの時にもう、助手にする気だったの?」
「ご明察。あんたはエライ。その理解力が助手にぴったりなんだ。計画はこうだ。」
突然、真剣な顔になった大和が直子に説明をはじめた。
その1、スリーデーマーチの内容理解のため、市内にあるウォーキングセンターに調査にいく。
その2、ウォーキングのコースを調査する。
その3、婦人の夫である山田武雄は3日間宿泊するらしいので、ホテルがどこかを婦人の情報から確認する。情報の通りとは限らない。あらゆる手段で宿泊ホテルを確認する。
その4、浮気相手の行動がどのようになるかを想定して、網を張る方法を考える。いい考えが出ない場合は、山田武雄を尾行して、手がかりを掴む。
その5、カメラは現在所有しているデジタルカメラと使い捨てカメラを購入して併用する。
その6、撮影はフラッシュのいらない昼間を基本とするが、状況によって夜間でも明かりの在るところで撮影する。暗いところでの撮影は三脚にデジカメをつけて長時間露出でフラッシュなし撮影をする。この場合はピンボケになる場合もあるので、長時間動かない環境での撮影をこころがける。
その7、移動手段は基本として、直子は自転車かタクシー。大和は愛車のバイクかタクシーとする。長距離移動の場合は電車とタクシーを利用。場合によりレンタカー利用。
その8、連絡は互いに所有の携帯電話とする。調査費用の前払い金15万円内で行動できるよう経費節減に努める。
比企の風4
八丁湖殺人事件;2001年11月4日(日)午後12時30分頃
埼玉県比企郡吉見町黒岩八丁湖公園近くの湖畔荘ホテル620号室の宿泊客、青木武雄氏42歳が室内床で倒れているのが、ホテル従業員により発見された。
死因は後頭部頭蓋骨折を伴う左頸部刺殺による出血多量と判断された。
青木氏が床に倒れているのが発見されたときは、顔に青木氏の衣服が掛けられていた。
11月5日(月)午後1時頃
吉見地域の管轄をしている東松山警察署の記者発表文のコピーを見ながら、大和太郎は「ふー」とため息をついた。
まだ警察には行っていないが、青木武雄は自分の調査対象である山田武雄と同一人間の可能性が濃厚であると、大和は考えている。これから、東松山署に行って死体の顔写真を確認しなければならない。もしそうであったら、調査依頼人の山田美穂に何と言えばいいのだろうか、と考え込んでしまう自分がなんとも惨めであると思う太郎である。
「神崎と申します。」と挨拶しながら警部が丁寧に言った。
「探偵をしております大和と申します。」名刺を差し出しながら太郎が言った。
「八丁湖の殺人の件との事ですが、何かご存知ですか?」
「はい、ちょっと気になることがありまして。」
「・・・・・」神崎が胡散臭そうに太郎をジロリと見た。
「私の調査依頼人のご主人ではないかと思いまして。」と太郎は、山田武雄の写真をポケットから取り出して、神崎警部にみせた。
「あっ」と神崎はいって、横にいた林刑事に写真をみせた。
「この写真はどこで入手されましたか。大和さん」と林刑事が言った。
「私の調査依頼人からお借りしたものです。」
神崎と林は応接室の隅に行って、ヒソヒソ話を始めた。太郎は、婦人警官が出してくれたお茶
を口に含んで待った。
「依頼人の方のお名前と住所をお教え願えますか、大和さん。」と神崎警部が言った。
「山田美穂という埼玉県川口市の方ですが。」といいながら、事前に用意してきたメモをポケットから出して、神崎に渡した。
「大和さん、今日は、これで結構です。またこちらから連絡いたします。名刺の住所に連絡すればよろしいですね?」と神埼警部が、促すようにドアーの方を指さして言った。
「あの、被害者は写真と同じ・・・」と大和が言いかけたところで、
林刑事が大和の腕を取って、「また、連絡します」と強引にドアーの方へ引っ張った。
比企の風5
スリーデーマーチ;
今年のスリーデーマーチは、2001年11月2日(金)の午前6時50キロ徒歩コースの出発を最初として、30キロコースが午前7時、20キロコースが8時に、10キロ、5キロも順次、徒歩距離にあわせて、スタートがきられた。
このウォーキングイベントは2日(金)、3日(土)、4日(日)と中央会場の松山第一小学校をスタート・ゴール地点として、埼玉県の比企丘陵周辺において、3日間コースを変えて毎年行われる国際大会である。2001年は24回目になる。中央会場には、大型映像TVのトラックが設置され、その前でいろいろの催しが行われる。TVカメラで撮影したコースの模様などを大画面に映し出したり、音楽イベントを行ったりしている。
完歩して戻ってきた人は会場の運動場に敷き詰められたゴザのうえで、宴会等をはじめて、参加者同士、互いの親交を深めたりしている。また、多くの屋台が出ており、食事で疲れを癒している人もいる。3日連続で参加する人もいれば、1日だけの参加の人もいる。
スリーデーマーチの発祥はオランダであるらしく、今年もオランダから軍人の人々が迷彩服姿
で参加している。
山田武雄は11月1日(木)の午後10時20分に東武東上線東松山駅東口近くのビジネスホテル『東松山1番館』にチェックインしている。山田美穂からの情報では、スリーデーマーチのため、今年の5月に一人分の予約をしたらしい。毎年宿泊するホテルとのことであった。
山田武雄42歳。川口市商工会議所青年部の元議長をしていた、川口市の企業若手リーダーである。今は商工会議所の仕事からは離れているらしいが、時々、顔をだしているらしい。
T電機大を卒業後15年間コンピューター企業NHCの開発部で仕事をしていたが、5年前にベンチャー企業『(株)情報基盤総合研究所』を創始し、自分は専務取締役している筆頭株主である。社長は、コンピューター企業NHCの元取締役をしていた根本潤一郎67歳である。根本は山田武雄の妻である美穂の父親である。
妻、山田美穂38歳。『(財)日本証券業総合研究所』主幹研究員であり、家事もしている。
武雄と美穂の間には子供はいない。美穂は川口市市議会議員を目指しており、県南4市の合併運動を推進している。私学W大学卒業の才媛である。
美穂の話では、山田武雄は30キロコースを3日間歩く予定であったらしい。
1日目は北西コースと呼ばれる、和紙の里小川町と武将畠山重忠が住んでいた菅谷館跡という昔の城郭跡のある武蔵嵐山を歩く。
2日目は東北ルートと呼ばれる、昔の横穴式埋葬場所であった吉見百穴と八丁湖公園、武蔵森林公園を歩く。
3日目は西南ルートで、鎌倉街道の笛吹峠、NASDAの地球観測センターや岩殿観音、東京電機大鳩山校舎、千年谷公園のある都幾川をわたる方向を歩く。
比企丘陵地域の歴史は、欽明天皇(在位540年〜571年)時代からの日置部という太陽神霊の日(火)継ぎ神事を司る地方豪族の支配・発展と密接な関係があるらしい。文字としての『比企』の由来は鎌倉時代源頼朝の乳母の比企禅尼の甥、比企能員が権勢を振るった名残が文字として残っているらしい。北条政子も比企邸で2代将軍頼家を出産し、能員の妻が乳母になっている。比企一族を頼朝が重用したのは、伊豆に流されていた時、唯一、比企禅尼が食料調達の役目を行ったことに対する恩返しの為であったらし。北条政子は乳母の件や能員の権勢が増大していることから、比企一族に危機感を憶え、比企一族の消滅を画策していったらしい。頼家が比企家に取り込まれていた為、鎌倉幕府は北条一族のものになっていく事になる。
文字自体は平安時代に『比岐・比企』としての表現がなされている。
比企の風6
捜査会議1;11月5日(月)午前10時
山田武雄は、第1日目(11月2日金曜)は6時30分にホテル東松山1番館で朝食をすませ、7時10分頃ホテルを出ている。ホテルに午後2時頃帰って来て、午後3時30頃再度ホテルを出て八丁湖湖畔荘ホテルに行っており、この日、1番館ホテルに戻って来たのは午後8時30分頃であったらしい。
2日目(11月3日土曜)は7時に朝食をすませ、7時40頃ホテル東松山1番館を出て行っ
たらしい。
1番館ホテルに午後3時頃帰ってきて、4時頃、再度出て八丁湖湖畔荘ホテル行っている。戻りは午後10時。
3日目(11月4日日曜)も午前7時に朝食をし、7時40分頃出発している。この日は朝チェックアウトをし、荷物は午後までホテルが預かることになっていたが、戻ってこなかった。
この日の午後12時30分頃、八丁湖湖畔荘ホテルで死体として発見された。
以上が、山田武雄の3日間の概略足取りです。
なお、青木武雄こと山田武雄は、八丁湖湖畔荘ホテルに青木武雄の名前で宿泊手続きをしています。別の部屋には青木智子なる女性が青木武雄の妹と称して宿泊しています。年齢32歳と宿帳に記入しています。
なお、二人とも、11月2日(金)夜から11月4日(日)朝までの2泊3日の宿泊予定になっていました。青木智子なる女性は、4日の朝、青木武雄の分も含めてチェックアウトしています。
被害者の住所にはこの後から行ってみます。宿帳によると、埼玉県内の川口市です。
林刑事が11月5日(月)午前10時からの捜査会議で調査報告した。
比企の風7
大和探偵事務所1;
11月5日(月)午後6時頃、山田美穂と根本潤一郎が大和探偵事務所を訪れた。
「東松山警察署に行ってきた帰りです。」赤く目を腫らした山田美穂を横にして根本が言った。
