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有徳人

 堺には、湯屋が多い。


 港湾労働者は出稼ぎの者が多いため、その需要に応える形で、発展したらしい。また仏教には施浴せよくといって、貧しい人々や病にかかった人々を対象に、入浴施設を開放する習わしがある。寺院が多い堺では、仏教関係者による施しの意味もあった。


 湯屋に入ると、中は真っ暗だった。


 ガラス窓がないので採光はないに等しいし、屋内で松明を使うわけにもいかない。大抵の湯屋は男女混浴らしいが、初が入ったのは比較的高級な店だったため、内部は男女別に分かれていた。


 湯女(垢すりや髪梳きなどを行う女性)に手を引かれ、蒸気が充満した小屋の中に入る。


 この時代の風呂は、いわゆるサウナが主流だ。安宅館で使っているような五右衛門風呂は、珍しい部類に入る。

 海水で汚れた身体を洗い流し、髪を梳いてもらって人心地着いた初は、舟で宗陽の屋敷へと向かった。


 堺は、水路の街だ。


 海から海水を引き込んだ運河が、網の目のように張り巡らされている。町中を通る水路を使って、荷や人が行き交う様は、どこか外国に来たような印象を、初に与えた。


 会合衆に名を連ねるだけあって、宗陽の屋敷は立派なものだった。


 贅を尽くした柱に建材。屋敷の周囲は、漆喰の塀で囲まれ、小さいながらもよく手入れされた庭が、訪れた者の目を楽しませる。


「着いて早々、災難でしたなぁ、民部大輔みつさだ様」

「いや、まったく。まさか、あのような小童どもにしてやられるとは」


 屋敷内の茶室で対面した宗陽は、安宅家の面々を労った。特に悲惨な格好となった初には、心底同情の念を示してくれる。


「あれは、この辺りで悪さをする孤児の集まりでしてな。最初は物乞い程度だったので、我々も食い物や銭を与えたり、施しをしておったのです。それが悪かったのでしょうな、だんだんとつけあがるようになって」


 今では、ちょっとした盗賊団のようになっているという。


 出された茶を啜りながら、初は強い驚きに見舞われていた。


(まさか、あんな年頃の子供が盗みをやってるなんて……)


 あの童たちは、戦で親を亡くしたり、あるいは口減らしのために、親に捨てられた者たちだ。何の知識も伝手もない者たちが寄り集まり、日々の糧を得るために盗みを働く。


 現代であれば、考えられない話だ。


 子供を捨てるなんてあってはならないし、もし何かしらの事情で孤児になったとしても、ちゃんと面倒を見てもらえる施設が存在する。貧しいならば生活保護を受け、学習の機会や職業訓練を受けて、生活を立て直すための支援策も充実している。


 対して、この時代の孤児たちは、自力で生きていくしかない。孤児を引き取る施設も、貧しい人々を支援する公的な組織も存在しない。

 宗陽が話していたように、そういった人々に対して、施しをする者もいないわけではない。が、現代に比べて、圧倒的に支援が足りていないのが実情だった。


(安宅荘では、こんなことなかったのに……)


 貧しい者たちはいたが、積極的に盗みを働く者はいなかった。領内の治安も良く、だからこそ初は、どこへでも好き勝手に歩き回ることができた。


(先生がいたから、できてたことだったんだな……)


 初は改めて、青涯の偉大さを実感した。


 海生寺では常に、貧しい者たちに対して、施しを与えている。孤児がいれば引き取って教育し、病人には寝床と薬を与える。飢饉に苦しむ村があれば食料を分けてやり、人を派遣して農業指導を行う。そういう努力の積み重ねによって、安宅荘の豊かさは維持されていたのだ。


 それに比べて、と初は座敷の隅に視線を移す。


 宗陽と光定の談笑も一顧だにせず、宗栄は静かに茶を啜っていた。


 周囲の雑音など意に介さず、超然と佇む姿は、世俗の穢れとは無縁の静謐さを宗栄に与えている。華美ではないが仕立ての良い衣をまとい、静かに座す姿は、僧侶としては正しいのかもしれない。しかし、青涯の生き方を知っている初には、どうにも胡散臭い存在に見えてならなかった。


