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物思い

 川面を小魚が跳ねまわる。


 夕焼けを照り返す水面に誘われてか、ぱしゃりぱしゃりと水飛沫が立ち上がる。

 川舟に揺られながら、初はぼんやりと水中を泳ぐ魚の群れを眺めていた。


「お気になさっているのですか?」


 菊の声。


 川面を指先でかき回していた初は、億劫そうに顔を上げた。


「何度も申し上げますが、舟比べなど武家の姫がやることではありません。その“すくりゅー”とかいう、からくりの出来が悪かったからといって、姫様がお気になさる必要は」

「……ん? ああ、違う違う。別に、落ち込んでるわけじゃないよ」


 気怠げに手を振る初を、菊はじっと見つめた。


 相変わらず感情の読めない瞳だ。能面のような無表情を向けられて、初は背中がむずむずした。


「……本当だよ。墨さんの言葉を気にしてるわけでも、舟比べで負けたのを悩んでるわけでもないから」

「では、何をそんなに思い煩っておられるのです?」


 菊の指摘に、初は後頭を掻いた。


「うーん、どう言ったらいいのか……まあ、あれだ。ちょっと期待外れだったからな」


 菊の片眉が、わずかに持ち上げられる。


 初は、喉を反らすようにして天を仰いだ。舟板に後ろ手をつき、茜色に染まり始めた空を見上げて、息を吐いた。


「鍜治場っていうから、どんなもんかと期待してたんだが……やっぱ、あんなもんだよなぁ」


 水車を動力源としたハンマーやふいごのこぎり。クランクやシャフトを介して動く装置は、それなりに見応えのあるものだった。現代では博物館に行っても、そうそう見られるような代物ではない。

 だが、結局はそれだけだ。


 現代の工場とは比べるべくもない、ほとんどが人力任せの前時代的な作業場。すべてを職人の勘と経験に頼り、理論的裏付けのない原始的な手仕事。


 別に、職人の技を否定するわけではない。現代でも、最高の加工機械は人間の手であると断言する技術者は多い。実家の町工場にも、そういう昔気質の職人はいた。

 だが、初が求めていたのは、そういうものではないのだ。


(何を期待してたのかねぇ、俺は……)


