唐人町
日置川の河口は、唐人町と呼ばれている。
きっかけは、一隻の貿易船だったらしい。
青涯和尚が、明へ留学していた頃に知り合った商人が、青涯が安宅荘にいると聞いて尋ねてきたのだ。
堺の湊へ荷を運んできた帰りに、噂の真偽を確かめようとやってきた商人は、安宅の産物の豊かさに瞠目した。
これはいい商売になる。そう踏んだ商人は、たびたび安宅荘を訪れるようになり、やがて青涯と知己を結んだ外国人たちが集まってきた。
人が集まれば家が建ち、やがて町が出来上がる。
安宅荘の中でも、いっとう猥雑な空気に包まれた唐人町で、初は溢れ出した人混みの数に圧倒されていた。
「すげぇ数だな。祭りでも、始まるのか?」
思わず感心するほど、人の波は凄まじい。黒山の人だかりとは、まさにこういうことだろう。
「手を離すなよ、凛。はぐれたら、大事だからな」
「はい」
初は、凛の肩に手を回した。
一緒にやってきたはずの喜多七たちは、すでに見当たらない。
はぐれないよう、凛の身体を抱き寄せながら、必死になって人込みを掻き分ける。
ひしめき合うようにして家屋が軒を連ねた路地を通り抜け、初は唐人町の裏手に出た。
そこは船着場だった。いや、正確に言うと、ここも唐人町の一部になる。
日置浦は太平洋に面しているため、海が時化ると波に直接さらされる。
漁師たちは浜へ舟を上げて、時化がおさまるのを待てばいいが、大型船はそうもいかない。安宅荘へ訪れる商人の数が増えるに連れて、湊に入りきれなかった貿易船が、座礁する事例が増えていった。
そこで安宅家は、湊に近づく船を守るため、堤防を築くことにした。
縄で繋いだ木枠を海に沈め、そこに後から石を詰めて土台を作る。最後に赤土や消石灰を流し込んで石同士を接着し完成した堤防は、大型船の停泊も行える堅固なものだった。
「姫様、なにか変な臭いがします」
鼻をつまんだ凛が、涙目で訴えてくる。
「ここらへんは、ちょっと独特だからな。凛には、刺激が強すぎたか」
かくいう初も、ここの臭いには辟易した。残飯やら人いきれやら。その他にも、様々なものが凝縮され濃縮された臭いに、息を止めたくなる。
はじめは交易にやってきた舟が停泊するだけだった堤防は、やがて時を経るごとに様相を変えていった。その原因となったのが、明からやってきた蛋民たちだ。
初は、堤防にびっしりと繋がれた舟の群れを眺めた。
ここにあるのは、そのほとんどが蛋民たちの暮らす家舟だ。その名のとおり、家と舟を兼ねた蛋民たちの住居である。
海から海へと渡り歩き、一生を舟の上で過ごすとも言われる蛋民は、安宅荘へやってきてからも、その生活を変えなかった。
昼間は、紀伊周辺の海を行き来する人や物を運ぶ仕事に従事し、魚を獲る。時に、陸に上がって農作業を手伝ったりもするが、衣食住は全て舟の中で賄う。必然、生活に伴って排出される諸々は、舟の中へ溜め込まれることになった。
初は、懐から出した手拭で凛の鼻を覆った。侍女たちが毎朝、香を焚き染めてくれているものだから、少しはマシになるだろう。
「面白い場所なんだが、この臭いだけはなぁ……」
鼻を摘みながら、初はぼやいた。
残飯を海に捨てないのは、鮫避けの習慣らしい。さすがに排泄物は別の場所に捨てているらしいが、中には不心得者もいるので、それもどこまで守られているのか怪しいところだ。
昔は一つだった堤防も、湊を拡張する過程で三重となった。そのすべてに、家舟が張り付いている様は、さながら海上集落を思わせる。
