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成長

 永禄4年(1561) 3月上旬 紀伊国 安宅荘

      

 初の朝は、まず布団との格闘から始まる。


 この身体になってからというもの、どうにも寝覚めが悪い。現代では、朝には強いほうだったのがだが、低血圧気味なのか、脳に血が通うまで、非常に時間が掛かる。


 半目を開けたまま、初は布団の中で、うとうとした。


 夢と現のあわいを、行ったり来たり。そうして、なんとか脳に活を入れた初は、たっぷりと綿を詰め込まれた、ふわふわの布団の誘惑を押しのけ、身体を持ち上げた。

 途端、朝の冷気が寝巻の隙間から、忍び込んでくる。


 どうも、この時代の日本は、現代よりも気温が低いらしい。

 冬は、温暖な太平洋に面した紀伊でも、かなりの雪が降るし、三月になっても、外気にはまだまだ冬の気配が色濃く残っている。


 風を通しやすい日本家屋の常で、早朝の部屋の中は、身震いするほどに寒い。


 今すぐ布団に戻りたくなる気持ちを堪えて、初は部屋の襖を開けた。


「おはようございます、姫様。お水は、こちらに」

「ん、あいあと」


 菊から手桶を受け取り、顔を洗う。

 冷たい井戸水が肌に染み込むと、寝ぼけていた頭が、一発で覚めた。


 寝巻から動きやすい格好に着替えた初は、日課の朝の運動をしようと庭に出た。


「兄上、今朝も鍛錬ですか?」

「うむ。はやく、これの癖を掴みたくてな」


 頼定よりさだが掲げたのは、舟の艪だった。


 舟を漕ぐのが趣味という頼定は、普段から庭の池で艪の練習をしている。そこで、初が改良した艪を、試しに使ってもらったのだ。


「これは、いい艪だ。今までと違って、漕いだ力が逃げていく感じがしない。小さな舟なら、一人でも相当に速く漕げる」


 四角張った顔を喜びの色に染めて、頼定は池の水を掻きまわす。


 池で飼われている魚たちが、迷惑そうに水面でぴょんぴょんと跳ねていた。


「やり過ぎると、また母上に怒られますよ」


 無言で片手を上げる頼定から離れ、屋敷の庭を三周する。


 朝のランニングを終え、身体をほぐした初のもとへ、虎丸が駆けてきた。


姉様あねさま、今朝も稽古にまいりました!」

「よーしよし、朝から元気だなぁ、虎丸は」


 形の良い頭をぐりぐりしてやると、虎丸は嬉しそうに笑う。


 六歳になり、少し身体の大きくなった虎丸と共に、武術の稽古に移る。


 長刀なぎなたは、武家の娘の嗜みだ。たいていの習い事はサボってばかりの初も、これだけは性に合ったのか、真面目に稽古に取り組んでいた。


「頼定兄上も、ナーバスになってるのかねぇ? まあ、結婚が近いとなれば、無理もないか」

「姫様、手元がおろそかですよ」


 一緒に長刀を振っていた菊に叱られ、初は稽古に集中した。二人の横では、虎丸が真っ赤な顔をしながら、子供用の軽い木刀を振っている。


 一通りの型を終え、菊を相手に、何度か模擬戦を繰り返す。

 うずうずしている様子の虎丸を手招きすると、嬉しそうに表情を輝かせた。


 じゃれ付いてくる虎丸の相手を終える頃には、薄暗かった安宅荘にも、まぶしい朝日が差し込んでいた。


 遮るもののない光を全身に浴びながら、心地よい汗に一息をつく。


 初は、侍女が持ってきた陶製の瓶を受け取った。中に入っているのは、新鮮なヤギの乳だ。

 腰に片手を当てた由緒正しきスタイルで、今日も朝日へ献杯。


 乳を飲み干した初は、ぷはっ、と息を吐き出した。


「かあ~っ! やっぱたまんねぇなぁ、この味は!」

「このあじはっ」


 真似をする虎丸を微笑ましく見ていると、背後から殺気を感じた。


「姫様?」

「おほほほ、美味しゅうございますわねぇ、ヤギの乳は」


 菊から胡乱な目を向けられたが、なんとか誤魔化しきった。


 侍女が汲んできた井戸水で手拭いを濡らし、上着をはだける。すると、帯の締め付けから解き放たれた膨らみが、ふるりとこぼれ出た。


 手拭いで汗を拭う手が、胸のところで止まる。


 近頃、とみに目立つようになってきた胸部。呼吸に合わせて上下する様は、長時間の束縛対する抗議のようだ。

 若く、張りのある膨らみを下からすくい上げて、初は唸った。


 また、大きくなった気がする。


 現代では、妹がいた身である。成長による女性の身体の変化については、なんとなく知識があるが、これは予想外だった。


 たかだか十二歳程度で、ここまで顕著な膨らみが現れるとは。


 どちらかといえば、スレンダー派だった大崎慶一郎である。他人のものを眺めるならともかく、自分の胸が大きくなって喜ぶような趣味はない。


(ちゃんと運動もしてるし、栄養のバランスだって、考えてるんだけどなぁ?)


 青涯和尚に相談した結果、とりあえず運動によって脂肪を筋肉に変え、食事に気を遣うという結論に落ち着いた。


 毎日、献立に工夫を凝らし、日課のトレーニングだって欠かしていないのに、結果は惨憺たるものである。


「やっぱ、女の身体だと筋肉が付きづらいのかなぁ?」


 三杯目の雑穀ご飯をおかわりしつつ、初は首を捻った。


 味噌汁で汚れた虎丸の口元を拭ってやり、そろそろ出かけようと自室に戻った初は、待ち構えていた侍女たちに、げんなりした。


「……また、新しい着物かよ」


 これで何着目だ?