 あの門が開いた瞬間、初は落胆した。

 もしかしたら、現代の匂いを感じさせる何かがあるのではないか? 工作機械とまではいかなくても、創成期の旋盤くらいなら。

 頭のどこかでそう考えていた自分が、すっとさめていくのを感じた。


 ぼんやりと虚空を見上げる初を、菊は冷えた眼差しで見つめている。

 彫られたような端正な顔は、ぴくりとも動かない。ただじっと、初の姿を観察している。


 舵を切った川舟が、ぐうっと右に揺れる。

 体勢を崩しかけた初は、驚いて船頭を振り返った。


「岸に着けるのか?」

「へえ。実は鍜治場の連中から、届け物を頼まれまして」


 いいですかい? と訊ねる船頭に、初はうなずいた。

 どうせこんな時間だ。もう手習いをしている暇もないし、少しくらい帰るのが遅くなったって構わないだろう。


 船頭が棹で川底を突き、大きく舟の進路を曲げる。

 初は、横目で視線を送ってくる菊を見ないようにしつつ、川舟が岸に着けるのを見守った。


 日置川の流域には、多くの村落が点在している。

 安居やすい村は、川が大きく屈曲する地点に位置し、広く土砂が堆積した河岸は、舟を着けるのに適していた。

 川湊としては、河川流通の中継地として。また熊野三山へと通じる大辺路おおへじを歩く者たちの休息地として、安居村はそれなりににぎやかな場所だった。


「おや、初姫様ではございませんか?」


 荷下ろしをする船頭たちの作業を眺めていた初は、背後から掛けられた声に振り向いた。


 雅やかな胴着を着た青海が、禿頭を西日に光らせながら、初を見つめていた。


「やはり、姫様でしたか。なぜ、このような場所へ?」

「海生寺へ、漂流者を届けた帰りです。青海殿こそ、ここへは仕事で?」


 青海の住居は、日置川河口の唐人町にあったはずである。そこも安宅荘へやってきた際の宿所兼店舗で、本拠地は堺だと聞いていた。


杣人そまびとから、材木を買い付けにまいりましてな。思ったように品が集まらず、方々駆けまわっておりましたら、こんな刻限に」


 つるりとした頭を撫でまわす青海は「まだ仕事があったのですが」と、山の稜線にかかり始めた太陽を見上げた。


「今日はもう無理ですな。姫様たちは、これからどうなさるのです?」


 まさか川を下るつもりでは、と青海は四角い顔を寄せてきた。

「そのつもりですが……」と答えた初に、青海は太い眉を寄せながら首を振った。


「いけませぬ。夏とはいえ、このあたりの日暮れは、もう間近でございます。今から川を下ったのでは、安宅湊に着くころには、暗闇の中ですぞ」


 うっかり川に落ちでもしたら、そのまま海まで流されかねない。そう言って青海は、初を引き留めた。


「幸い、この村には某の別宅がございます。今夜は、そこにお泊り下され。お館のほうへは、使いの者を送りますゆえ」


 どうする? と初は、菊に視線を送った。

「それがよろしいかと」と菊が賛成したので、初は青海の誘いを受けることにした。







      

「へえ。ここら辺って、昔は禿山だったんですね」


 驚く初に、青海は鷹揚にうなずきながら、


「材木は、紀伊の重要な産物ですからな。特にこの辺りは、青涯和尚がやってくるまで、貧しい土地でしたので」


 青海の屋敷へ向かう道すがら、初は青涯が安宅荘で行ってきた事績について聞いていた。


 五島列島から紀伊へ渡ってきた青涯は、まず特産物の開発に力を入れた。


 農地の改良には、時間と手間がかかる。当時の安宅荘には、それを支えるだけの富がなかった。だからまずは最低限の暮らしができるよう、経済の立て直しを優先したのだ。


 幸い、紀伊は海産物と山の幸に恵まれている。それを利用すれば、すぐに商品は開発できた。


 海で採れたカツオやマグロなどを、鰹節や鮪節に加工。猟師たちが獲ってきた猪や鹿も、乾物にして販売した。


 他にも、養蜂による蜂蜜生産。獣脂や植物油を使った石鹸生産。椎茸をはじめとした、キノコ類の栽培。林檎、蜜柑などの果樹の導入。ホスベーも、漁師たちから干物を早く作る方法を求められた青涯が、考案したものだという。

 これらを生産する施設は、すべて青涯が私財を投じて建設したというから驚きである。


 特産物の生産と販売が軌道に乗ったところで、青涯は安宅荘一帯の植林に着手した。


 意外なことに、戦国時代の日本は禿山が多い。


 この時代は、煮炊きに使う燃料も、建物を建てるのにも、船を造るのにも木材を使う。現代のように、石油や鉄鋼製品を使用できないため、常に莫大な木材需要が存在するのだ。


 都に近く、山に囲まれた紀伊では、昔から林業が盛んだった。だが、近頃は木を伐り過ぎて、禿山が多くなっていた。


 樹木は、土地の保水能力に大きく関わっている。木が減った紀伊では、洪水や山崩れが頻発し、湧水が減少したことで田畑の作物にも影響がでた。矢代村が水の確保に苦労していたのも、樹木の減少が一因である。


 青涯は、植林にひと工夫を加えて、山の斜面に藁を敷き、その隙間に木の実や種を混ぜ込んだ。こうすると、餌を求めて野鳥が集まってくる。その野鳥たちが藁の上で糞をし、肥料ができるという寸法だ。


 鳥の糞が山の土を肥えさせ、木の成長を早める。安宅荘一帯では、この方法によって十年ほどで禿山の減少がみられた。


 今では紀伊全体、さらに隣国へと広がりを見せている手法だという。


「野鳥の糞を含んだ藁の一部は回収して、百姓たちが畑に撒いております。これが良い肥料になりましてな。近頃では、遠国より商人が買いに来るほどでして」

「その肥料を売り込んだのが、青海さんってわけですね?」

「なあに、私はただ良い商品を紹介しただけのことで」

「またまた、ご謙遜を」


 商工会に顔を出していたお陰で、この手のおっさんの相手は、お手の物である。


 菊に白い目で見られながら、初たちは安居村の山の手へと歩いて行った。


 この辺りには、安居村でも比較的裕福な者たちの家が多い。人間偉くなると高い場所に住みたがるのは、いつの時代も同じということか。


 益体もないことを考えながら、周囲を見回していた初は、斜面の一角に一際立派な屋敷を発見した。


 豪奢な門の前には、一人の男が立っていた。

次回の更新は、3月28日です。


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