「──宗陽殿、某はこれにて」


 つい、じっとりとした視線を向けてしまう初を知ってか知らずか、宗栄は飲み干した茶碗を置くと、音もたてずに立ち上がった。


「おや、もうお帰りですか。このあと宴席を設けますので、ぜひご一緒にと思ったのですが」

「坊主が、酒食を貪るわけにはまいりませぬ。それよりも、あのわっぱについてですが」

「ええ、それはもちろん。我が家にて、きちんと世話をさせていただきますので」


 宗陽の返事に満足したのか、宗栄は一礼すると、ゆっくりとした所作で廊下に足をかけた。


「……教育は受けられるんですか」


 宗栄の足が止まる。


 問いを発した初は、きょとんとする宗陽を見つめた。


「教育、ですか?」

「海生寺では、孤児や領民の子弟のために、寺で読み書きの授業を行っております。僭越ながら、わたくしも教鞭をとっておりまして」

「ほう、それはそれは。初姫様の博識ぶりは、安宅家の方々より聞き及んでおりますが、まさか御自ら教壇に立っておられたとは」


 おべんちゃらで時間を浪費したくはない。初は、直截に問い質した。


「宗陽殿は、あの童に読み書きを教えてくださいますか? 算術は? たとえ、この店を出たとしても、一人で生きていけるだけの術を、あの童に与えてくれますか?」

「これ、初! そのように無礼なもの言いをするでない!」


 光定が慌てる。宗陽は戸惑った顔で、初を見返した。


「さて。あの童は、店で下働きでもさせるつもりだったのですがな。まあ、本人にやる気があれば、働くうちに読み書きくらいは、自然と覚えるでしょうが」

「それでは、いつまで掛かるかわかりません。読み書きができねば、大した仕事も務まらぬでしょう。十分な給金を得られなければ、あの童だって、いつまた悪事に手を染めるか──」

「初姫様」


 宗栄の声は、静かだった。だが、自然と耳を傾けさせるような、不思議な響きを持っている。


「姫様は、あの童をどうしたいのですかな?」

「それはっ……ちゃんと教育を与えて、それなりの仕事につかせてですね」

「一人の人間に読み書きを教え、生きる術を与えるのには、大変な労力が伴います。相応に銭も掛かりましょう。それを宗陽殿に負担せよと、あなたは仰られるのですね?」


 宗栄の言葉には、何か見えない圧力のようなものがこもっていた。声を荒げるわけでも、強い言葉を使っているわけでもないのに、初はなぜか、非常な息苦しさを感じた。


「宗陽殿は、あの童に慈悲を掛けられた。殺されかけた命を救い、あまつさえ屋敷に引き取って、養おうというのです。それ以上を求めるのは、傲慢というもの。違いますかな?」

「そ、それは……でも、安宅荘ではっ」

「ここは、あなた様のご領地ではない。名にし負う青涯殿も、ここにはおられぬ。あの童は安宅荘ではなく、この堺で生きていくのです。ならば、この地のやり方に合わせるのが、道理ではありませぬか?」


 初は歯噛みした。ようは、薄汚い孤児一人に、金など掛けられないと言いたいのだろう。


 むかむかと怒りが込み上げてきた初は、ならばと宗栄に向かって言い放った。


「わかりました。それならば、あの童は安宅家で引き取ります」

「お、おい、初! お主、何をっ……」


 光定が、あわあわと初と宗栄を見比べるが、初は止まらなかった。


「考えてみれば、あの者は我らの船に入り込み、たのむと申しました。ならば、あの者は本来、我が家の下人となるはず。我が家の下人をどうしようと、我らの勝手。そうですな、宗陽殿?」


 初の剣幕に、宗陽の瞳に面白がるような光が宿った。


「無論、安宅家の方がそれでよいと申されるなら、わたくしめに異論はございません。あの童は、安宅家の下人として遇しましょう」


 どうだ、と初は胸を張った。自分は、口先だけのお前らとは違うんだぞ、と口の端をつり上げる。


 宗栄は、じっと初を見つめた。凪いだ湖面のような眼差しがふと緩み、宗栄は言った。


「あの童を下人として雇うのは、安宅家であって、あなたではありません。あなたに、あの童を養っていけるだけの甲斐性がおありで?」


 ぐうの音も出ない正論に、初は息を詰めた。


 膝上で握ったこぶしに、力が入る。宗栄は、しばらく初に、観察するような眼差しを向けていたが、小さく息を吐くと、


「──失敬、少々言葉が過ぎました。あなた様の決断は、まことに立派でございます。貧しき者、病める者に同情こそすれ、実際に手を差し伸べる人間は少ない。あの童を養い、教育を施すというあなたの考えは、慈悲に満ちている。まさに、有徳人うとくにん(徳のある人。転じて、金持ちの意)の鑑と言えましょう」


 内心、冷や汗を流していた初は、宗栄の賛辞に、どうすべきか迷う。


 まごつく初を見据えて「ですが」と、宗栄は言った。


「あなたの態度も、考え方も尊いものでございます。されど、人間は足るを知らねば、間違いのもととなる。くれぐれも、お忘れなきように」


 宗栄は腰を折り、深々と一礼した。

堺の街の描写に関しては、堺市の発掘調査の結果を参考にしています。最新の研究とは違っているかもしれませんが、大きく外れてはいない、はず……


次回の更新は、5月27日です。


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