義房
初たちを乗せた関船は、日置浦の湊に帰り着いた。
「よーし、そのままだ。右舷組、漕ぎ方止め! 左舷組は、もう一押しじゃ!」
船頭の指示に合わせて、右舷の艪が動きを止める。
左舷の艪床に立った水主たちは、太鼓の拍子に合わせて艪を漕いだ。
周囲に係留された船との位置関係を勘案していた船頭は、さっと手を上げて舵を切らせる。次いで、左舷組の水主にも停止の合図を送った。
関船が、すーっと流れるように左旋回。
推進力を失った船は、左舷の船腹を正面にしながら、惰性で航行を続けた。それも海水の抵抗によって、急速に船足を落としていく。
やがて関船が完全に停止した時、その船体はぴたりと桟橋に横付けされていた。
「相変わらず、良い腕だの助三郎。さすがは、安宅家一の船頭よ」
「へえ、もったいないお言葉で」
直定の賛辞に、四十がらみの男が嬉しそうに頭を掻く。
初は、舷梯を渡って桟橋に降り立った。
空に向け、大きく伸びをする。
まさか、漂流者を助けることになるとは思わなかった。夏の盛りに、カップルで埋め尽くされた浜を睨みながら働いたライフセーバーとしての経験が、こんなところで生きるとは。人生、何が起きるかわからないものである。
(まあ、今の状態が一番わけわかんねぇけどな)
相変わらずの女児姿に嘆息しつつ、初は関船を見上げる。
水主に担がれた漂流者たちが、舷梯を渡ってくるところだった。
真っ白な頭が、水主の背中で眠っている。
よほど疲れているのか、息を吹き返した後、すぐにまた意識を失ってしまった。
慌てて呼吸と脈をはかったが、どちらも正常だ。正確なことは医者に見せなければわからないが、おそらく大丈夫だと思う。
目の前を通り過ぎていく白い容に、桟橋に集まった人々がどよめいた。
まるで、ガラス細工のような顔立ちだ。
小柄な体躯に、触れると折れそうな手足。夏だというのに、その周囲だけが雪をかぶったような静謐さに包まれる。
絶世の、という表現を使うのに、これほど相応しい相手もいないだろう。
(でも、ツいてるんだよなぁ……)
初は、虚空を見上げた。
濡れた服を着替えさせようと、不思議な紋様の描かれた衣服を脱がせた時のことだ。
あの瞬間の衝撃を、初は一生忘れないだろう。いまだかつて味わったことのない感覚に襲われ、思わずこの世の真理と不可思議について思いをはせそうになったほどである。
「これくらいか? いや、もう少しこう……」
指でサイズを比較していた初は、続いて降りてきた大柄な人影に目を止めた。
板に乗せられた漂流者は、こちらも泥のように眠っている。時折、呻き声を漏らすが、それすらも掠れてよく聞き取れない。
なんとなく気不味さを感じた初は、目を逸らした。別に悪いことをしたわけでもないのに、もやもやとした罪悪感が溢れてくる。
(まさか、こっちが女だったとはなぁ)
運ばれていく女性に、心の中で頭を下げる。
女性ということで着替えを任されたのだが、どうしても悪いことをした気分になる。
今の自分の身体が女になっているのはわかるが(その点について、納得したわけではないが)精神的には、男のままなのだ。なので、こういう事態が起こると、どうしていいのか戸惑ってしまう。
「まあ、今回は緊急事態だし? 別にやましい気持ちとかないし。そもそも、うちの野郎どもに女の着替えを任せるわけにも……」
「なにを、ぶつぶつと言っているのです?」
言い訳がましく自分を納得させていた初は、菊の声にびくっとなる。
例のごとく冷たい視線を浴びせてきた菊は、開きかけていた口を噤んだ。
また、どんなお小言を言われるかと身構えていた初は「おや?」と違和感を感じる。
いつもなら瀑布のごとく降り注ぐ叱責が、今に限って来ないなんて。
宙に視線をさまよわせた菊は、何かを飲み込むように、ぐっと口を閉じた。瞼を閉じ、再び開いた時には、幾分穏やかな光が瞳に宿っていた。
「……帰りましょう、姫様。お館で、手習いの続きを」
「う、うん……うん?」
なんだか調子が狂う。
こっそり逃げ出そうとしていた亀次郎が、頼定に捕まって、関船へと連行されていく。
不審な様子が顔に出ていたのか、菊はいつもの無表情を取り戻して、
「なんです?」
「いや、その……怒らないのかなぁ、と思って……」
「怒られるようなことをしたのですか?」
ぶんぶん、と左右に首を振る。
ならば結構、と菊は踵を返した。
先に立って歩き始める背中を、初は不審な顔で見つめた。
湊の空気が変わった。
初は、ざわめく人垣が、左右に割れるのを見た。
現れたのは、大男だった。
周囲の漁師たちが、まるで子供のようだ。この時代の人間は、現代人より小さい傾向にあるが、それにしたってサイズが違いすぎる。
脇目もふらずに桟橋を歩いてくる男の背後には、十人ほどが付き従っていた。
