桶狭間
短め。
桶狭間の戦い──
歴史には詳しくない初でも、名前くらいは知っている。後に天下人になる信長が、最初に打ち立てた偉業だ。
「たしか少数の信長勢が、今川の大軍に奇襲をかけて、総大将の義元を討ち取ったんですよね!?」
「いえ、違いまする」
あれ?
ぽかんとする初に、宗陽は首を振った。
「治部大輔殿が討ち取られたのは確かですが、やったのは上総介殿ではなく、弟御の弾正忠信行殿でございます。しかも弾正忠殿は、この戦を境に、兄の上総介殿に反旗を翻し、岡崎の松平殿と結んで、戦を続けておりましてな。以来、東海道筋の動静が定まりませぬ」
尾張は、東国と西国を繋ぐ重要な国だ。そんな場所が動揺すれば、影響は様々な土地に及ぶ。
銅の鉱山は関東に集中しており、鉱石を運ぶ舟が尾張の湊に近づけず、足止めを食らっているらしかった。
「ほう、それは良い話を聞いた。さっそく、我が家の船を出すとしようぞ」
光定が嬉し過ぎて、舌なめずりしそうな顔になっている。
安宅家では、明の船乗りから航海術を会得している。他の舟が遭難を恐れて陸伝いに進むのに対し、安宅家は星を頼りにした天測航法ができるので、沖乗りが可能だ。
数日間、湊に入らなくても走り続けられるため、危険な湊を避けて航海できるのが、安宅家の強みだ。おかげで安宅荘の産物を欲する土地では、安宅家の舟に停泊してもらうため、津料(入港税)を安くしたり、免除してくれるところもある。
宗陽によれば、関東や東北の産物が入らなくなり、いずれも値上がり傾向にある。今なら、物を右から左に動かすだけで、かなりの収益が見込めると、光定は気持ち悪い顔で笑った。
「安宅家の舟には、いつも助けられてばかりでございますなぁ。何とお礼を申せばよいやら」
「なに、わしらも紅屋との取引では、儲けさせてもらっている。商いとは、持ちつ持たれつよ」
悪い顔で微笑み合う光定と宗陽を他所に、初は疑問符を浮かべていた。
(あれ? 信長って、この戦いで名をあげたんじゃなかったっけ?)
しかも、弟と対立したなんて、そんな話あっただろうか?
現代では、歴史にさほど興味がなかったので、初の知識も曖昧である。もしかすると、この争いを乗り越えて、信長は勢力を拡大したのかもしれない。
帰ったら、青涯に聞いてみよう──初は、頭の隅で誓った。
とりあえず今回の取引では、代金の半分を銅銭で。残りの半分は、米や陶磁器などの現物で受け取ると決まった。
「話し込んでいるうちに、すっかり遅くなってしまいましたな。民部大輔様も初姫様も、今宵の宴には参加なされるのでしょう?」
「おう。ここへ来る目的の半分は、それだからの」
楽しげに笑い合う宗陽と光定を見て、初は頬を引き攣らせた。
そういえば、宴会があるんだった。
商売がうまく行ったのだから、宴席を設けるのは、ある意味当然だ。現代に比べて、飲みニケーションも活発な時代である。
(でも、面倒なんだよなぁ……宴会って)
初の憂鬱は、これで終わらなかった。
なんとか宴会を欠席できないかと知恵を巡らせる初のもとに、厄介な人物が訪ねてきた。
「これはこれは、民部大輔殿に初姫様。お久しゅうございまする」
屋敷の使用人に案内され、茶室に現れた青海は、朗らかに笑った。
禿頭を光らせる青海に、初の頬は痙攣する。
「せ、青海さん……なぜ、ここに?」
「わたくしが、お呼びいたしました」
宗陽が、福々しい顔で告げる。
「青海殿は、海生寺の隆盛に尽力され、一代で紀州屋を興された大立者。安宅家の方はもとより、わたくしにとっても大切なお得意様ですからな」
余計なことを、と初は胸中で悪態をついた。
(ていうか、九州に行ってるんじゃなかったのかよ!?)
堺行きが決まったとき、初は青海のスケジュールを密かに調べていた。
この時期は、明から来る交易船を迎えるため、九州へ出かけているはず。今ならば、青海と顔を合わせることなく、事を成し遂げられると思っていたのに──
臍を噛む初に、青海は人の好さげな笑みを浮かべた。
「水臭いですぞ、初姫様。堺へ来られるなら、一言申してくれれば良いものを」
「い、いえ。青海殿は、九州に出掛けていると聞いていたもので……」
「その前に、土佐へ立ち寄っておりましてな。そこへ店の者から、姫様が堺へお越しになられると文が届き、急いで駆け付けた次第でして」
またもや余計なことを。
険のこもった初の視線に気付かず、宗陽はふくよかな頬を震わせて、笑っている。
宴会だけでも憂鬱だというのに、さらに憂鬱の種が増えるなんて──
肩を落とした初は、心の底からため息を吐いた。
だんだんと歴史に齟齬が……
次回の更新は、6月4日です。
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