猪2
蜘蛛丸はひたと、初を見つめた。
「安宅の木地師共の品が他より安いのは、作るのが簡単になったからだけではありませぬ。職人の腕が、他の木地師より劣っているからでもあるのです」
「劣ってる? 安宅の木地師がか?」
怪訝な顔をする初に、蜘蛛丸は真剣な顔でうなずいた。
「吉野衆や十津川衆の中には、それは見事な木椀を作る職人がおりまする。彼の者共が作る品は、都の貴人やお武家様が、こぞって買い集めるほどの代物。とても我らの腕では、太刀打ちできませぬ」
「そんなに凄いのか? その……大和の職人たちが作る木椀は?」
恐る恐る尋ねる。蜘蛛丸は、肩を落としたまま、
「春の宴席で、お客人方をもてなした漆器がありましたでしょう。あれなどは、吉野衆の手によるものでございます」
言われて、初は春先の記憶を思い返した。
客人たちに食事を振舞うのは、初も手伝った。その際に使われていた漆器は、たしかに美麗な代物ばかりだったように思う。
蒔絵や螺鈿細工が施され、指に吸い付くような手触りの漆器に、初も思わず見とれたものだ。
「あのような品は、私にはとても作れませぬ。他の職人たちにも無理でしょう。我らと吉野衆の差は、それほどまでに大きいのです」
蜘蛛丸は、口惜し気に首を振った。
「無論、安宅の木地師たちとて、手をこまねいているわけでありませぬ。都より名うての職人を呼び寄せ、その技を学んでおりまするが、やはり一朝一夕にはいかぬもの。あのような品が作れるまでには、あと何年かかるか……」
職人の技術は、そう易々と身につくものではない。実家の町工場で、大勢の職人を見てきた初にはよくわかる。
旋盤を使うようになり、安宅の職人たちは作業効率こそ向上した。しかし、それは必ずしも、製品を作る技術が向上したことを意味するわけではない。
早く、大量に製品を作れるようにはなった。だが、一つ一つの値段は買い叩かれる傾向にあると、蜘蛛丸は歯噛みした。
「姫様のご結納品も、漆器は安宅でなく、吉野衆の品を選ぶと、お方も仰せでございます。そのタケという小僧には悪いが、その者の父親は、それほど腕立つの職人ではなかったのでしょう。大和の木地師たちは、総じて安宅の職人より稼ぎが良いですからな」
蜘蛛丸は、初に向き直ると、真摯な眼差しで告げた。
「姫様がお作りになられたものは、どれも民の暮らしは豊かにするものばかり。たとえ姫様が、ご自身のためになさっていたことだとしても、それで大勢の者が助かるのならば、良いことではありませんか。嘘からも真が出ることはございます。姫様の行いは、たしかに私共を救ってくだされた。それで良いではありませんか」
そう言って蜘蛛丸は、笑みを浮かべた。
無骨な顔に浮かぶ柔らかな笑みを、初は直視することができなかった。
「姫様、お待ちを」
蜘蛛丸が、短く指示を発する。
初の周囲にいた夜叉丸党の面々も、一斉に動きを止めた。
「例の物の怪か?」
蜘蛛丸は、人差し指を唇の前に立てる。山では蜘蛛丸の指示に従うと決めていた初は、慌てて口を閉じた。
藪の間から、ざわざわと微かな音が漏れ聞こえる。落ちた葉っぱや小枝を踏みつける夜叉丸たちに、蜘蛛丸は鋭い視線を向けた。
青ざめる夜叉丸たち。木々の間を睨みつけていた蜘蛛丸は、ゆっくりと背に担っていた鉄砲を取り出した。
火蓋を開き、火門から銃身内に火薬と鉛玉が入っていることを確認する。
火のついた火縄に、そっと息を吹きかけ、火挟みに取りつける。蜘蛛丸は、鉄砲の柄を頬に押し付けると、滑るような足取りで藪に近づいた。
岩だらけの足場を、ゆっくりと、確実踏み進む。
