002 覚醒する異能
◆□◆002―A アンサイジング
莉愛はベッドにドライヤーを投げ捨て、カードになったスマホを手に取る。
「いやー! 嘘でしょ」
口では緊急時のように叫んでいるが、頭はやや冷静なのか、乱れた前髪を整える余裕はあった。
さっきまで剣と魔法の世界にいたのだ。
おそるおそるカードに触れ、しげしげと表裏を眺める。
「アイテム化したってこと?」
その時、莉愛の頭の奥で微かに音が鳴り響いたようだった。思わずこめかみを押さえる。剣と魔法の世界ではこうすれば通話ができたのだ。
耳を澄ましても何も聞こえない。だからと言ってあきらめる訳にはいかない。カードになってしまったスマートフォンを両手で掲げるように持つ。
「私は、ユイを救いたい!」
カードが輝き、空間に金色の魔法陣が浮かぶ。
魔法陣から「アンサイジング初期パスコードに設定しますか。はい/いいえ」の文字が展開されたように莉愛には見えた。
全く意味不明だったのだが、莉愛は迷わず「はい」を選択する。虎穴に入らずんば虎子を得ず。鬼が出るか蛇が出るか。
とにかく、可憐な見た目に似合わぬ当たっても砕けない精神が彼女の持ち味だ。
「確認します。もう一度詠唱してください」
「ユイを救いたい!!」
カードから虹色の光の粒が沸き立ち、莉愛の背後にまとわりついた。
「機械仕掛けの、天使」
莉愛は首だけで振り返る。
そう形容するしかない何かがそこに立っていた。その何かが莉愛の肩に触れると、おびただしい文字と音の奔流が莉愛の頭の中でわき起こる。
通話アプリの通知音と着信音に目眩がした莉愛は、思わず天使の手を握る。
「こらー! アンタから連絡しといて返信きいひんとかないわぁ!」
「ご、ごめん、レンちゃん。スマホが」
「スマホはどうでもええねん。ウチも不安やったし、アンタが出るまでしんどかったわ」
説明しようとすると「スマホが」としか言いようがないので、とにかく大分の中心地で会う約束を取り付ける。
友人は福岡からだから、高速道路を使っても2時間以上はかかる。
一方、莉愛は駅まで車で20分かかり、電車でさらに1時間。今、祖父に頼んでもちょうどいい電車が来るまで、40分は待つことになるだろう。それでも莉愛は急いで階下に降りた。
「じいじ、街まで行くけん、駅まで車出してくれん?」
「朝飯も食わんでか。もう冷めちしもうたぞ」
「じいじ、これ、見えてる?」
「は? ワシはまだ目はいいんぞ。なんかえ、ドタバタしてなんか刺さったんかい」
どうやら莉愛の人差し指は見えているが、その先にいる機械仕掛けの天使は見えていないらしい。
「なんでもない」
「お前、朝、シャワー浴びるんやろ。風呂沸かしちょるけど、入るか」
「じいじ、神!」
どうせカラスの行水だし、メイクもリップとチークくらいだし、間に合うと判断した。かかるのは前髪のセットだけだ。
ふと気付いて、台所からチャック付ポリ袋をひとつ持ち出す。カードを濡らしては不味いだろう。
天使の前で脱衣するのはなかなか勇気がいるが、そのおかげで天使のことを少し理解した。
天使は水を弾くことができる。防水はしっかりしているということか。だが、髪を洗う力すらない。
手を握ると、声に出した言葉を友人のアプリにメッセージとして送信できる。ショートメールでも対応可だ。
時間も聞ける。電車の到着予想時刻も聞ける。
「マジ、スマホじゃん。でも名前スマホじゃ、可愛くないねー。あ、そうだ。ほら! 『神の門』って意味の言葉検索して」
「バブ・イル。バベル。バビロン」
「かっこいい! おっけー、<バビロン>。今日からキミは<バビロン>だよ! <バビロン>、カードに戻っていいよ!」
反応はない。
20分ほど前髪のセットに時間をかけてから、<バビロン>と一緒に祖父の軽トラックに乗り込んだ。
◆□◆002―B まちなか鬼ごっこ
莉愛にとってナンパはそれほど特異な話ではない。大分の中心街でこそそういった経験はないが、博多まで出ればほぼ毎回だ。