「やはりご主人でしたか?このたびは、申し訳ありませんでした。私がもっとしっかりしていれば、このような事にならなかったかも知れないのが、残念です。」と大和が言った。
「大和さんの責任ではありません。単なる、浮気調査ですので、四六時中監視するわけにはいかないでしょうから。」と、根本が答えた。
「ところで、調査費の前金の返却の件ですが、すでに使用した経費を差し引いてお返しいたしますが、領収書のない分もありますので、後日清算としていただきたいのですが?」
「いえ、返却は必要ありません。継続調査をおねがいいたします。手がかりありますでしょうか?」と山田美穂が小さな声で言った。
「浮気相手と思われる女性の写真は撮れていますが、正体はこれからです。ただ、ご主人がなくなられていますので、浮気の確証や女性の身元確認に難航が予想されます。でも、これ以上の調査はあまり意味がないのではないでしょうか、ご主人が亡くなられた今となっては。」
「いえ、浮気の件は今、はっきりしておかないと、後日どのような話が発生するとも限りませんので、ぜひ真実の解明をお願いいたします。私自身の今後の気持ち持ち方にも関係する問題ですし。」 山田美穂はきっぱりと言い切った。
「わかりました。私としても、中途半端な形では終らせたくないので、全身全霊を投入いたします。」
山田美穂は政治家を目指しているので、身に覚えのないスキャンダルの発生は避けたいと考え
ているのであろう、と想像しながら、太郎もキッパリと言った。
「今後の調査費については、山田専務の葬儀後にご相談させてください。」と根本が口をはさんだ。
根本は、殺人事件の犯人に興味がありそうな雰囲気で話を続けた。
「専務がなくなっていますので、調査は難航するとおもいますが、警察からうまく情報を入手すれば、真実が浮かんでくるでしょう。よろしくお願いいたします。」
比企の風8
作戦会議2;11月11日(日)夕方;東松山駅前の大和探偵事務所
「この写真の女性について、警察は追跡するはずだ。ただ湖畔荘ホテルの宿泊名簿の記入住所から身元が判明するかどうかわからないがね。本当の住所かな?」と太郎が直子に意見をもとめた。
「従業員の話では、青木武雄こと山田武雄と青木智子は埼玉県川口市本町4−1−8の住所をつかい、兄と妹として別部屋を取って宿泊しています。予約は山田武雄がインターネットでしたみたいです。予約者のメールアドレスが山田の会社のアドレスになっていますから。この住所には川口センタービルがありますが、個人の住居らしい部屋はありません。川口商工会議所が入居していますから、山田武雄が会議所青年部のときに出入りしていたので、住所として利用したのでしょう。青木智子の名前も本名とは思えません。」とアルバイト助手、直子が調査報告を太郎にした。
「別々の部屋で宿泊するなら、同じ青木姓で泊まる必要はないのでは?よくわからないね。」
「本当の兄妹では?」と直子が言った。
「それなら、山田武雄は、妻の美穂夫人に隠してホテルを2重に予約する必要はないはずじゃないかな。ホテル東松山1番館に一緒に宿泊すればよかったんじゃないかな?」
「単に、1番館は予約が取れなかっただけじゃない。」
「それでは、1番館をキャンセルして、湖畔荘だけで宿泊すればよかったんでは?」
「んー。スリーデーマーチのスタート・ゴールに近いほうが便利だからキャンセルしなかったのじゃないかしら。きっとそうよ。」と直子が答えた。
「そうかもしれないね。とにかく、青木智子の身元確認を進めよう。二人が乗っていたこの写真の車のナンバーから何かわかるだろう。《福島わ》ナンバーだからレンタカーだ。ナンバーのアップ写真だけじゃなく、レンタカー会社のレッテルも写真に撮っておけばよかった。とにかく福島県のレンタカー会社をあたろう。」
「ホテルの従業員の話だと、車は、いつも女性が運転していたみたい。太郎は山田武雄を尾行していたのだから、女性と歩いている姿を目撃しているのでしょ。」
「ああ、1日目は30キロコースをスタートからゴールまで尾行したが、山田武雄はずっと一人だった。この日の夜、山田が八丁湖の湖畔荘ホテルを訪問し、二人で食事をしている写真がこれだ。山田は、4時過ぎに東松山駅前からタクシーに乗って湖畔荘に向かったので、ぼくも、タクシーで尾行した。この夜は食事までの間、山田武雄の部屋で二人は会っていた。何の話かは、ドアー越しには聞こえなかった。この夜は食事後、ふたりは、写真の車で出かけたが、僕は足がなかったので尾行できなかった。2日目は7時40分のホテル出発から尾行した。松山小学校の中央会場のゲートで二人は落ち合って、20キロコースをあるいた。この間、二人の近くを歩いたが、会話は少なかったね。ふたりは歩くことを楽しんでいる様子だった。会話の内容も風景の話とか、この地方の歴史の話が多かったね。あまり近づきすぎて顔を覚えられるとまずいので、適当に距離を置いたりしたがね。ふたりは12時前にはゴールに到着して、おでんなどを食べていたね。このあと、二人は3時頃、駅前でわかれて、女性はタクシーに乗った。山田がホテルに戻るのを確認して、僕は事務所の戻り、食事をして、バイクで湖畔荘に向い女性を監視した。6時頃に山田武雄があらわれ、二人はホテルで夕食をしている。この写真がそのときのものである。」
「あれ、山田武雄は携帯を右手にもっているけど、このあと電話していたの?」と直子が訊いた。
「ああ、相手からかかって来たみたいだが、1分ほど話して、電話を切っている。遠くから見ていたので話の内容は不明だ。このあと、話声が聞こえる距離まで近づいたのだが、電話はかからなかった。二人の話は、子供の頃の話をしていたみたいだが、私の目的は浮気の確証を得ることだったので、証拠写真がとれればOKとおもって、数分でその場をはなれ、ロビーから二人の動き監視した。食事の後二人は山田の部屋に入っていったのがこの写真だ。午後9時30分頃二人は車で湖畔ホテルをでたが、山田をホテル東松山1番館に送っただけだった。バイクで追いかけた効果はなかった。」
高橋直子18歳。大和探偵事務所から500メートルくらい離れたところに位置する県立東松山女子高校の3年生である。部活はサイクリング部に属している。ミステリー小説研究部を学校に働きかけて、今年4月創部したが、入部者がいないため、部の顧問の井上教諭と二人で部活をおこなっている。直子は中学時代からテレビで両親が見ているミステリー番組に付き合っているうちに、両親以上にミステリーが好きになってしまったらしい。部活といっても、ミステリー小説の読書感想や推理の矛盾を発見して意見交換するのが主な活動であるため、部活動といっても、「有って無きが如し」の状態である。
「女学校のサイクリング部とはなんだ」と太郎はおもっている。
「女の子が自転車などやると足が太くなって困るだろう」と太郎などの男は考えるものだが、女の子は、アメリカの大学のキャンパスでホットパンツの女子学生が自転車で通学している姿にあこがれて、自転車に乗っているだけらしい。だから、サイクリング部といっても長距離や坂道の登り降りはしなくて、もっぱら、学校の近くを流れる都幾川の土手を毎日1時間くらいのんびり走る、サイクリングならぬ散歩リングをしているらしい。年2回春と秋に日帰りの遠出をするのがサイクリング部らしい、と言えばいえる。
大和太郎との出会いは、太郎が今年の9月に探偵事務所を開業して1週間くらいしたとき、直子が、事務所にはいってきてミステリー小説研究部の話をはじめたのがきっかけである。
太郎も客がいないので、暇つぶしに相手をしていたら、女学校の帰りに立ち寄る習慣ができて
しまい、現在に至っている。
「3日目が失敗だった。」大和太郎は、眉をひそめて何度も述懐した。
前日と同じように、ホテル1番館の表で待っていたのだが、この日は午前8時30分になっても山田は出てこなかった。出てこなかったのではなく、ホテルの裏出口から7時40分頃出て行ったらしい。もっと早く気が付いて、ホテルのフロントに訊ねるべきであったが、必要な写真は撮っていたので油断してしまった。
山田武雄はチェックアウトを済ませると、ホテル裏の駐車場横の物置に荷物を預けに行って、
そのまま、裏道から中央会場に向かったらしい。太郎は後から20キロコースを追いかけたが、山田武雄と青木智子の姿は発見できなかった。途中で引き返してきて、中央会場のゴール付近で二人の帰りを待った。だが、午後2時になっても二人は戻ってこなかった。3時頃になってゴール横にある朝日新聞の出店テントがざわついているので話を訊くと、八丁湖で殺人事件が発生したらいというので、《もしや》と思って、事務所に戻り、バイクで湖畔荘ホテルにいくと、案の定であった。
「大失敗だ。」 頭を抱えて太郎は何度も呟いた。
「青木智子は宿泊簿に32歳と記入しています。」
「話していた言葉の感じから東京近郊の女性ではないと思うんだ。なんとなく地方訛りがあった気がする。んー。どこの方言かな?」と太郎は思い出すように、直子に話した。
「警察には、私たちの持っている情報をつたえるの?」と直子は訊いた。
「いや、警察もホテルの従業員からの情報でかなりの事をつかんでいる。今のところ、我々は独自の調査を進めよう。われわれは、殺人の捜査ではなく、浮気の調査が目的だからね。警察から変な目で見られると、調査活動に支障がでてくるかもしれないからね。今週で初七日が終わるので、山田美穂さんと根本社長から周辺情報を聞き出してくるよ。来週の土曜の午後また作戦会議をやろう。」