蜘蛛丸の動きを、初たちは固唾を飲んで見守った。思わず身を乗り出しかけた岩太が、余計なことをするなと、夜叉丸に殴られる。拳骨の鈍い音に、蜘蛛丸はじろりと背後を睨めつけた。
藪の至近にまでにじり寄った蜘蛛丸は、そこで一度、足を止めた。
ざわざわとした気配が静まる。危険を察知したのか、一切の物音を殺した相手にも、蜘蛛丸は平静を保ったままだった。
岩場に置いた足を横に滑らせ、弧を描くようにして藪の側面へと回り込む。
蜘蛛丸が、気配の正体を確認しようとしたときだった。
事の成り行きを見つめていた初の背後で、誰かが小枝を踏み折った。
また夜叉丸党か──空気の読めない子分たちに、初はイライラと背後を振り返る。
「こんなときに何して……」
声を押し込めた初の目に、黒々とした物体が飛び込んできた。
ごわごわとした毛並み。泥で汚れた蹄。鈍色の牙。四肢は隆々と盛り上がり、まるで一本一本が年経た巨木のように太ましい。
初はこちらを見つめる物体と、しばしの間、見つめ合った。
猪である。ちょっと遠近感がおかしいのは、自分の目が悪くなったからか。夜中まで書き物をしていることが多いので、最近、近眼気味だなと思っていたところである。
「やっぱり、夜はちゃんと寝ないとなぁ」
己を戒めつつ、初は瞼を擦った。そして、今度こそ相手の姿を確認すべく、しっかりと両の目を見開いた。
体高六尺(約180センチ)に達しようかという巨大猪が、つぶらな瞳で初を見つめていた。
よし、ここはステイだ──初の本能が告げた。
下手に動いてはいけない。声を出してはいけない。慌てず騒がず、とうとうと流れる大河のように、この状況を受け流すのだ。
幸い、巨大猪の興味は、初に向いていない。餌でも探しているのか、さっきから夢中で地面の匂いを嗅ぎまわっている。
気配を断とうと、初は無心になった。目の前の猪も、周囲の木々のざわめきも、徐々に意識の中から締め出していく。
そうして自然と一体となった初は、今の自分の状況を客観視した。
腹が減っている。山に入ってからは、水とクマザサ茶くらいしか口にしていない。そろそろ何か腹に入れたいところだ。
今朝の食事はアジの干物に、旬の野菜がいくつか。卵焼き、味噌汁、漬物、雑穀入りのごはん。
料理頭の弥次郎は、また腕を上げたらしい。脂の乗ったアジは、噛むとじゅわっと旨味があふれ、ヒジキが混ざった卵焼きはふわふわ。採れたての野菜は瑞々しく、とろろを掛けて食べる雑穀ご飯は、まさに絶品だった。
もともと凄腕の料理人だった弥次郎だ。ここ数年は、初が教えた知識と技を吸収しつくし、己がものとしている。今では、紀州随一の料理人と言って差し支えないだろう。
昨日は、抹香鯨が獲れたと聞いている。ならば今夜の食事は、鯨肉か。弥次郎のことだから、きっと趣向を凝らした料理の数々を──
「──し、猪じゃあーっ!? お前ら、でかい猪が現れたぞっ!?」
うっかり食欲の泉に浸かり切っていた初は、夜叉丸の悲鳴に顔を上げた。
それまでじっと佇んでいた猪の巨体が、びくりと震える。
猪は、元来臆病な生き物だ。ちょっとした物音にも、すぐに怯える。
巨大猪も、その性質は同じだったらしい。怯え、うろたえる夜叉丸党の面々に驚いた猪は、瞬時に巨体を躍らせた。
「姫様っ! お下がり──」
──を、という蜘蛛丸の声は届かなかった。
突進してきた猪の鼻先が、初の身体をすくい上げ、天高く跳ね上げた。
次回の更新は、9月25日です。
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