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005 迷える落伍星

◆□◆005―A たんぽぽあざみ


「負けたんか」

モニター前の椅子の上で目覚めた丹穂亜咲実は両手で顔を覆った。

「泣ける」


リトライのできないイベントを攻略寸前で失敗したときのような倦怠感。

いや、「ような」ではない。まさしく異世界攻略という最大のイベントを、攻略目前で地球世界に帰還させられて脱落してしまったのだ。


精神の切り替えは早いつもりだ。何かに没頭すればいい。

幾何不等式の証明でもしようか。それともマスターデーモンにしようか。フェルマーの小定理を使えそうだがあまり心は踊らない。同時に計算を初めて、大体10分で終了しそうだとわかった。


10分でこの悲しみは抑えられない。もっと無駄なことに費やさなければならない。そういう場合は運動だ。

2時間だ。2時間全力疾走すれば気が晴れるに違いない。


冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出して一気飲みする。裸になってフード付きのキャットスーツをそのまま着る。スポーツ用なのでナマズのようにテラテラしているわけではないが、身体のラインがすべて出てしまう服だ。こんな気分のときでもないと着られやしない。一万四千円もしたのだ。今着るしかない。


髪だけ結んで、靴下も履かずにジョギングシューズを履く。圧迫感と解放感の両方が欲しい。

外に出ると朝の爽やかな風が吹いていた。夜だったらベストだったが、朝というのも悪くない。

そもそも、むしゃくしゃしているので昼時でもなんでもいい。近所の人から白い目で見られたって構わないのだ。好きなラーメン屋が近くにあるからそこに決めただけで、大学から遠い所に家を借りたのだから、気に入らなければ引っ越す。

変な目で見るなら見ろ。そんな視線、猛ダッシュで振り切ってやる。


数百メートル走っただけで息が切れた。おかしい。足も遅い。喉の奥から血の味がする。それでようやく地球世界にいるのだと実感する。

額から汗が流れた。手の甲で拭う。

「悪くないね」

アウトレットモールの方まで駆け上がることにする。この時間なら店員も警備員もいないだろう。

丹穂亜咲実は、普段運動しない。だが、マラソンランナー並の速度で走り続けていく。身体から上がって来る苦痛を脳内で快楽に変換できることを知っている。絶えず脚を動かすよう指令を送り続けられることも知っている。

でも、脳にできるのは身体の限界値までだ。精神がブレーキをかけている向こう側まではいけるが、肉体自体を鍛えていないのだからマラソンランナー同等の距離を走るのは不可能である。


おそらく、このハワイにいる気分にさせる駐車場を過ぎたあたりのところで、脚が一度限界を迎えることはわかっている。顔面を蒼白にしてだらしなく地面に横たわらなければならないことも想像がつく。

ところが、その予想は十キロ近く外れた。


市民公園の水道で頭から水を浴びてようやく気付く。肉体自体を鍛えてはいないが、脳だけではなく肺や血管に至るまで、効率の良い身体の動かし方を異世界生活で学んでいたのだと。


「はー! いいぐらいに何も考えられない! 帰るか!」


駅から電車に乗ろうかとも考えたが、びしょ濡れだから気が引ける。そもそも財布やスマホを家に置いてきた。ポシェットに入れているのは、家の鍵だけだ。


「歩く! それもまたよし!」

連休の朝だから、平日の朝に比べればいくらか車は少ない。だが、冷静になってみると下着を着てないというのは何となくおぼつかない。腕組みをしながら、より交通量の少ない道を選んで早足で歩いてしまう。その方が余計目立つ気がするのだが、一度スイッチが入ってしまうと、その歩き方を止められない。


しばらくして、首筋辺りにチリっとした感覚をおぼえた。気配を察知したときのあの感覚。

誰かに見られている。

両腕の力を抜いてだらりと下ろす。得物になりそうなものはないが、腕組みよりは防御に転じやすい。


走りを再開する。自分以外の足音はしない。後ろではない。建物の陰に隠れてもいない。もちろん前方にも誰もいない。

しばらく行っても気配は消えない。

足を止めてクラウチングスタートの姿勢になる。


異世界で学んだのは感覚の研ぎ澄ませ方。自分の周囲に影はない。しかし、ごくわずかに首筋に当たる日光のあたたかさに変化があるような気がする。なぜか木漏れ日の中を走っているような気になる。そこにきっと違和感の正体がある。


ストレートの登り坂を亜咲実は、全力疾走した。首筋は心地よい日差しを感じている。スピードを緩める。まだ日差しは心地よい。走りながら亜咲実は、首筋の一点だけに集中した。