しかし、今回は少し様子が違った。
その男は、<バビロン>に触れようとしてきたのだ。
「見えてるの?」
「さあ、な・ん・の・こ・と? あ、ちぇんじずのっごなかむ」
男がラップ調でとぼけた瞬間、彼の足元に脚のないワニのような生き物が出現した。
「何、それ」
「さあ、何のこと」
危険を感じて数歩、莉愛が後退する。
「人はそうは生まれ変われねえ! オレはあっちで何やってたと思う? PKさ!」
莉愛は、友人を南口で待っていたが緊急事態だ。駅構内を振り返り、人の多い北口へと駆け出した。
男が追いかけてくる様子はない。
息を切らせて膝に手を置く。やはり身体が重い。もう一度振り返る。男はいない。
ホッとひと息ついて前方に目を転じると、右前方の角にその男がいた。ホテルの壁に余裕で背を凭れている。
身体が重く感じられるとはいえ、莉愛も全力疾走だったのだ。あれほど前方に現れるなど有り得ない。それこそ、異世界級の身体能力でもない限り。
莉愛は男から目を離さないようにしながら、西の地下道入り口へと急ぐ。男は動く気配を見せない。ただ片足をワニのような生き物の上に乗せている。
「あれか。アイツのおかげで速く移動できたんだ! <バビロン>、私を抱えて飛べる!?」
機械仕掛けの天使は何も答えない。髪を洗うことだってできないのだ。ものに触れることは出来ても、持ち上げることなんて不可能だ。
「急ごう!」
駅のロータリーを西側に回り込むと大きなアーケード商店街がある。逃げ切るには、そちらをうまく利用するのが得策だろう。
駅前は交通量の多いところである。商店街に行くには信号待ちしなければならない。待っていられないと判断した莉愛は、男に用心しながら地下道に入った。
「通信が微弱になりました。通信環境の良いところで接続してください」
階段を降り切ったところで、<バビロン>がそう告げた。
莉愛は一瞬躊躇したが、<バビロン>の手を取って引き返す。
結果的にそれが正しい判断となった。
10秒後には男がその位置に現れたのだ。地下道は中で繋がっていて、追いかけてきたのだ。北向きに進路を変えたが追いつかない。不思議に思い、東に追う。その間、莉愛は地上の横断歩道を渡っていた。
男がようやく気付いて地上に出たときには、1分ほどの差がついていた。男は莉愛を見失ったのだ。
男はポケットからもう1枚のカードを出して呟いた。
「面倒くせぇ」
いつの間にか男の左手には釣り竿が握られていた。街中で釣り道具を持っているだけで異様な光景だが、誰も気にかけるものはいない。誰の目にも、銀色の釣り竿や脚のないワニは見えていないのだ。
男は釣りのパントマイムをするように、竿を振った。そして、リールを巻く。向きを変えながら何度か繰り返す。
浮きに反応があった。
「やれやれ、こっちか」
莉愛は商業施設の最上階にいた。そこは本屋になっていて、アニメ関連の物販も併設されている。駅ビルに逃げた方が良かったのかもしれないのだが、こっちの方が来慣れてはいる。
本屋と物販は、パーティションで仕切られている。その裏には、ソファがあり、観賞用植物で囲まれているので、人目につきにくいところだ。ここで、待ち合わせまで時間をつぶすしかない。
莉愛は目を閉じ、深く息をついた。
<バビロン>がそっと莉愛の両耳を両手で包み込む。
「<バビロン>、マジ天使」
頭の中にリラクゼーション効果のある音が聞こえてくる。
「ヤバい、眠い。10分後にアラーム鳴らして」
莉愛がうっすらとした眠りにいると、男の声と、何かが倒れる音が聞こえた。
「ここに隠れているのは分かってんだZO、おっおーう! 聞き分けよくなきゃ店員みたいにすっ転ぶZO、おっおーう! 店員、転倒、脳震盪! To the Heaven! 7days、24hour! 哀れな子羊かくれんぼでもするかー!」
大声で歌う男の声を聞いて、莉愛は息をひそめた。