比企の風9
(株)情報基盤総合研究所;
11月14日(水)大和は根本社長を訪問した。
JR京浜東北線川口駅から国際興業バスで15分くらいの総合高校バス停留所で降りて、3分くらい歩いた住宅地の中にある。近くに2003年2月オープン予定の埼玉県映像関連施設SKIPシティの工事現場があり、50mくらいの高さのクレーンが10本以上林立している。
この場所は以前、NHKのラジオ送信アンテナのあった場所らしい。
(株)情報基盤総合研究所は川口市上青木の3階建ての自社ビルである。敷地は30坪程度である。
3階の社長室横の応接室に案内されると、すぐに根本社長と山田美穂が現れた。二人とも、待ちかねていたといった表情である。
「今、青木智子という女性が山田武雄さんと会っていたことがわかっています。この写真の女性です。本名かどうか不明ですが、ホテルの宿泊名簿にはそうなっています。こころあたりはありますか?」
「警察からも同じことを質問されましたが、まったく知りません。この女性が浮気相手ですか?」と美穂が訊いた。
「この女性は、湖畔荘ホテルで武雄氏と会っていますが、浮気の現場という雰囲気はありませんでした。雑談とか、お互いの思い出話とかをしていました。お友達という雰囲気はありましたが。今のところ、これくらいしか判っていません。この女性のことばに微妙な訛りがありますから、東京の人ではないと考えています。それから、この女性が乗っていた福島ナンバーのレンタカーの写真がこれです。これから、福島県へ調査にいきますが、実は、経費がなくなってきていますのですが・・・。」と大和がいうと、
「判っています、ここに50万円準備しました。これで継続調査をお願いいたします。」と封筒を差し出しながら、根本社長がいった。
「この女性が夫殺しの犯人なのでしょうか?」と婦人が大和に訊ねた。
「判りません。殺人犯は警察の管轄です。私は浮気の真偽の解明を目的に調査活動いたします。そういうことでよろしいでしょうか?」と大和は言った。
「結構です、今後もよろしく。」と根本社長が言った。
「ところで、仕事上でこの女性と接点があった可能性を知りたいのですが、福島方面で仕事の取引先とかはございましたでしょうか?」
「特にありませんが、郡山の『うつくしま未来博』という地方博覧会に7月頃出かけています。これは、今後の通信環境の将来展望を確認調査するのが目的でした。1泊しております。
仕事関係では、会津若松のA大学に高速コンピューター関係の機器を借りに行くことはありますが、取引先はありません。川口市内の企業がほとんどです。」
「そうですか。それでは私はこれにて失礼いたします。また、ご報告いたします。」
比企の風10
郡山レンタカー追跡;11月15日(木)午前11時10分頃 Nレンタカー郡山駅前営業所
「11月2日に白色のサニーを借りた女性がいるか探しているのだが、こちらの貸出し記録を調べてもらえないかな。」 と林刑事がレンタカー会社の従業員に尋ねた。
「またですか、刑事さんがくる30分前に、同じことを訊いた男の人がいましたよ。でも私どもには該当するナンバーのサニーは所有していませんでした。」
「今、何といった?車のナンバーをそいつは知っていたのか。」と林はあわてて聞き返した。
「ええ、白いサニーの写真とナンバープレートの写真を見せて、訊いてきましたが。」
「そいつは、どんな奴だった?」
「んー。痩せ型の35,6歳といった感じでしたけど。」
「どこから来たといっていましたか?」郡山警察署の刑事が訊いた。
「埼玉県の方への旅行した人はいないかって訊いてきましたから、東京近辺の人かな?」
「で、その男はどこかへ行く、とか言っていませんでしたか?」
「福島陸運支局の場所を教えてあげました。そこで調べれば、車の所有が判明するのでは、と教えましたけど。陸運支局への行き方を訊いてきましたから、陸運支局へいったのでは?そこの高速バス停留所を教えました。福島県庁行きに乗って、50分くらいで陸運支局前に着くと教えましたよ。今しがた出たバスにのったのでは?」
「ありがとう」といって二人の刑事はレンタカー営業所を飛び出し、自分たちの車に乗った。
比企の風11
福島陸運支局;
「やはりお前か」と先に到着して高速バスの到着を待ち構えていた林刑事が行った。
「ああ・・?何故ここにいるんですか?」と大和は驚いて言った。
「お前、車のナンバーを知っているのだろ。何故だまっていた。」
「黙っていたんではなくて、あなた方が私の話を聞こうとせずに追い返したんじゃないですか。青木武雄が山田武雄ではないかと申し上げたとき、サニーの写真も持っていたんですから。」と大和は憮然として言った。
「まあいい。一緒に陸運支局に行ってやろう。お前一人じゃ、ナンバーから車の所有者は教えてもらえないからな。警察の許可がないと、陸運局は教えないことになっている。」
「そうなんですか。それは助かります。」
比企の風12
捜査会議2;11月16日(金) 東松山警察署
「青木智子の乗っていたレンタカーのナンバーは廃車されていました。車は10年前にNレンタカーから中古車販売業者に売られていますが、この時点で一度廃車手続きがされています。車種もサニーではなく、カローラでした。探偵大和の撮った写真は事実と思われますから、ナンバープレートは偽造されたものか、廃車プレート処理時に紛失したものが何らかの経路で、何らかの意図をもって女の車に取り付けられた、と言えます。この意図が殺人犯人によるものかどうかは不明です。また、青木智子なる女性も、福島県とはなんの関係もない人間かもしれません。ただ、プレートが偽造だとすれば、犯人は板金工場と接点のある人間の可能性も考えられます。」林刑事が捜査会議で報告した。
捜査本部の指揮は県警本部から派遣された大滝刑事部長がとっている。東松山署の刑事だけでは人手がたりないので、近隣の西入間署と鴻巣署、上尾署から応援として6名派遣されている。
総勢12人の関係者が専任で捜査にあたっている。
「よし。当面、被害者山田武雄の仕事関係で板金工場かそれに関係する人間がいないかどうかを調査していこう。川口市だから鋳物工場の関係者も視野にいれて調査するように。それから、山田武雄の会社のトラブル関係の調査も早く進めてください。それから、事件現場の湖畔荘ホテルに残されていた指紋および毛髪の血液型と近親者の関連とアリバイを早く調べてください。あーと、それから、被害者の所持品に関連する事項の調査・確認も早く行ってください。初動捜査を間違うとお宮入りになるからな、この事件は。」と大滝刑事部長がいった。殺人事件などあまり経験のない警察署のため、どうしても動きが遅い。このため刑事部長は多少イライラが募っているようである。
昭和30年代の埼玉県川口市は鋳物工場全盛の時代で、『キュポラのある街』と呼ばれ、吉永小百合と浜田光男が主演する映画が有名になった街である。いまは、鋳物工場もほとんど消滅し団塊の世代ジュニアである独身の若者が多く住む、首都圏近郊住宅の街になってきている。市も情報基盤整備に力をいれて、若者の仕事場創出に努力している。その一環として、県映像情報産業技術拠点のSKIPシティ計画誘致に市長をはじめとして川口商工会議所が奮闘、努力した経緯がある。
この流れに乗ってベンチャーを起業して成功しているのが山田武雄であり、(株)情報基盤総合研究所である。
(株)情報基盤総合研究所の主な仕事は、情報技術を利用したビジネス開発のコンサルタント
業務である。ビジネスモデル特許と呼ばれるアイデア主体の案を考えて特許を取り、このアイ
デア特許の利用許諾による特許使用料を収入源としている会社である。このため、特許係争が
多く、弁護士、弁理士との付き合いも多い。弁理士は特許庁に提出する特許申請書類を作成し、申請代行を行う人である。特許申請書類はその権利範囲をなるべく広く取れるように書く必要から、専門のテクニックと知識を有する弁理士が重用されている。
比企の風13
作戦会議3;11月17日(日)夕方;東松山駅前の大和探偵事務所
「車のナンバープレートは偽造だった。この写真のナンバーはすでに廃車されていた。この筋からの追跡は断念する。」と太郎が直子に言った。
「これからの方針は?福島県との関連は白紙にもどすの?」
「福島県に先入観は持たない事とする。関連は不明という事かな。武雄と智子のはなしぶりから、純粋にウォーキング友達と言う設定で調査していく。僕は、二人から浮気の雰囲気を感じなかった。ウォーキングセンターでの事前調査の時、何かヒントになるものはなかったか?直子。」
「センターの展示物はデジカメで撮って、写真データはそのパソコンに入れてあるわ。開いて見てちょうだい。」
「OK、パソコンを見てみよう。」
最初に、『楽しみながら歩けば、風の色が見えてくる』と書かれた石碑の写真が出てきた。スリーデーマーチの合言葉らしい。
太郎はパソコンの画面の写真を1枚づつ拡大しながら、丁寧に見ていった。
「9月に『奥の細道鳥海ツーデーマーチ』が行われているね。ほら、この展示写真の写真を見てごらん、直子。」
「んー。『金子智一先生蒐集品展示コーナー』の写真のことね。」
ウォーキングセンターの展示品のなかに、山形県遊佐町の展示会場の写真が貼ってあり、その写真を見て二人は顔を見合わせた。