いずれも屈強そうな男で、なんとなく周囲とは目つきが違う。動きもきびきびと隙がなく、百姓や漁師とは明らかに違う人種だ。
大男の一団は、漂流者を運ぶ水主たちの前に立ちふさがった。
大男を見るなり、水主たちが居住まいを正す。
先頭の水主が大男と話し始め、二言、三言かわすと、背負っていた漂流者たちを下ろし始めた。
「姫様、どこへ行かれるのです!?」
菊の叱責を背に、初は駆け出した。
桟橋を渡ると、ちょうど大男の一団が漂流者たちを受け取っているところだった。
「待ってくれ! あんたたち、その人たちをどこに連れていくつもりだ?」
初の声に、大男が振り返る。
頬や顎に刻まれた刀傷。潰れた左目。脂っ気のない髪は白髪交じりで、背中に垂れた長髪を乱雑に束ねている。
いかにもな凶相だが、それ自体にはさして初は驚かなかった。
戦国時代だけあって、身体のどこかに傷跡を持っている人間は珍しくない。矢代村にも、戦で手足を失った人間がいるくらいだ。
それでも初が怯んだのは、大男の全身から発される一種異様な迫力故だった。
近くで見ると、大男は本当に大男だった。確実に、二メートルは超えている。
肩幅が広く、分厚い胸板。長大な手足は、それだけで一つの武器になりそうだ。
大男は、初の姿に目を細めた。
近づいてこようとする部下を押しとどめ、巨体に似合ぬ静かな動作で、その場に片膝をついた。
「安宅家のご息女、初姫様とお見受けいたす」
大男の声は、殷々(いんいん)と初の耳に届いた。
重く、水底に沈みこむような深みがあるが、不快ではない。決して美声ではないが、人の心の奥底に語り掛けるような、不思議な響きを持つ声だった。
「某は、海生寺衆人を束る、義房と申す。我らに、如何ご用件か?」
鋭い眼光に、初は気後れしそうになった。だが、いまだにぐったりしている漂流者たちの様子に、唇を噛みしめると、
「……その人たちを助けたのは、安宅家の船だ。なら、その人たちがどこへ連れていかれるのか、訊ねる権利があると思う」
どうだ? と初が視線で問うと、義房は一つ首を縦に振った。
「ご安心なさいませ。あの者たちを、手荒に扱うような真似は致しませぬ。ひとまずは海生寺へ運び、そこで養生させる所存にて」
「あんたらが、あの人たちの面倒を見るっていうのか?」
「然り」
うなずく義房に、初は疑念を禁じえなかった。
こいつら、どう見たって堅気じゃない。人を介抱するよりも、売り飛ばすほうが得意そうだ。ありていに言って、信用ならない。
(まさか面と向かって、ヤクザか訊ねるわけにもいかないしなぁ)
そもそも、この時代にヤクザはいるのか? うちの水主たちも、見た目だけなら、完全にそっち方面の人間だが。
追いかけてきた菊が、背後から着物の裾を引く。
関わるな、ということだろうか。無言で首を振る菊に、初は唇を噛んだ。
「そんなに心配せんでも、大丈夫じゃよ」
ゆらりと、足元から立ち上るようにして現れた老人に、初はぎょっとした。
何の前触れもなく(いつものことだが)初の隣に立った聖は、歯の抜けた顔で愉快そうに笑った。
「爺さん。あんた、なんでここに……」
「そりゃあお前さん、寄舟に決まっておろうが。何か、金目のものでも拾えんかと思うてな」
ま、空振りだったがの、とにやけ顔。
「衆生の欲というのは、あさましいかぎりじゃわい。船体の木材から釘の一本に至るまで、みーんな持って行ってしまいよってからに。ちっと強欲が過ぎるんでないかい?」
「いや、あんたが言うことじゃないだろ」
思わず半眼になると、聖は「それもそうじゃ」と乱杭歯を剥きだして笑った。
「それで、安心っていうのは?」
話が進まないと見た初が問いかけると、聖は粗末な杖に寄りかかって、
「あの漂流者どもさ。海生寺は、貧しい者や病める者に気安い。あそこなら、衆生も安心して養生できるだろうて」
本当に、そうだろうか?
納得がいかず、義房の背を睨みつける初に、聖は、
「そんなに心配なら、ついて行ったらどうじゃ。己の目で確かめれば、問題はあるまい?」
「それもそうか。じゃ、菊。私は、海生寺に行ってくるから、お前は戻って」
「わたくしも、お供します」
「いや、別についてこなくても……」
「姫様」菊は、初の顔を見つめた。完全に真顔だった。
「これ以上、ご無理を申されるのなら、わたくしにも考えがございます」
初は、着物の裾を払った。
乱れた帯を直し、襟元を正すと、静かに頭を下げた。
「お願いします。ついて来てください」
衆人:いわゆる僧兵のこと。
ええ、ちゃんとヒロインは登場しましたよ? 現代では、男女問わず使われますから、間違ってはいない……はず。
次回の更新は、3月18日です。
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