男は急に猫なで声になった。
「なあ、別にひどいことをしようってんじゃないんだぁ。俺に<アンサイジングコード>をこっそり教えて、カード置いてってくれればいいんだよぉ。それだけなんだよ。なんなら出てこなくてもいい。<コード>を叫んでカード置いてきゃいいんだよぉ」
男の声はまだ遠い。エスカレーターから登って来たに違いない。
だが、なぜ居場所が分かったのだろうか。
「なあ、ダウジングって知ってるか? 金属の棒で水源を探索するあれさ。振り子を使ってやるやつもいる。俺は振り子なんて持ってねえ。だがな、釣り竿がある。コイツで獲物を探知するわけさ。ベイベ、カモン、ツァップ」
だんだんと声は近づいてくる。時折破壊音が聞こえる。
「こいつは、兄貴のカードさ。カード化できるのは、俺も兄貴も1枚きりだった。だがよ、<アンサイジングコード>さえ知っていれば、俺も兄貴のカードが使えるんだよ。分かるだろ? お前のその天使、俺のものにさせてくれよ」
破壊音の正体が莉愛にも分かった。ピラニアの顔をしたルアーが防犯カメラを破壊しているのだ。
「兄貴はあっちの世界に行っても釣りしかしなかった。才能が無かったんだ。<アンサイジングコード>に到っちゃ『面倒くせぇ』だ。才能も、それを生かす野心もねえ! だが、俺にはある! 俺はこの能力で頂点を取る! あらうんざわーる! 俺が王になる」
「バカじゃないの?」
男の背後で莉愛の声がした。男は、声のした方へ、振り向きざまに竿を振る。
「捕らえた!」
男は一気に釣り上げる。だが、出てきたのはルアーのせいで半壊したステレオデッキだ。
莉愛はこの階にやって来たとき、こっそりと<バビロン>とこのデッキをBluetooth接続していたのだ。
「殺れ! <宗麟>」
頭に来た男は、ワニのような生き物を滅多やたらに激突させて、本棚をなぎ倒す。大地震直後のような光景が、男の周囲に広がっていく。
「探せ! <道雪>」
竿を振るとルアーは意思を持ったように本棚の雪崩を避けて店内を飛び回った。
<宗麟>という名のワニが、莉愛の隠れていたパーティションを破壊した。だが、そこにはもう莉愛はいなかった。
<道雪>という名のピラニアは、エレベーターの扉が閉まる音を聞いた。
「バカはお前だ。<宗麟>なら階段の手すりを使えば高速で下りられるぜ! 箱の中でゆっくり待ってろ!」
男は非常階段に躍り出ると、宣言通り手すりを高速で滑りおりていく。<宗麟>とは、スケートボードをカード化し、<アンサイジング>したものだった。
彼の人間離れした運動神経はゲーマーのそれではない。どうやら、兄のゲームに巻き込まれて異世界に転移したのであろう。元々持って生まれた運動神経に加え、異世界での生活が、類まれなるバランス感覚を与えたようだ。
ただし、頭脳と肉体と精神のバランスが取れていれば、莉愛が2階で降り、エスカレーターを使って脱出したことにも気付いただろう。空のエレベーターを1階で待ち受けている間に、エレベーターが2階で止まった意味を理解しただろう。
莉愛が大通りに出たことにようやく思い至った男は、近くの客を突き飛ばして店内を駆け抜けた。
すでに莉愛は、狭い路地を抜けて再びアーケード街に戻っている。船のオブジェのある方へ駆ける。
男がアーケード街に戻ったとき、莉愛が船のオブジェで右手に曲がって再度大通りに向かうのが見えた。
「飛ばせ、<宗麟>!」
莉愛は、横断歩道ひとつ分前を走っていた。既に赤信号に変わりかけていたが、迷わず追う。
莉愛は横断歩道を渡り切る直前、停車してある車の後部座席に飛び乗った。いくら<宗麟>が高速であるといえども、猛スピードで逃げる車には追いつかない。
莉愛を乗せた車は、駅前を左折して消えた。
男は追うのを止め、路上に立ち尽くす。
だが、諦めていない。唾を路上に吐いて呟く。
「逃がさねぇからな」
クラクションを鳴らす車のヘッドライトに<宗麟>をぶつけてから、男は歩道に戻った。