「ああ、この智一の智の字が智子に繋がらないかな?」と太郎が言った。
「あったてみる?」
「山田美穂さんに電話して、武雄氏が鳥海ツーデーマーチに参加したか、訊いてみよう。」
太郎は山田美穂の自宅に電話したが誰も出ないので、留守番電話には伝言を入れずに、(財)日本証券業総合研究所に電話を掛け直した。美穂はまだ、仕事中であった。
「ええ、9月のはじめころだったか、山形県のウォーキングに3泊で出かけましたわ。」という返事であった。太郎はそれだけ確認すると仕事の邪魔をしないように、電話をきった。
「OK、やはり武雄は参加している。来週始めにでも山形へ行って来るよ。調査に3日間くらい掛かりそうだ。」
「いいな。わたしも旅行したいなー。」
「これは旅行ではなく、仕事だからね。直子にはちょっと図書館かどこかで調べてほしい事があるんだ。」
「何を?」
「実は、山田武雄が湖畔荘ホテルでの夕食代の支払いをする時、ズボンのポケットから財布を出したんだが、そのとき鈴のついたお守りみたいなものを落としている。武雄氏は気が付かずに行ってしまったが、私はそれを拾って、ホテルの従業員に武雄氏が落としたと言って渡した。そのお守りみたいなものの表に『伊佐須美神社』、裏に『なでしこ』とかいてあった。この漢字はなんと読むのかわからないが、この神社の所在地を図書館かどこかで調べてほしいんだ。『いさすみ』と読むのかな?」
「インターネットで調べてみるわ。」と直子がパソコンを操作した。
「ホームページがあったわ。『いさすみ』と読むみたい。住所は福島県大沼郡会津高田町宮林。地図が載っているわ。」
「どれどれ。OK、鳥海地方に行った帰りに寄ってくるよ。何か参考になるかもしれないから。んー、列車で行くより、レンタカーのほうが便利だな。」ちょっと考えてから太郎がいった。
比企の風14
山形県遊佐町JR吹浦駅;
11月19日(月) 山形県飽海郡遊佐町大字吹浦字上川原の遊佐観光協会
「旅館を探しているのですが、いいところがありますか?」大和太郎が訊ねた。
「吹浦駅前の政養館が便利でしょう。政養とは、日本ではじめて鉄道を敷いた佐藤政養から取った名前です。政養は遊佐町の出身で、初代工部省鉄道助として新橋〜横浜間の鉄道建設に取り組んだ名士です。」と観光協会の事務員が説明してくれた。
朝9時に東松山をでて、関越自動車道の新潟西インターをでてから国道7号線で吹浦に着いたのが午後3時。新潟市内の渋滞なければもう少し早く着けたかもしれない。大和は旅館にチェックインした後、近隣散策にでかけた。
吹浦駅近くには、鳥海山大物忌神社がある。大物忌神社は、ここ吹浦口の宮と10Kmくらい離れた蕨岡口の宮と鳥海山頂の本宮本殿がある。ご祭神は東松山の箭弓稲荷神社と同じで、稲倉魂命、豊受比売命であるが、主祭神は大物忌大神といい、伝説にない神様である。ある霊能者が霊視すると、大物忌神はヒコホホデミの命であったらしい。ヒコホホデミの命は山幸彦、海幸彦の伝説に出てくる山幸彦のことであるらしい。山幸彦は海幸彦のいじめに会うが、海に住むワニ(亀のこと?)に助けられ、龍宮に連れて行かれる。倭姫伝説によると、龍宮の神様は大幡主といい、稲穂の発見者であるらしい。この大幡主の娘が乙姫さまである。そうすると、稲倉魂命と豊受比売命、大幡主と乙姫に繋がる神様と推理できる。なお、稲倉魂命は保食神とも言うらしい。鳥海山と東松山の地域には水田が多くあり、夏から秋にかけては稲穂の風景が美しく展開される。
旅館を出た大和太郎は、喪服を着た駅員らしき数人の人々がJR吹浦駅に入っていくのを見た。
旅館の仲居さんの話では、駅職員をしていた女性のお葬式があったらしい。
「会津で殺されたらしいですよ。」と仲居がいった。
「え、会津。会津のどこですか?」大和が慌てて訊き返した。
「さあ、なんでも、何とか言う神社の横にある駐車場で、亡くなっていたらしいです。」
「殺されて?お名前はなんと言うのですか、その方の・・・。」
「あおきともこさんです。」
「漢字は《青木智子》と書くんですか?」と大和はメモ帳にボールペンで名前を書いて確認した。
「ええそうです。ご存知の方ですか?お客さん。詳しいことは駅員さんに訊いて下さい。」
比企の風15
捜査会議3;
11月21日(水) 東松山警察署
「全国警察に紹介を出していました青木智子と同姓同名の女性が会津高田署管内で殺されたということで、確認にいってきました。女性の目撃者の大和とか言う探偵は旅行中ということで確認同行を求められませんでした。探偵からもらっていた写真と同一人物と思って間違いありません。免許証から山形県飽海郡遊佐町大字吹浦字西浜に住む青木智子32歳と判明しています。遺体が発見されたのが11月15日(木)午前10時頃、福島県大沼郡会津高田町宮林の伊佐須美神社近くの食堂の駐車場。食堂の主人が開店準備で店を開こうとして発見。赤色のアコードの車内で青酸カリによる毒殺された状態で発見されてい
ます。
車は新潟駅前のレンタカーで、女性が一人で11月13日(火)朝に2日間の予定で借りています。
遺体は解剖後、11月17日(土)に遺族に引き取られ、実家で11月19日(月)に葬儀が行われた模様です。今週、山形の遺族を訪問して事情聴取する予定です。会津高田署の記録によると、遺族の話では、急に休暇を取って2日ほど旅行してくるといって11月11日(日)から出かけたみたいです。11月2日からのスリーデーマーチから帰ってきたばかりで、すぐまた出かけるので、家族と喧嘩になったようです。」林刑事が報告した。
「毒殺ということですが、自殺という可能性はないのですか。」大滝刑事部長がきいた。
「高田署の話では、遺書はありません。遺体自体は座席にちゃんと座った状態で死んでいたらしのですが、衣服にコーヒーをこぼした痕があり、腕や手の甲に引っかき傷があったらし。このため被害者は犯人に無理やりコーヒーを飲まされそうになって争ったが、結局、毒入りコーヒーを飲まされたとみています。」
比企の風16
伊佐須美神社;
大和太郎が遊佐町吹浦を11月21日(水)朝9時に出て、新潟中央から磐越自動車道に入り、会津坂下インターで磐越道を降り、会津高田の伊佐須美神社に到着したのが、午後2時30分ころであった。
伊佐須美神社の由緒は、『古事記』に登場する崇神天皇任命の四道将軍に関係している。
崇神天応は日本平定を目指して、北陸道、東海道、丹波道、西海道に4人の将軍を派遣し、地方豪族の平定を命じた。この北陸道にオオヒコの命、東海道にその子のタケヌナカワケの命を派遣し、二人がこの地相津(会津)で出会ったのが、会津地方の始まりであるらしい。このふたりの将軍とイザナギの命、イザナミの命を祭っているのが伊佐須美神社である。このオオヒコの命の七代後の子孫ヲワケノオミが埼玉県風土記の丘の稲荷山古墳に葬られている。
神社にお参りした後、社務所で例の伊佐須美神社の文字が入った小さなお守りが置いてあるのを確認した。このお守りは誕生月ごとの花のなまえと花柄が刺繍されているのを確認して、太郎は山田武雄が落としたお守りには、『なでしこ』の文字があったのを思い出した。『なでしこ』は7月らしい。
この後、青木智子が発見された駐車場と周辺を確認して会津高田警察署に向かった。青木智子の遺族から聞けなかった、レンタカーの状況を確認するのが目的である。
「埼玉県で調査探偵をやっています大和と申します。」
警察署の受付らしきところで名刺を出しながら、挨拶した。
「ご用件は?」警官が訊き返した。
「先日、伊佐須美神社近くの食堂駐車場で死亡しているのが発見された青木さんのことで情報を持って来たのですが。」
単に、青木智子の情報を聞きたいと言っても会ってもらえないのは判っているので、情報提供をエサにして、担当刑事に会う作戦である。
「しばらくお待ちください。今担当に連絡します。」
しばらく待たされてから、2階の《青木某殺害捜査本部》と書かれた部屋に案内された。
「仁科と言います。こちは、東部長刑事です。」と二人の刑事が大和の名刺を見ながら相対した。
「大和太郎と申します。」
「どんな情報をおもちですか?」と仁科刑事が訊いた。
大和は浮気調査内容や八丁湖での監視情報、写真などを提示した。
「山田武雄さんの件については、東松山署の林刑事から聞いています。我々も八丁湖の事件には重大な関心をもっています。今後も情報提供をお願いいたします。ご足労ありがとうございます。」と言って二人の刑事が立ち上がりかけたので、太郎はあわてて
「あの、ちょっと質問してよろしいでしょうか?」
「何でしょう?」仁科刑事がジロリと大和を睨んでいった。
「赤いアコードの写真をとりたいのですが、よろしいでしょうか?」
「だめだめ、証拠品なんだから、関係者以外には見せられないよ。」東部長刑事が手を横にふりながら、早く帰れと言わんばかりに、部屋の入り口ドアーを開けた。
「ちょっと、見るだけでも、お願いします。」大和は部長刑事の腕を引っ張った。
「何をするんだ」部長刑事は怒って、大和の手を振り払った。
「まあまあ、探偵さん、捜査は警察に任せてください。」と、仁科刑事が間にはいって険悪な雰囲気をなだめた。
大和はあきらめて、警察署の外へ出た。東松山のNレンタカーで借りたマーチに乗って、警察の駐車場から出ようとした時、仁科刑事が手招きしているのが目にはいった。近づいて、車の窓ガラスをあけると、仁科が言った。