 侍女たちの採寸を受けながら、初は嘆息した。


 最近、以前にも増して、着物を新調する機会が増えたように感じる。

 昨年までは、季節の変わり目とか、着物を汚したときくらいだった。それが近頃は、半月に一着ほどのペースで、採寸を受けている。


「そんなに作られたって、いちいち着てられんぞ?」


 蔵やら長櫃やらに収められた着物の山を思い出しながら、初は急いで採寸を済ませる。


 洗いざらした袴の裾を括り、右半分は赤、左半分は紺色の上着をまとう。


 破れた着物を縫い直して、初が自作した作業着だ。

 これから行く場所は服が汚れやすいので、あまり華美な格好をするわけにいかない。かといって、あまりみすぼらしい格好をしていると、あとで菊に怒られる。


 汚れても問題がなく、なおかつ武家の姫にふさわしい格好というのは、なかなか難しいものだった。


「姉様、また出かけてしまうのですか?」


 袴の裾を掴む虎丸に、初は苦笑した。


 自分も一緒に行きたいという思いを、堪えているのだろう。うるうるした瞳で見上げてくる虎丸を、初は諭した。


「いつも言っているように、あそこは危ないんだ。もう少し大きくなったら、一緒に連れて行ってやるから」


 な? と微笑みかけると、虎丸はしょんぼりした様子でうなだれた。それが、幼い頃の妹の姿と重なって見えて、初の胸が小さく痛んだ。


「出かける前に、華殿の様子を見に行こうか?」

「はい!」


 虎丸と手を繋いで、館の廊下を歩く。




 華の居室は、館の奥まった一角にあった。


「姉上、お加減はいかがですか?」


 部屋の中では、布団に横たわる華と直定が、見つめ合っているところだった。


「おお、初。虎丸も一緒か」


 朗らかに微笑む直定だが、初は見逃さなかった。二人が布団の中で、こっそりと手を握り合っていた瞬間を、ばっちり目撃している。


「相変わらず、仲がよろしいことで」


 顔を赤くした華が、布団を口元まで引き上げる。

 直定は「これ、大人をからかうな」と、ちょっと怖い顔をして見せた。


「申し訳ありません、このような格好で」


 布団から起き上がろうとする華を、手のひらを立てて押しとどめる。


 華の隣には、一人の赤ん坊が寝かされていた。

 先月に生まれたばかりの、虎丸の弟だ。名を、千代丸ちよまるという。


 お産そのものは順調に終わったものの、千代丸を生んで以来、華は体調を崩したままだった。今も、身体を支えようとするだけで、辛そうにしている。


「母上! 今朝は、姉様と一緒に、武術の稽古をいたしました!」


 母親に遠慮してか、そっと枕元に腰を下ろした虎丸に、華は眉尻を下げた。


「まあっ、今日もお相手をしていただいたの? すみません、初殿。虎丸が、ご迷惑をおかけしませんでしたか? この子ったら、何でも初殿の真似をしたがって」

「いえいえ、虎丸はなかなか見どころがあります。今朝も、ちゃんと私たちの稽古についてきましたから」


 なあ虎丸と、頭を撫でてやる。


 もともと病弱な性質だったが、お産を境にして、華はますます、やつれたように見える。以前は、儚げな美人だったのが、今では消え入りそうな雰囲気をたたえていて、見ているこっちが不安だった。


「すまんな、初。虎丸の世話を任せてしまって」

「いえ、虎丸は賢い子ですから。教えたことは、すぐに覚えてしまって、私のほうが驚いているくらいですよ」


 手習いや算術など、虎丸には時折、初が教育を施しているが、いずれも、なかなかの成績だ。特に算術に関しては、小学校の低学年くらいの問題なら、簡単に解いてしまう。


 直定は、虎丸を膝の上に抱え、頬を突っついた。


「本来なら、私が相手をしてやりたいのだがな」

「兄上は、仕事があるのですから。仕方ありませんよ」


 去年あたりから、直定は本格的に、安宅家の当主として働き始めた。


 今はまだ、安定やすさだの補佐として動いているが、数年以内には、直定が前面に立って、安宅家を率いていくことになる。それに伴って、直定がこなすべき業務は激増し、連日に渡って、領内を飛び回る状態が続いていた。


「あなた、少しはご自愛なさってくださいませ。このままでは、身体を壊してしまいます」

「案ずるでない。今は、覚えねばならぬことが多いでな、多少は仕方ないのだ」


 華を安心させようとしてか、直定はことさらに、明るい笑みを浮かべて見せた。


「私も家臣たちも、はじめは右往左往しておったが、近頃は、随分とコツを掴んできた。父上も、慣れればどうということはないと、仰っている。何も、案ずる必要はない」

「ですが、お顔の色がすぐれませぬ。疲れが溜まっているのではないですか?」


 実際、直定の顔には疲労の色が濃い。今は、華の前なので雰囲気も柔らかいが、仕事中はぴりぴりしたり、苛ついた様子を見せることも多かった。


(この人、責任感が強いからなぁ。もうちょっと、肩の力を抜けばいいのに)


 初も心配しているが、さすがに十二歳の身では、家の仕事を手伝わせてもらえない。せいぜい、虎丸や華の話し相手をして、直定の負担を少しでも軽くしてやるくらいだ。


 湊の喧騒や、武家屋敷を行き交う商人たちの声も、ここまでは届かない。


 静謐な空気の中、くすぐったそうに笑う虎丸を、華は眉尻を下げた表情で見つめていた。

次回の更新は、4月22日です。

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