凛の乱れた髪を手櫛で梳きながら、これからどうするかと、初は考え込んだ。
「喜多七たちとは、はぐれちまったしな。浜へ行こうにも、この人混みじゃあ……」
「あーっ! ずるい、姫様!」
いっそ戻るかと思いかけていた初の意識は、甲高い声に遮られる。
通りの向こうから駆けてきた沙希は、初を見るなり蕩けるような笑みを浮かべた。しかし、初の手が凛の髪に触れているのに気付くと、途端に不機嫌な顔になる。
「ずるいずるい! その子だけ、姫様に構ってもらえるなんて! 私も、姫様に髪を梳いて欲しいっ!」
駄々をこね始めた沙希に、凛が困惑する。いきなり袖を引っ張られて、目が見えない凛は、おろおろと泣き出しそうな顔になった。
「こらこら、沙希。お前のほうがお姉ちゃんなんだから、我慢しなさい」
「でもぉっ」
「沙希、姫様に迷惑をかけるな」
諭すような声で言ったのは、亀次郎だ。
紅を塗ったように赤い頬を、沙希はぷっくりと膨らませる。
亀次郎は「しようのない奴だなあ」と嘆息しながら、沙希の頭を撫でた。
「すみません、姫様。妹が迷惑を」
「いいって。それに沙希も、これからはお姉ちゃんとして、ちゃんと振舞えるよな?」
膝に手をついて目線を下げ、沙希の顔を覗き込む。
ちょっと涙目になった沙希は、ぷいと顔をそらした。
「わたし、その子のお姉ちゃんじゃないもん」
「沙希っ」
まあまあ、と初は亀次郎をなだめる。子供のこういう反応には、覚えがあった。
(うちの妹も、こんな感じだったもんなぁ)
何をするにも、お兄ちゃんお兄ちゃんと後ろをついて来た妹の姿を、初は思い出した。
あの頃の妹は、とにかく自分の真似をしたがったものだ。友人と出かけると、必ず混ざりに来て、一緒に遊びたがる。
一度、強く叱った際には、大声で泣かれた。おかげで、妹を虐めたのかと親に殴られるわ、晩飯は抜かれるわで、えらい目にあった。
夜中、一人で空きっ腹を抱えながら唸っていると、神妙な顔で現れた妹は、こう言った。
ごめんなさい。これからは、お兄ちゃん以外とも遊ぶようにする。だから、また一緒に遊んで。嫌いにならないで。
そのとき、妹が差し入れてくれた飴玉の味は、今でも忘れない──
「──お前たちも、寄舟を見に来たのか?」
感傷を振り切り、初は亀次郎に問いかけた。
「六郎に、なにか見舞いを買って行こうと思いましてね。そうしたら、この騒動に巻き込まれて」
「なんだ、六郎は風邪でもひいたのか?」
「いえ、この間の件でちょっと……」
亀次郎が、言葉を濁す。眉根を寄せる初に、亀次郎は「ほら、こないだの舟比べで」
「もしかして……左近太郎様にばれた?」
うなずく亀次郎に、初は天を仰いだ。
そうか、ばれたか。でも、あの騒ぎだしなぁ。ばれないほうがおかしいか。
初は、空の彼方に浮かぶ六郎の姿を思い描いた。
心の中で合掌する。今の初にできるのは、この経験を通して、六郎が強く生きてくれることを願うだけだ。
「六郎には、悪いことをした。今度、なにか奢ってやろう」
「ええ、申し訳ありません姫様」
「ん? なんで、お前が謝る?」
不可解な謝罪に疑問する。初の肩に、背後から伸ばされた手が触れた。
「こんなところで、何をなさっているのです?」
菊の指先が、肩の肉に食い込む。
空中で手刀を切る亀次郎を、初はじっとりとした目で睨んだ。
ちょっとずつ、この時代に違和感が。なんか変なもんが出て来たなぁ、と思ったら、のちの伏線だと思っていただければ。