「あそこの地下駐車場の入り口から中へ入ってください。」
大和が指示どおりに地下駐車にはいると、東部長刑事が立っていた。
何か、いじめにでも遭わされるのかと、不安がよぎった。
「車から降りて、写真機を持ってきなさい。」部長刑事が白い手袋をはめながら、言った。
「・・・・・。」大和は言われたまま、車の外に出た。
「あなたは、車に絶対さわらないで、写真を撮りなさい。」と部長刑事が赤いアコードのドアーを開けながら大和にいった。
《伊佐須美神社にお参りしたご利益かな。》と思いながら、大和はデジカメのシャッターを何回も押した。
比企の風17
作戦会議4;
11月23日(金)祝日、大和探偵事務所
「調査すべき対象が二人とも死んでしまった。これからどうするか?依頼人山田美穂婦人への報告をどうするか?難問山積の状況だ。」太郎が直子に向かっていった。
「浮気調査は終了ね。」
「浮気だったか、そうでなかったかの証拠が何一つ、つかめていない。これでは、報告書は作れない。中途半端だ。」
「仕方がないのでは?仮に、浮気であったとして、二人のいない今となっては、山田美穂にとってどうでもいいんじゃないの。」
「いや、美穂にとって、武雄がこの世に居なくなったからこそ、いままで通り、武雄を信用してこれからの人生を送っていけばいいのかどうかが問題なんだよ。山田美穂のために、私は何らかの証拠を見つけなくてはならないんだ。私ではなく、我々かな?直子」
「もちろん、我々よ。」
「今年の9月1日、2日の鳥海ツーデーマーチから青木智子の死体が発見された11月15日(木)までの間の中に、浮気かそうでないかの証拠を見つけ出すには如何すればよいか。この期間内で証拠がないとすれば、多分証拠は見つからないと思うよ。」
「なぜ?」
「山形県遊佐町吹浦での調査で、二人の出会いが鳥海ツーデーマーチではないかと思える情報があった。この確認には、9月前後の山田武雄の行動についての情報が必要である。」
「8月31日、9月1日、2日と吹浦西浜のホテル『遊楽館』に宿泊している。この遊楽館は青木智子の実家で、この家から智子は職場のJR吹浦駅に通勤している。駅の事務員であるが、
ツーデーマーチの朝はホテルの手伝いのため、吹浦駅に出勤するのが遅かったらしい。山田武雄は本名で宿泊している。この時点で武雄は智子と出会った可能性が強い。鳥海ツーデーマーチは今年で9回目になるが、9月2日、智子が始めて、ウォーキングに参加したらしい。それまでは、ウォーキングに見向きもしていないらしい。さらに、11月のスリーデーマーチにまで参加している。武雄と智子にどのような会話があったのか?大会関係者で智子が見知らぬ男性と一緒に休憩して、談笑している場面を目撃した人もいるらしい。この男性が山田武雄とは限らないがね。」
「で、山田武雄の9月前後の行動が重要と言うのはなぜ?」直子が訊いた。
「特に、鳥海から帰ってきた後、山田が変わった動きをしていないか、山田美穂、根本社長に確認する必要がある。変な動きがあって、その内容がつかめれば、そこに証拠が見つかるはずと僕は考えている。」
「武雄が智子と何か約束して、その約束を守る行動に出ていると推理しているのね、太郎。」
「さすが、推理探偵直子だね。理解が早い。明日の午後2時に山田美穂夫人を訪問する。直子も第4土曜だから学校休みだね。一緒に来るかい?」
「明日?じつは、サイクリング部の日帰り長距離サイクリングの日なのよ。ごめんなさい。」
「そうか、じゃ僕ひとりで、行って来るよ。調査経過報告と情報ヒアリングしてくる。ところでどこまでサイクリングに行くんだい?」
「都幾川から越辺川、入間川と川伝いに行って、荒川の秋ヶ瀬公園までの往復70Kmよ。疲れるんだから。」
「サイクリングロードを行くのかい?」
「舗装のサイクリング道と未舗装の道が混ざっているわ。でも土手沿いだから爽快よ。太郎も一度走ってみれば。」
「ははは。遠慮しておくよ。」
比企の風18
川口市山田邸;11月24日(土)
「武雄は、確か、9月3日(月)の夕方、山形から帰宅しましたわ。その日は一緒に夕食をこの家でしました。ウォーキングの話を聞いたりしましたからよく憶えています。次の日は平常通りに会社に出て行きました。8時30分ころ車で会社へ向かっています。ええ、自分で運転しています。」と美穂が説明した。
「根本社長は会社で何か変化に気づきませんでしたか?」と大和は訊いた。
「んー。最近は記憶力が落ちているので、9月4日頃のことは、あまり憶えていませんね。」
「だいたい9月〜10月頃でいいのですが、山田専務の動きでおやっと思ったことはありませんでしたか?」
「んー。・・・・・。ああ、3年くらい前にコンサルタント契約が切れた会社に突然電話を入れていましたね。専務の机と私の机はコの字型に配置されています。これは、いつでもふたりで相談できるようにと考えている為ですが、このためお互いの行動はガラス張りです。たぶん、その会社の若社長と話していたと思うのですが、若社長の昔なじみに偶然会った、とか話していました。何か、その件で一度会いたい、とか話していました。仕事と関係なさそうな話でしたね。普段はあまりプライベートな話をしない若社長ですが、かなり長く山田専務と話をしていましたから、おやっ、と思いましたね。話の詳しい内容はなんでしたかね?んー。憶えていませんね、仕事の話ではなかったので、あまり真剣に聞き耳を立てていませんでしたから。」
「その若社長の会社は何というのですか?」
「(有)鎌田工業です。自動車部品の下請け製作会社です。社長は鎌田利幸さんだったかな。」
「会社の場所は?」
「えーと。川口市内ですが、場所は今、憶えていません。月曜日に秘書に確認して連絡いれさせます。」
「よろしくおねがいいたします。」
「で、調査の進展具合はいかがです?大和様。」美穂が訊いた。
大和太郎は、今まで判明したことを説明して、まだもう少し調査が掛かることに理解を求めた。
山田美穂も根本潤一郎も肝心の二人が死んでしまったので、状況の難しさは理解した模様であ
るが、いままで以上に真実の解明を切望してきた。真実解明ができれば、ボーナスを払うと申
し出てきたので、大和も俄然やる気が出てきた。
比企の風19
捜査会議4;11月26日(月)
「情報基盤総合研究所の取引先企業をあたりましたが、ほとんどが情報技術関連で、製造関係の企業はありません。コンピューターが事務机に置いてある会社ばかりです。青酸化合物を扱う会社は見当たりません。青木智子が川口市の企業と接点があるとは思えません。」応援の刑事が調査報告をした。
「現在の取引先だけ出なく、過去の取引先も調査対象に広げて調査してください。」大滝刑事部長がいった。
「青木智子は、学生時代は池袋のR大学で勉強していたようです。下宿ははっきりしていませ
んが、池袋近郊と考えるのが妥当でしょう。10年前に卒業して、郷里の山形県遊佐町に帰っ
ています。帰った当座は実家の稼業を手伝っていたみたいですが、6年前からJR吹浦駅の事
務員をしています。特に恋人は出来ずに、いままで独身をとうしています。ウォーキングも最
近急に始めたみたいです。」林刑事が山形へ調査に行った内容を報告した。
「最近ね。それでわざわざ東松山まで来るのかな?」
「山田武雄との浮気目的で来て、だから、あの大和とか言う探偵が調査していたのでしょう。」
「しかし、二人とも殺されたということは、嫁さんが怪しいか?怨恨か?他に、会津での現場情報に関係する事実の進展は何かありましたか?」大滝部長刑事が質問した。
「まだ、新しい関係情報は見つかっていません。」
「引き続き、青酸化合物関連の調査をお願いいたします。きょうは、これで解散します。」
警察の捜査は行き詰まりの状況になってきた模様である。
比企の風20
鎌田工業訪問;11月27日(火)
西川口駅前から上青木循環のバスにのり、ダイヤモンドシティ前でおりると、すぐに鎌田工業
の看板が目に入った。ダイヤモンドシティは最近出来た大型ショッピングセンターで平日でも
かなりのお客が来場している。以前は、サイボーという繊維関連の工場があった場所らしい。
駅から遠いので大駐車場を整備している模様である。映像産業施設SKIPシティの工事現場か
らは1Kmくらい離れている。
大和がアポイントをとるため、鎌田利幸に電話を入れ、根本社長の紹介であるというと、快く
面会時間を指定してくれた。
「お忙しいところ、お時間いただきまして、ありがとうございます。」と大和がいった。
「山田専務さんに関することで、と言うことですが、どのような事をお話すればいいのでしょうか?」と鎌田利幸が訊いた。
「単刀直入にお尋ねしますが、9月上旬頃ですが、山田武雄さんと電話で昔なじみのお話をされていませんでしたか?」
「えっ。昔馴染みの話を電話でですか?」鎌田は怪訝な顔をした。
「ええ、根本社長が山田さんが鎌田さんと電話で話しているのを聞いたとおっしゃっていましたが。」
「9月の初めころは、台湾に仕事の打ち合わせで出張していましたし、山田専務とそのような話をした記憶はありませんね。何かのまちがいでしょう。」
大和は、鎌田が嘘を言っているのか、と考えたが、それ以上きかずに話題をかえた。
「そうですか。ところで、鎌田社長はおいくつですか、お若いですが。」
