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暗闇1

 戦いは呆気なく終わった。

 本当に一瞬の出来事だった。


 あまりにも多くのことが、ひと時に起こったせいだろう。

 正直、今でも何が起こったのか、うまく実感できていない。


 それでも敵は退けられ、初たちが生き残ったことは事実だ。


 そして状況が動いた以上、初たちは事態に対処しなければならない──


 それが領主の一族に生まれた者の務めであり、義務だった。

      







「我らは日置川ひきがわをさかのぼり、奥熊野おくくまのへと向かっておりました」


 近頃、近隣に出没するという野盗を討伐するためだったと、義房よしふさは殷々と響く声で言った。


「熊野の山々ほど、隠れ潜むのに適した土地はござらん。賊を討滅するためには、相応の兵を率い、虱潰しにするしかありませぬ。

 民の訴えを聞いた青涯せいがい和尚に命じられ、某は海生寺衆人五百人を率いて出陣いたしました。それが一昨日のことでございます」


 山狩りを行っていた義房のもとへ、変事が知らされたのは今朝方のことだった。

 青峰せいほうを中心とした寺の若い僧侶たちが、青涯和尚を含め、古参の僧侶たちを押込めたという。


 中世の武家社会では、家臣団の意向を無視する主君を、強制的に監禁、廃立する慣行がある。これを押込おしこめという。


 時に寺社でも行われる慣行だが、青涯和尚の領民、弟子たちからの評判はすこぶる良い。押込められるいわれは、どこにもないはずだった。


「これは拙者が耳にした噂に御座います。なんの確証もない話と、お心得くださいませ」


 あらかじめ断った義房は、寺の財貨が盗まれていたらしいと口にした。


 海生寺では飢饉に備え、常に余剰食糧を蓄えている。その大半は米であり、この時代には貨幣の代わりとしても用いられていた。

 特に精銭が不足し、銭飢渇ぜにきかつとさえ言われる昨今。米の重要性はいやまし、その価値は高まっている。


 蔵に山と蓄えられた米を、一部の僧侶が不正に持ち出し、売り払っている。

 その真偽を確かめるため、近々詮議が行われる予定であったと、義房は語った。


 青峰一派の行動は、不正の発覚を恐れてのことではないか。


 異変を察知した義房は、すぐさま山狩りを中止した。方々に散った兵たちを呼び集め、舟を使って急ぎ日置川を駆け下ってきた。

 安宅家の窮地に間に合ったのは、御仏の導きあればこそだろうと、義房は静かに瞑目した。


 川舟に揺られながら、初はそっと周囲に目を向けた。


 夜の日置川は、不気味なほど静かだった。

 夏も盛りだというのに、羽虫一匹飛んでいない。ここ数日は雨も降っていないから、川面は穏やかそのもの。これで灯りがなければ、闇の中を一人で彷徨っているように錯覚したかもしれない。


 日置川の川筋に沿い、義房麾下の海生寺衆人たちが立ち並んでいる。


 衆人たちの手には、ひとり一本の松明。安宅湊あたぎみなとから海生寺までずらりと並んだ炎の群れは、それだけで一財産の価値がある。


 赤々と燃える炎によって、舟の周囲は昼間のように照らし出されていた。


「初、もう少し真ん中へ寄りなさい。船縁にいると危ない」

「は、はい!」


 眼前に座った直定なおさだから注意され、初は急いで腰の位置をずらした。


 この暗闇の中、周囲を敵か味方わからない者たちに囲まれ、舟という逃げ場のない状況にいながら、直定に怯える素振りは微塵もない。


 鎧こそ身に着けてはいるが、過度に周囲を警戒する様子も見せず、直定は悠然と構えていた。あまりに肩の力を抜いているので、傍にいる初のほうが不安になるほどである。


 敵を追い払ったとはいえ、まだ周辺に残党が潜んでいないとも限らない。

 手持ちの兵が少ない中、館に残すのはむしろ危険と、直定は初にも海生寺への同行を命じていた。


 後ろでは、菊が底冷えのするような眼差しで、舟の周囲を監視している。膝の上には鉄砲が握られ、時折、火縄に息を吹きかけては、火種を絶やさないようにしていた。

 初たちが乗った舟の前後にも、安宅家の家臣たちを乗せた舟が同行している。


 誰もが緊張し、囁き声一つこぼさない。


 かたかたと膝を揺らしていた初は、不意に直定が漏らした声に驚いて跳び上がった。


(この人、こんな状況であくびしてやがる……)