一瞬よぎる木陰の感覚。亜咲実は鋭く翻り、太陽に向けて小石を投げた。さっき拾っておいた小石だ。

違和感の正体は、亜咲実の行動に驚いて姿を現した。亜咲実と太陽を結んだ位置にいたそれは、思わず小石を避けてしまったのだ。

「金色の蚊?」

大きな黄金色の蚊が亜咲実の後をつけていたのだ。

亜咲実はそれを敵だと認識した。


敵がわかったからには、遮蔽物を上手く生かしながら追跡をかわすしかない。どうにか撒いて自宅へ戻り、相談できる人物に連絡を取らなければならない。

「にゃあちゃん、こっちの世界に戻っててよー!」


もう2キロメートルは走ってきた。蚊はまだついてきている。追って来てはいるが攻撃する気配はない。

「どうしてアタシはストーカーに好かれやすい質かねー! 尻か! 尻が目当てか!? ジムとか行ったらこんなん見放題だぞ!」


咄嗟に道を変えた亜咲実が女子トイレに飛び込む。

金色の蚊は躊躇したように出口で待っていたが、やがてそっと亜咲実を追って中へと入っていく。


蚊は、どの個室に隠れているか、鍵の色をチェックするように飛ぶ。

「アンタ、変態だろ?」

亜咲実は蚊の背後にいた。上下から掌でぴしゃりと蚊を叩いた。蚊はホバリングするように飛ぶため、上下に打つと比較的簡単に仕留められる。

掌に隙間はなく、蚊自身も何が起きたかわからぬままに潰れてしまっただろう。しかし、この後が異常だった。

亜咲実の掌から、虹色の光の粒が漏れ始めた。そして一点に集まろうとしている。


「これ、まさか。蚊に戻るってこと?」

きっと蚊に戻るまではほんの少し時間がかかるだろう。亜咲実は一気に大通りまで走り出ると、路肩に停まったタクシーを見つけて運転手をたたき起こす。


「お客さん、ど―――」

「いいから出す! ストーカーに追われてんの!」

「わかりました! シートベルトを」

「早く!」

亜咲実を乗せたタクシーは蚊に見つかることなく、自宅に送り届けた。


スマホと財布を持って出た亜咲実は、待たせたタクシーに「助かったよ、おじちゃんありがと!」と運賃を払った。

「あたしゃおばちゃんだって。おばちゃんから言わせてもらうとね。アンタの格好、変態ホイホイだわ。まあ、いいわ。今度また困ったときは乗っけてあげるから。ホレ、あたしの名刺。じゃね」


亜咲実はタクシーに手を振りながら、佐倉莉愛からの着信に折り返した。

(あ、あざみちゃん。良かった、無事?)


「アタシ、変態に襲われた!」

それが、たんぽぽあざみこと、丹穂亜咲実の第一声だった。



◆□◆005―B ディルウィード


「何で起こしてくんないのよー、くぅちゃんー!」

井ノ戸空慈雷の姉、依月風は弟の胸にすがりついて泣きわめいた。


「姉ちゃん、無事でよかった」

姉の頭を強く抱きしめる。依月風には何のことかさっぱりわからないだろうが、しばらくそうされていた。


「そ、そりゃあ、私もね、飲んだくれて帰ってくぅちゃんのスマホ踏み割っちゃったのは反省してるよ。だからさ、反省して、ボーナスも出てないのに、新しい機種買ってきたわけじゃん。でもさ、鍵閉めて開けてくれないとかひどくない? そりゃあ死んでやるとか言って心配かけたかもしんないけどさ。でも、朝起こしてくれるのがー、くぅちゃんの役目じゃん?」