「ああ、33歳です。社長としては若いですが、頭のいい協力者を持っていますのでなんとか会社を運転しています。」
「頭のいい協力者がいらっしゃるんですか。」
「ええ。あそこに居る人間です。北山一郎というのですが、学生時代の友人です。もうかれこれ8年くらいになりますかね。私が大学を卒業するときに親父が倒れましてね。それで、わたしが後を継いだのですが、彼にいろいろ相談を持ちかけて協力してもらいました。彼も実家の酒屋を継いでいたのですが、継いだときの借金が多すぎて持ち直せなかったみたいです。卒業して2年後くらいに潰れたようです。その後、彼に私がお願いして、この会社の専務になって貰いました。彼の協力なしでは、わたしの会社はつぶれていたでしょうね。かれの酒屋での苦労経験がかなり役立ちましたから。」
「へえ、そうなんですか。あの方も33歳ですか?」
「そうですよ。ご紹介しましょうか?」
20mくらい先の製造現場で作業員と話している北山を見ながら鎌田がいった。
「いえ、お忙しそうですから結構です。北山さんは鎌田社長と同じ大学でしたか?」
「いえ、わたしは、高田馬場のW大ですが、彼は池袋のR大です。軽音楽サークルの交流で知
り合い、よく音楽喫茶にいっしょに行きました。いまは、仕事が忙しいので二人とも音楽喫茶
に行くことはないですね。彼は、コンサートには時々行くみたいですよ。」
「北山さんの出身地はどこかご存知ですか?」
「会津若松です。学生時代、一緒に福島県の安達太良山にスキーにいきましたよ。かれは、子供の頃から雪にはなれているらしく、スキーが上手でしたね。スラロームが得意みたいですね。夏はオートバイでモトクロスもしていたらしく、反射神経は抜群ですよ。」
「山田武雄さんと北山さんは面識があったのでしょうか?」
「当然です。山田専務にコンサルタントを依頼したのは彼ですから。」
「北山さんは奥様をお持ちですか?」
「いいえ、独身ですよ。いい女性がいれば紹介してください。彼もそろそろ年貢の納め時ですからね。」
「どうもありがとうございました。これで失礼いたします。」
大和はあえて、北山との面談をさけた。青木智子の殺人事件に関係していると、話が厄介にな
りかねない為である。大和の目的は、山田の浮気疑惑の真実を知ることである。殺人事件に絡
まってしまうと、真実が隠れてしまうのを心配したのである。北山と話をするのは事前調査を
して、話の順序を組み立てておかないと逃げられると考えた。山田武雄が電話で話していたの
は鎌田ではなく北山であったのではと考えた。根本社長は早合点して鎌田と思い込んだのだろ
うと大和は思った。
比企の風21
大和探偵事務所2;11月28日(水)
大和が会津高田署で撮った赤いアコードのデジカメ写真を眺めているところへ林刑事が入って
きた。
「探偵さんよ。あまり警察の周りをうろちょろしないでくれよな。」
「ええ、わかっています。」
「会津の警察へ行ったらしいな。困るよな。我々東松山署が探偵に情報を漏らしているように思われると困るのだ。おとなしくしてくれよな。」
「ええ、わかっています。」
「お、その写真どうした。例のアコードじゃないか。お前さんがなぜ、そんな写真を持っているのだ。盗み撮りしたな。」と、写真に気がついた林刑事が言った。
「ちがいますよ。高田署の刑事さんにOKもらって、撮りましたよ。」
「んー。本当か。まっ、いいか。」
あまり追求して、高田署の気配りを無にしてもいけないと思ったのか、林刑事は急に態度を変
えた。自分も、この探偵が持っている情報を知りたくて来たので、あまり追求しない方が得策
と考えたようである。それを察知した大和が口火をきった。
「このアコードの右後方のここに凹み傷がありますよね。これって、何か情報をお持ちですか?刑事さん。」
「え。何か気に掛かるのか、この傷が。」大和が覗いているパソコン画面の車後部の拡大写真を除き込みながら林がきいた。
「レンタカーだから青木智子が借りる前から傷がついていれば問題ないのですが、青木智子がどこかにぶつけたのであれば、智子の走った経路がわかるのではと思いまして。アコードの車の色と異なる色の、塗料と思しきものがついていますよね。」
「高田署からはまだ情報は来てないな。」といって林は思わず自分の口を押さえた。情報は漏らしてはけない。情報を得るのが目的だ、と自分を戒める林刑事であった。
「たぶん、他の車にぶつけたんじゃないかと思うんですが、警察で事故情報とれませんか?」
「ん。どうかな。」林は口を濁した。
比企の風22
捜査会議5;11月30日(金)
「(株)情報基盤総合研究所の過去の取引業者から青酸化合物を取り扱っている会社が浮かんできました。(有)鎌田工業という自動車部品製造の会社です。現在のところ、この会社の中に怪しいと思われる人物は浮かんでおりません。今後の調査ではっきりさせます。」
「会津高田署の青木智子殺人事件の件で、アコードの走行経由地点が1箇所判明しました。11月14日(水)午後9時頃、東北自動車道の下り線、埼玉県内の蓮田サービスエリアの駐車場で赤のアコードに白のブルーバードがぶつかった事故があります。高速道路警察隊の記録で赤のアコードの運転者は青木智子となっています。ブルーバードの運転者は埼玉県久喜市に住む45歳の会社員です。この会社員の話ですと、車の保険で事故保証をしたいので警察に自分が電話連絡したらしい。警察記録に残さないと保険会社は、お金を出しませんからね。そのとき、青木智子と一緒に男がいたそうです。会社員の話では、男は遠巻きに見ていたようですが、女の方が、ちらちら男の方を見ていたので女の連れだと思ったそうです。警察の調書取りが終わると、青木智子とその男は車で出て行ったらしいです。男は自分の車でアコードを追いかけるように出て行った様です。赤のアコードは青木智子が運転していますが、男の車の色は白かクリーム色だったそうです。」と林刑事が調査報告した。
「重要な目撃情報ですね。この時点で男の特定はできないが、14日の午後10時に着目して関係者の調査をお願いします。この時間帯のアリバイ確認を関係者に訊いてください。」と大滝刑事部長が捜査員に注意を促した。
比企の風23
作戦会議5;12月1日(土)午後4時
「北山一郎は11月4日(日)は午前9時から午後4時頃まで荒川河川敷の川口市浮間ゴルフ場
周辺での《川口ふれあい祭り2001in荒川》に参加している。毎年、市内の企業や川口青年
会議所が協力して川口の日のイベントを実行しているらしい。鎌田工業もテントをはって、乗
り物コーナーなる出し物をしていたらしい。このため、北山も昼食時を除いて一日、浮間ゴル
フ場に居たらしい。」と太郎が直子に説明した。
「北山一郎が無実なら、あまり神経質にならずに、単刀直入に青木智子や山田武雄との関係を訊いてもいいのではないですか。」
「いや、アリバイが成立するかどうか、今のところ不明だから、用心が必要だ。もし北山が犯人だったら、変に動いて自殺でもされると、山田武雄の浮気疑惑の真実が闇に葬られることになる。
自殺ではなくて、死ぬ場合も考えられるが・・・・・。まっ、いいか。何にしても、北山は
我々にとって最後の砦だから慎重に事を運びたい。警察がまだ北山一郎に辿り着いていない事
を祈りたいくらいだ。」
「自殺じゃなく死ぬって?事故死?殺される?よくわからないけど。太郎、何を考えている
の?」
「山田武雄殺しの犯人が北山一郎だとすると、青木智子も殺していると考えるのが妥当だ。偽造された福島ナンバーのプレートの秘密を知っているのが青木智子のはずだから。」と直子の質問を無視して太郎が言った。
「口封じの為ね。」と直子が合いの手をいれた。
「もう少し推理して、10年前に廃車されたレンタカーのナンバーがなぜ今ごろ出てきたのか、
偽造にしても。単なる偶然で数字が書かれただけなのか?10年前といえば、青木智子と北山一
郎がR大学を卒業した年だ。このとき、青木と北山は知り合いだったかどうか。」
「えー、そんな可能性があるの?」
「ああ、直子は知らなかったか。鎌田工業の鎌田社長の話と吹浦での情報から、僕はそう考えている。」
「この10年前の関係が、山田武雄の奥の細道鳥海ツーデーマーチ参加によって再燃しかけた。
が、事はそう単純に進展しなかった。10年ひと昔、てとこかな。」
「どういう推理なの?早く聞かせて。」と直子が太郎にせっついた。
「山田武雄が吹浦西浜のホテルでホテル手伝いの青木智子と朝食時に雑談をし、山田武雄が自分の仕事の説明のなかで、コンサルタントをした会社の人間の名前を言ったんだろう。優秀な青年で北山一郎と言う、とかね。これを聞いた青木智子は昔の恋人の名前と別れた理由を思い出したのだろう。その日はJR吹浦駅に仕事で出勤したが、次の日、北山の消息を詳しく聞くため、突然ツーデーのウォーキングに参加し、休憩時に山田からいろいろ話を聞いたのだろう。
山田も智子から北山の話を聞いて、恋人関係再生の手伝いをしようとおもったのではないかな。商工会議所青年部の議長を勤めたくらいだから、山田武雄は他人の面倒見のいい人間なのだろう。山田美穂もそのあたりに引かれて結婚したのではないかな。そうでなかったら、独身を通すタイプだよ、山田美穂という女性は。鳥海から帰ってきた山田武雄はさっそく北山に電話して青木智子の話をしたのだろう。この電話のやり取りは、根本社長が聞いている。根本社長は、山田が鎌田社長と話していると勘違いされたけれどね。」