 肝が太いどころの話ではない。あまりの緊張感のなさに、前後を固める家臣たちも呆れている。


 すまんすまんと笑いをこぼす直定に、初は小さくため息を漏らした。


「兄上。私たちはこれから、敵の本拠地に行くんですよ?」


 そんなのんきに構えてていいのか? と初が暗に問い質すと、直定は前方を見据えたまま、


「初、滅多なことを言うものではない。安宅家と海生寺は、昵懇じっこんの間柄。むやみに恐れる必要はない。ましてや敵などと言ったら、罰が当たる」


 微かに笑いを含んだ声音。しかし、そこに有無を言わせぬ響きを感じ取り、初は口を閉ざした。


 直定は、すべて青峰一派がやったこと、という義房の言を受け入れたのだ。


 安宅家の嫡男が認めた以上、それは事実として扱われる。たとえ安宅家の姫である初でも、異論を唱えることは許されない。


 頭ではわかっているのだ。兵力で圧倒的な劣勢に立っている以上、義房と対立することはできない。わかってはいるのだが、納得できるかどうかは別の問題だ。自分の命が掛かっているとなれば、なおさらである。


 悠然と構えた直定の目を盗み、初はちらりと背後を振り返った。


 周囲を警戒する菊は、まったく気を緩める気配がない。

 一度は敵に取り囲まれ、危機的な状況に陥った後だというのに、この精神力。


 普段はなにかと口うるさい存在だが、こういうときは実に頼りがいがあった。あくびを噛み殺している船尾の亀次郎とは、えらい違いである。


 もし義房が青峰の仲間ならば、初たちは舟の上で襲われる。


 絶望的な状況であったとしても、二人は初を守るために戦うだろう。先ほどの戦で、嫌というほど思い知らされた事実だ。

 他の舟に乗った家臣たちとて、それは同じこと。初には、自分以外の命を守る責任がある。

 いたずらに味方の生命を危険にさらす直定の決断には、どうしても抵抗があった。


 川沿いを歩く衆人たちが縄を引き、舟は静々と日置川を進む。


 田野井、口ケ谷を越え、安居あごの渡しを左手に見ながら上流へ。


 小魚か、墨を流したような川面が、ぱしゃりと跳ねる。矢が外れた音ではないかと振り返り、無数の歪んだ人影を見て、びくびくと肩を震わせる。


 今にも闇の中に引きずり込まれるのではないかと、初は気が気ではない。


 鍜治場の灯りが見え、工人たちが手を振るさまを目撃したときには、もはや精も根も尽き果てる寸前だった。


「お手を」


 先に降りた亀次郎と家臣たちが、周辺を警戒する。

 菊の手に縋り付き、河岸に降り立った初は、それだけでその場にへたり込みそうになった。


 寺の周囲は置き盾と逆茂木さかもぎ(枝のついた倒木を並べ、結び合わせた防御柵)に囲まれ、武装した衆人たちが守りを固めている。


 櫓から弓を持った兵たちが見下ろす中、義房は固く閉ざされた門へ歩み寄ると、開門を迫った。


「安宅家の方々をお連れした。疾く門を開けよ!」


 門前から盾と逆茂木が払われ、門に掛けられた閂が外される重々しい音が鳴り響く。

 目の前にぽっかりと開かれた入り口に、初は躊躇した。


 まさかとは思うが、門をくぐった途端に蜂の巣にされるなんてことは──


 まごつく初をよそに、直定はずかずかと義房のあとをついていく。

 あまりに無造作だったので、家臣たちまで出遅れた。


 慌てて後を追いかける亀次郎たちに続き、初はそろそろと、そびえ立つ寺の門をくぐった。

次回の更新は、12月3日です。


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