がばっと顔を上げて姉は何やら主張する。

酒やら男やら弟やらに依存しがちで危なっかしい姉だが、唯一の肉親だ。自分に似たすっぴんの顔を見ると朝起こしてやらなくて悪かったなとも思えてくる。

「でも姉ちゃん、今日休みでしょ」

「デートよ。ああ、こうしちゃいられない」


そう言って身体は起こしたものの、空慈雷にまたがったままだ。

こういう時はまだ構って欲しがっている。無理に追い払って支度させると、酒を飲んで帰ってくるか、風呂上がりにスキンシップがひどくなる。それは面倒だ。

「彼氏できたの?」

「これから彼氏になってもらうわけじゃん。絶対落とす。あー、もうメイク3時間かけるんだからね。起こしてくれないんだから、バカ」

「いいじゃん、努力したってオレと同じ顔、努力しなくたってオレと同じ顔」

「くぅちゃんイケメンじゃなかったら殺してるわ。でさ、でさ、夕べは鍵閉めて何してたの? えっちいこと? えっちいこと? お姉ちゃん、彼女になってあげようか」

また体重をかけてくる。いい加減うっとうしい。


「オレ、異世界救いに行ってた。そこで、結婚したから」

再び姉はがばっと起き上がる。

しばらくきょとんとしていたがにやにやしはじめる。

「あれでしょLINGとかアプリ使って告白したーとか結婚しよーとか言ってるやつでしょ。もー、最近の高校生は。お姉ちゃんみたいにリアルガチな恋愛しなさいよ」


「姉ちゃんは信じないかもしれないけど、これはオレたちのリアルなんだ。異世界に行ったことも。そこで、一年以上暮らしたことも。花純美さんと結婚したことも」


「ゲームの話?」

「姉ちゃんなら、オレがガチな話してることくらいわかるでしょ。Minnanogramでも、Shavetterでもなんでもいいから、ハッシュタグ異世界で検索してよ」


姉は弟にまたがったまま、スマートフォンを使ってSNS内を検索する。6件の検索結果が出た。


―――異世界マジ最高。でも、ログインできない(泣)

―――異世界で一年間暮らしたことを連載します。第一話「味がない」。

―――もう異世界お腹いっぱい。現実でいい。まだGWあってよかった。異世界→出勤とか死亡フラグ。

―――一年間会えなかった妻と我が子に会えた。それだけで十分。帰還バンザイ。

―――異世界から帰ったら特技開眼! 頑張れ、神ドローン。

―――異世界から帰った人でグループトークしませんか。


「これ見て、弟の頭が正常であるって証明になる?」

「この人たちぼくと同じゲームをしてたんだ。その前のShavet見てみて。アップデートの話してるはずだよ」

たしかに2件ほど、ゲームの話題をしているものが見つかった。いずれもごく最近更新されたものであった。一年間異世界にいたという矛盾に本人自身気付いていないらしい。


「まだよく分かんない!」

「はあ、うん、まあ、これじゃね。残念だけど」

「ねえ、その、カスミって子? いい子なの?」

「うん。最高にいい子だよ」


「ふうん」

姉は弟の寝転んでいるベッドから下りて後ろを向いた。

「どこに住んでるの? 年は?」

「下関だよ。大学4年生。実家はこっちに近いって」

「そう。来年には卒業だね。私と年あんまり変わんないじゃん。ねえ、結婚したならその子と暮らすんでしょ。くぅちゃん、ここ住んでいいよ」

「え」

「大丈夫。お姉ちゃん、ひとりでやってけるから」


姉は鼻を啜った。そうやって泣いた日は戻って来ず、次の日にボロ雑巾のようになって帰ってくる。

空慈雷には大人の世界はよく分からないが、「寂しさを紛らわすための恋は自分を傷つけるだけだ」と姉に言ってやりたい。

そう言いたいが、寂しさを生む原因は自分が作っているというのも知っている。自分自身も若いのに、弟を育てて生きなければいけないという境遇には同情する。だが、だからといって姉に傷ついてほしくない。

気付かないうちに姉の腕を引っ張っていた。


「花純美さんが増えれば家族が増えるってことだよ。姉ちゃん、オレ、花純美さんをここに呼ぶから、今日一緒に夕飯を食べよ」


依月風は空慈雷に飛びかかるようにベッドにダイブする。

「お姉ちゃん、カスミサンをイジメちゃうかもしれないけど、ごめんね」

「それは許さない」

「くぅちゃん、キライ」

「姉ちゃんデートの準備は?」

「やめた! キャンセル! お姉ちゃん車出すから、カスミサンを家に誘って?」


今度は空慈雷がベッドからはね起きる。

「こうしちゃいられない。姉ちゃんが踏み割ったスマホのデータ移さなきゃ! 花純美さん心配して連絡くれてるかもしれない」


ディルウィードこと井ノ戸空慈雷は、新たなスマホにデータを移行して、ようやく莉愛からたくさんの着信があったことに気付いたのだった。


(ディルくん! そっちからドリィのところ近いんだっけ? 一緒にこっちに来られそう?)

空慈雷は請け合って電話を切る。


「姉ちゃん、今日の晩御飯、めちゃくちゃ大人数になるかもしれないけど、いいかなあ」

姉はベッドに寝転んで叫んだ。

「くぅちゃん、大っキライ!」

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