「これからが山田武雄殺人の核心に入るのね、太郎。」直子が身を乗出した。
「これからはまったく想像の話だけれど、この話をもとにして、北山一郎にどうアプローチすれば、浮気疑惑の真実が北山から引き出せるか、直子も考えてほしい。いいかい。山田武雄は11月のスリーデーマーチの時に青木智子がウォーキングに来るからと北山に知らせる。そのとき、青木智子と北山一郎が八丁湖湖畔荘ホテルで二人きりになれるよう準備したのが山田武雄だ。山田は、このホテルに泊まるのは青木智子と北山一郎だから、部屋の予約を自分の苗字でなく青木名で予約したのだろう。北山への配慮かな。北山は学生時代に智子と実家のある会津を旅行している。智子の遺品の中に福島ナンバーのカローラが写っている写真があった。例の廃車されたレンタカーだ。吹浦の遺族からその写真を見せてもらったよ。この写真には智子しか写っていなかったが、写真をとったのが北山だろう。たぶん、北山のアルバムの中に、カローラと自分の写っている写真があるはずだ。昔、『会えない時間が愛を育てるのさ、目を閉じれば君がいる・・・・云々。』という流行歌があったが、お互い、相手の写真を持っていないことが、さらに愛情を強め、相手を忘れないことに繋がると信じていたのだろう。智子のアルバムには郡山から安達太良山、磐梯山、伊佐須美神社、などの一連の旅行写真があった。安達太良山の写真には《智恵子抄》の詩が添えられていた。
あれが阿多多羅山
あの光るのが阿武隈川
ここはあなたの生まれたふるさと
あの小さな白壁の点々が
あなたのうちの酒庫。
それでは足をのびのびと投げ出して、
このがらんと晴れ渡った北国の
木の香りに満ちた空気を吸はう。
『智恵子抄』樹下の二人 より
智子だけでなく、北山一郎にとっても忘れられない二人の思い出だったであろう。
その証拠に、北山は、このとき借りたレンタカーのナンバープレートを偽造して自分の部屋に飾っていた。いつ頃偽造したのかは判らないが、アルバム写真のカローラを見ていて思いついたのだろう。その偽造ナンバープレートをサニーにつけ、その車を11月2日夕方ころ青木智子に預けている。多分、JR大宮駅前あたりで上越新幹線から降りてきた智子にあって、車を渡したのであろう。10年会っていなくても、面影は記憶としてはっきり残っているはずだから、すぐにお互いを認知できたことだろう。大宮から東松山までは国道16号で川越に出て、川越から国道254号線を北上すれば1時間半くらいで東松山に着ける。北山は11月3日(土)に湖畔荘ホテルにくる予定であったが、仕事の関係か、何らかの理由で日曜にしか来れなくなたのであろう。
もしかして、土曜日に湖畔荘ホテルに来たが、私が山田専務と青木智子を監視しているのを見て、警察が見張っていると勘違いしたかもしれない。犯罪に手を染めている者は、警戒心が自然に働くからね。山田を殺すことになったのは、この偽造プレートを見つけられて、詰め寄られた為であろう。昨日電話で根本社長から聞いた話では、山田武雄は埼玉県警のネットワーク構築のコンサルタントを大手コンピューター企業と連携しておこなっている。今をときめく自動車窃盗団情報と偽造ナンバーの対策事務処理ソフトウェアの製作にも関係していたらしい。」
「北山はどうして青木智子を殺すことになったの?」
「会津高田の殺人現場への具体的な行動は僕には判らない。これは警察が解明してくれるだろう。北山が智子を殺すことになった原因は2つ想定できる。」
「その一つ目の理由は?」と直子が訊いた。
「そのひとつは、さっきも言った様に、僕が警察の人間だと北山が早合点して証人を消してしまう必要を感じたケース。」
「自分の好きな人でも殺すの?」
「犯罪を長く続けていると利己的になる場合があるし、10年の歳月は愛情を弱めてしまうのも事実だろう。北山は10年前ほどには智子を愛していなかったと考えてもいいかもしれない。思い出は自分自身のものだから大事にしているだろうがね。」
「その二つ目の理由は?」
「自動車窃盗団が山田武雄の事件を知って、青木智子の殺人に動き出した場合だね。この場合、北山が窃盗団に深く関わっているか、警察内部の情報が窃盗団に漏れているかのどちらかだろう。北山は偽造プレートの製作に絡んでいるだけで、窃盗団とは面識がないとぼくは考えている。窃盗団はかなり用心深く、世界的な組織だから、偽造プレートの仲買人を使い、偽造者と距離をおいていると僕は思う。北山は仲買人からの情報で青木智子がねらわれているのを知って、智子を逃がそうとしたが、窃盗団が先に智子を押さえ、毒殺した。と推理できる。この場合、北山の智子への愛情は今も続いていたか、再燃したか、どちらかだね。」
「わたし、絶対、その二つ目の理由だと思うわ。」と直子が力をこめて言った。
「ははは。直子は、恋に恋する時期だからな。」と太郎が笑った。
「それで、これから、北山にどういう具合に近づけば、北山が真実を話してくれるかな?直子の意見はどう?」と太郎が訊いた。
比企の風24
接近1;12月3日(月)午前10時ころ
「北山専務さんですね。情報基盤研究所の根本です。相談したい事がありますので、本日の午後か明日、お時間いただけますでしょうか。」根本潤一郎が北山に電話をいれた。
「ええ。今日でしたら夕方4時以降があいています。明日なら午後2時から3時の間ならお会
いできます。」
「それでは、今日の4時30分頃、私どもの方にご足労いただけますでしょうか?」
「判りました。お伺いいたします。」
接近2;12月3日(月)午後4時30分ころ(株)情報基盤総合研究所応接室
山田美穂と根本潤一郎が北山一郎を迎えた。
「おいで頂いてありがとうございます。横にいるのは私の娘です。山田専務の奥方でもありました。」と根本が言った。
「このたびはご愁傷様でした。で、ご用件は?」と北山が訊いた。
「実は、お恥ずかしい話なのですが、亡くなった山田武雄が浮気をしていたのではないかと疑っています。夫が亡くなった今となっては、どうでもいいのでは、とお考えになるかもしれませんが、私にとって、これから生きていく上で気持ちの整理が必要です。そのため、夫の浮気が事実であったのかどうかを知りたいのです。」と美穂が口を開いた。
「山田専務のことを、私が知っているとでも?」北山が怪訝そうに返事した。
「ええ。実は、山田が亡くなる前に、山田の身辺調査を私立探偵に依頼しておりました。その調査報告に拠りますと、青木智子なる女性が夫と会っていたらしいのです。この青木智子なる女性についての報告によりますと、R大学時代に恋人がいて、その恋人とは結ばれなかったらしいのです。この女性に、私が依頼した私立探偵がインタビューしたそうです。場所は東松山のスリーデーマーチの中央会場だったらしいのです。青木智子さん曰く、山田とは友人関係ではあるが、恋愛関係にはない。智子さんには別に好きな方いて、今回、東松山で会うことになっているとの返事だったようです。大和太郎が作ったシナリオどおりに、山田美穂は感情を込めて喋った。
「・・・・・。」北山は黙って話を聞いている。
「その仲介をしているのが山田武雄である、と智子さんが言われたようです。さらに、智子さんの好きな方は、北山一郎と言う名前の方で10年前の恋人である、と報告書に記されています。また、智子さんはいまでも10年前の愛を大切にしておられ、独身のままであると記されています。報告書では、この北山一郎がどのような人物であるのか調査する前に、青木智子さんの行方が判らなくなったため調査継続ができなくなった、と結ばれています。私の父の根本に相談しますと、北山一郎と同姓同名の方を存じているとの事でした。それが、あなた様です。私としては、この報告が事実かどうかを確認したいのですが、万一、北山様がこの報告の人物であれば事実をご存知かと思いまして、失礼を省みず、ご連絡をとらせていただいた次第です。」
美穂と根本は、地方新聞に載った青木智子の死亡記事は知らないようである、と北山は思った。
「・・・・・・・」北山はしばらく黙っていた。
「北山さん、娘の気持ちは純粋に山田武雄の浮気はなかった事を信じたいだけです。このまま山田専務への愛情を持ちつづけて生きていきたいと願っているのです。事実をご存知であればお話いただけないでしょうか?」と根本が丁寧に言った。
「わかりました。」と覚悟を決めたように、北山が話しはじめた。
「青木智子は私の10年前の恋人でした。今でも好きなのだろうと考えるのですが、本心、そうなのか、自分ではわかりません。山田専務の仲介により東松山で会うことになっていたのも事実です。しかし、私の仕事の都合で会えませんでした。智子は私が東松山に行かなかったのは、私が智子のことが好きでなくなったと、判断したのでしょう。それで行方を隠したと思います。」北山は咄嗟の判断で、状況の辻褄を合わせた嘘の返事をした。
「ありがとうございます。よく、話してくださいました。これで、これからも山田への愛を持ちつづけられそうです。本当にありがとうございました。」山田美穂は本心から、そう思った。
「それでは、私はこれで失礼してよろしいでしょうか。」と北山が言った。
「もし、お時間があるようでしたら、これから一緒に食事でもいかがですか。ぜひ、ご馳走させてください。」根本潤一郎は本心からそう言った。
「ありがとうございます。ですが、先約がございますので、これで失礼します。」
山田美穂と根本潤一郎が玄関先で見送るのを背に受けながら、北山一郎は、静かに(株)情報基盤総合研究所を後にした。
夕日は沈み、時刻は午後5時30分をまわり、辺りは暗くなっていた。
比企の風25
大和探偵事務所3;12月3日(月)午後6時頃
山田美穂から北山一郎との話し合いの電話報告を受けて、大和太郎は「終わったな。」と思った。
学校の終わった高橋直子も事務所に来て報告を待っていた。
「嘘も方便か。」太郎は複雑な心境で呟いた。
「タローの得意分野でしょ、嘘は。」直子が冷やかす様に言った。
「まっ、営業あがりの探偵としては、しょうがないか。許してね、と言うところかな。」自嘲気味に太郎が言った。
「一件落着」直子が拍手しながら言った。
「直子、食事に行くか?」
「だめよ、家で夕食の準備をしているから、外で食べて帰ったらお母さんに叱られる。バイバ
イ。」
直子が出て行った後、大和太郎は、北山一郎が情報基盤総合研究所で根本と山田美穂に別れ際
に言った言葉について考えていた。
「『大学を卒業してからは、青く苦い人生の連続でした。でも今日、お二方とお話ができて今までの人生の苦味がどこかに飛んでいったような気持ちです。ありがとうございました。』と北山一郎が帰りがけにつぶやいたそうだが?」
と太郎はその意味について考え込んでいた。
比企の風26
捜査会議6;12月18日(火)東松山警察署
「蓮田サービスエリアの目撃証言から作成したモンタージュの男と(有)鎌田工業の北山一郎の顔立ちが似ています。11月14日(水)の夜のアリバイについて、当人は、ナイトドライブをし、蓮田サービスエリアで軽い衝突事故の現場を見た、と言っています。高速道路通過車両監視写真の確認に拠りますと、下り車線で郡山までは走っています。ただ、帰りの登り車線の写真には一枚も写っていません。当人曰く、帰りは国道に降りて回り道して帰った、とのことですが国道監視写真にも写っていません。多分、行きと帰りは車を替えています。顔も変装したと思われます。」応援の刑事が言った。
「かなりの知能犯だな、こいつは。で、鎌田工業は青酸化合物の取り扱いは行なっているのか?」
大滝刑事部長が訊いた。
「はい、商品開発の試作時、メッキ部品は自社製作しているとのことで、青酸化合物を管理しています。ただ、管理は厳重で、定期的に重量チェックは行っているそうです。現在のところ不信な紛失はないとのことでした。青酸化合物の管理は工場長の森田がしています。」
「11月4日(日)の八丁湖殺人のあった日の北山のアリバイはどうなのだ。」
「朝の9時から午後4時まで荒川河川敷の浮間ゴルフ場で行われた川口の日のイベントに出ています。目撃証言もあります。ただ、昼食休憩が少し長かったみたいで、午前11時から午後1時まで、2時間取っています。なんでも川口駅前のそごうの食堂まで行っていたので時間がかかったと言っています。食堂の従業員は日曜の昼間で混雑していたから、お客の顔は覚えていないそうで、目撃証言は得られていません。」
「浮間ゴルフ場から八丁湖まで行くのに、片道でどれくらい時間がかかるのか?」
「車で外環状、関越道を通って東松山で降り、八丁湖まで1時間30分はかかります。当日は、関越道は秋の行楽日和で午前中は新座から東松山インターまで渋滞していましたから、車では片道2時間以上は掛かったでしょう。」
「電車とタクシーの乗り継ぎで行くとしたらどうか?」
「浮間ゴルフ場から車かバイクで10分、JR川口から高崎線の鴻巣まで48分、タクシーで20分かかりますから、トータルで最低1時間20分かかります。往復で2時間40分必要です。」
「2時間での往復は無理か。んー。別の方法はないのか?ところで、北山一郎の経歴は?」
「大学を卒業して、実家の稼業を継いでいます。会津若松の造り酒屋です。大学卒業後2年くらいで潰れたようです。それからすぐ鎌田工業に入社しています。」
「北山に繋がる物的証拠は出ていないのか。ぜひ、何か見つけてください。」刑事部長が語気を強めて言った。
比企の風27
大和探偵事務所4;12月18日(火)午後5時頃
「北山一郎についてどこまで調べている?探偵さん」と林刑事がきいた。
「依頼者の利益のため、申し上げられません。」
「それでは、犯人を逃がすことになってもいいのか。善良なる市民の義務を果たして欲しいものですな。」
「北山一郎に監視は付けていますよね。」大和がやや語気を強めていった。
「ああ、もちろん。おまえ、何か心配でもあるのか?北山の件で。」林が不思議そうに言った。
「いや、特にありません・・・。」
「北山の11月4日のアリバイが崩れないのだ。川口市と八丁湖を2時間で往復できないのかな?」ポツリと林が言った。
「あら、まだアリバイがくずれていないの?やだー。」直子があきれたようにいった。
「お嬢さん、では、あなたは犯行時の足取りが判っているのですか?」林は直子を睨んで言った。
「もちろんですよ。」直子が得意そうに言った。
「直子、よしなさい。刑事さんの誘導尋問に引っかからない様にしなさい。」大和がたしなめるように言った。
「ははは。分かりますか、流石は探偵ですな。」と頭を掻きながら林刑事が言った。
「まっ、いやらしい刑事。」と、直子が林を睨んだ。
「刑事さん、川沿いの土手をバイクで走れるんですよ。悪路ですが、信号がほとんどないから、平均時速50〜60Kmで楽に走れます。河川敷の浮間ゴルフ場と八丁湖の距離は川沿いで行って40Kmくらいの距離ですから、往復で2時間掛かりません。普通の国道だと平均時速30Kmですから、2倍弱の速さで往復できます。私の愛車リード80で確認しました。」
「バイクで川か。盲点だったな。サンキュー。」林刑事は探偵事務所を飛び出していった。
比企の風28
撫子の咲く邑;
撫子の花が咲く河原の土手を一組の男女が楽しそうに話をしながら歩いている風景が見える。
「山田武雄さんもこの邑の住人なのよ」と女が男に向かって話している。
「そうだったのか、知らなかったよ」と男が答えている。
「鳥海ツーデーマーチでお会いした時に、撫子のお守りの事をお話したの。そうしたら、早速、帰宅途中に会津高田の伊佐須美神社に寄って、奥様の生まれ月のお守りと、ご自分の生まれ月のお守りを買われて帰られたのよ。」
「僕たちも、神主さんから薦められて購入したおかげで、こうして会えるのだから、山田さんもそのうち奥様の美穂様に会えるだろう。僕は智子とはちがう梅の邑の住人だけれど、時々こうして会って、地球に住んでいた時の話しができるのも、会津の伊佐須美様のお蔭だね。」
「ええ、一郎さんと会津へ旅行した時に買っておいてよかったわ。」
「でも、大和太郎氏とは、地球であって話をしてみたっかなぁ。会えなかったのが残念だったな。」
「そうね、でも又チャンスが巡ってくれば地球へいってお会いできるかもしれないわ。」
「ところで、楽しみながら歩けば風の色が見えてくるらしいけど、ウォーキングの時、智子は風の色は見たかい?」と男が訊ねた。
「ええ、都幾川を渡る時、おとうか(稲荷)橋の上で不思議な事があったわ。ピンクに近い紫色の空気が川面を流れていくのが見えたの。すぐに山田武雄さんに教えてあげたのだけれど、山田さんが見た時には紫の風は消えていたわ。あれが、うわさの『比企の風』だったのかしら?」
二人は、楽しそうに話しながら、河原を歩いて行った。
比企の風29
比企丘陵の風;12月25日 午前11時30分 大和探偵事務所
東松山署の林刑事が大和探偵事務所に入ってきた。
「北山一郎が死んだ。会津高田署からの連絡だと、青酸カリの服毒自殺だ。」林が大和に言った。
「そうですか。場所は伊佐須美神社ですか?」大和は知っていたように返事した。
「判っていたのか、おまえ。」
「なんとなく、そうなるという予感はありました。」
「伊佐須美神社のお守りを大事に両手で挟んでいたそうだ。」
「お守り?」
大和は、山田武雄が八丁湖湖畔荘ホテルで落としたお守りを拾った時の事を思い出した。
12月25日 午後1時
大和太郎は都幾川土手をひとり、散歩しながら、八丁湖殺人事件のことを思い出していた。
「殺人現場の山田武雄の顔には上着が掛けられていたのだったな。北山一郎が殺人犯なら、怒りに充ちているはずだから、死体に上着を掛けるような優しさが出るとは思えないがな。それにしても十年前、北山一郎と青木智子はなぜ別れたのだろう?会津若松の造り酒屋の問題かな?智恵子抄か。・・・・・。」
太郎はなんとなく切ない気持ちになった。
「それにしても、あれは青木智子の持ち物であったのか?それとも山田武雄自身のものだったのか?それとも北山一郎のものだったのか?・・・・。なでしこだったな。7月生まれのお守りか。」
『あつみ山や ふくら(吹浦)かけて 夕すずみ 松尾芭蕉』
比企丘陵を流れる都幾川の向こうに外秩父連山の笠山が見える。太郎は、なんとなく鳥海山に似ているなと、吹浦で見た景色を思い出していた。
青く澄んだ空のもと、笠山の方向から冬の風が吹いてきた。比企丘陵も本格的に寒くなって来た。
向こうから、若い男女のカップルが寄り添いながら歩いてくる。
『笠山や 都幾川ぞいの クリスマス 大和太郎』
比企の風 完