012 狼は虎を探し、兎は女神を探す
◆□◆012―A 狼面はちびっ子に人気です
「外出ちまったら、ゴキゲン狼面被れねーっつの」
レトロなスポーツカーの助手席に、脱いだ狼のマスクを置いた。
ちょいワルな容貌のアラフォー男性、バジルこと樺地瑠羽仁は山道を飛ばす。
目撃情報は、瑠羽仁の住む菊池から1時間以上離れた山の中にある公園からのものだった。「Shavetter」に投稿されていた写真には、特徴的な植物の形をした看板が写っていた。
「【工房】の連中が無事だったのはいいんだが、トラ娘までこっちの世界にやってきたとすると大変だぞ」
曲をガンガン鳴らしながらスピードを上げる。
さすがに連休なので、対向車線は旅行客が多い。家族客の多くは阿蘇へと向かっているらしい。バイクの集団も多い。こちらの車線は比較的空いていて、軽快に飛ばしていく。
それも40分ほどのことで、瀬の本に出る頃には渋滞に巻き込まれてしまった。
「ああ、嬢ちゃんかい。こっちは夕暮れ時になっちまいそうだ。そのくれぇの時間があれば、<山丹>の脚力があれば数百キロは走っちまうぞ。なんか追加情報ないのかよ」
車を路肩に停めて、莉愛に電話する。
(あるにはあるんだけど、これ言っちゃうとバジルさん帰っちゃいそうだし)
「なんなんだよ」
(ひょっとしたら<山丹>じゃないかもしれない)
「えー! ここまで来たってのにムダ足かよ! んじゃあオレ様帰るぞー」
(ほらもー! 言うと思った)
「イクスと関係ねぇなら見つける必要ねぇだろうがよ」
(女子大生失踪事件と関わってるかも知れないって言っても?)
「なに? もうちょい詳しく」
K大文学部文学科の学生が昨夜失踪した。学校は休みだったが研究論文の資料作成のために研究室にいたと思われる。研究室には開かれたままのノートパソコンと読みかけの本があった。
翌朝、やってきた他の学生が発見。事件性を感じて通報したという。その学生によれば、書きかけの文書の最終更新時間は昨夜八時。窓が空いており、机の周りには動物のものらしい体毛が落ちていた。読み止しの本は中島敦の『山月記』。失踪した学生の研究内容だったという。
県警では関係各所に顔写真を手配。家族の希望により、名前は公表していないが、広く情報を集めているとのこと。
「これのどこがトラなんだよ」
バジルは、送られたアドレスからネットニュースを読んだが、今追っているトラとどうつながるかが理解できない。
(バジルさん、『山月記』読んだ?)
「なんか昔聞いたような気がするな。絵本か?」
(教科書にあったでしょ)
「挿絵がねぇんじゃねぇか。挿絵がなけりゃ覚えてられねぇな」
莉愛がため息をついて『山月記』の内容をかいつまんで説明する。
「要するに、夢やぶれた詩人が虎になったってことか?」
(そうね)
「いや、まだわかんね。学生が失踪したってニュースと、そいつが『山月記』を読んでたってことと、追ってるトラと女子大生ってのが全然つながんねぇ」
(失踪したのは「虎ノ尾伊武綺」さんじゃないかって噂がある)
「おや、その名前どっかで聞いたな」
(PvPランカーのバジルさんがそれ言う? 薄紫の武者装束って言ったらバジルさんのライバルでしょ)
「イブえもんか! あいつ男だろ!」
(<バビロン>、顔写真送って)
コミュニケーションアプリ「LING」に写真が送られてくる。
「おとなしめの美少女って感じだな。それにしても嬢ちゃん。どうやって顔写真手にいれたんだ?」
(スマホにできることだったら、<バビロン>にだってできるよ)
全く説明になっていないがそれで納得してしまうのが瑠羽仁である。
「失踪したのがイブえもんかもしれないってのはわかった。そいつが中島なんちゃらを読んでたってのもわかった。だが、まだトラとつながらねぇ」
(もう、ホントにバジルさん、にぶにぶなんだから。バジルさんのライバルなら同じ異世界に行った<帰還者>かもしれないでしょ。<帰還者>ならカードを使えたわけじゃん)
「クレジットカード?」
(そこからかー!)
莉愛は瑠羽仁に<アンサイジング>のレクチャーをした。
そして、虎ノ尾伊吹は、<肉体強化>か<概念具現化>を使って虎に変化したものの、<アンサイジング>解除ができず、野山をさまよっているのではないかと付け加えた。
「トラってよぅ、夜行性なんだよな。オレ様もなんかカード作らなきゃ探しようがなくなっちまうな」
(作るならもう一つ。<強制解除>を作らなきゃいけないと思うの。んじゃあ、ディルくんと代わるね)
カード作りに関しては、空慈雷がどうやら得意らしい。
(バジルさん、ディルです。まず、<肉体強化>から練習した方がいいです。<擬神化>や<肉体強化>は、目の前にあるもののレア度に依拠するから、ほとんど作成に失敗することはありません。だけど、<概念具現化>については、慣れないと成功率が極端に下がります。得手不得手もあるんだと思います)
「おいおい、オレ様を誰だと思ってるんだー? 天才バジル様だぜ?」
(何か<肉体強化>できそうなものありますか? 人目につかないところで試してみてください)
「おうよ。トイレ行ってやってみるわ」
(最初は喋れるものの方がいいですよ! トイレットペーパーとかやめてくださいね!)
空慈雷が心配する。
「やんねーよ! 任せとけって。ええっと? <肉体強化>は、パーだっけか? ああ、ちょい待て、スマホポケット入れっからよ」
空慈雷はもごもごとくぐもる声を必死に聞く。それが唐突に悲鳴のような叫び声に変わる。
(バジルさん! 大丈夫ですか! バジルさん!!)
悲鳴にしか聞こえなかった声がだんだん笑い声であるとわかる。
(え、笑ってる?)
「ああ、すまねえ、ディル坊。こんなにうまくいっちまうとはよー。オレ様やっぱり天才だぜー」
鏡に映った瑠羽仁の顔は狼そのものに変わっていた。助手席に置いてあった<ごきげん狼面>を<肉体強化>に使ったのだ。
だらしなく垂らした舌をきちんと引っ込めることもできる。
「嗅覚やべ! 誰がどの順番で小便したかまでわかっちまう! まるで嬉しかねえ! うははははは」
(それで人前に出ないでくださいよ。<アンサイジング>解除してください)
空慈雷の心配をよそに、受話器を通して何やら歓声が聞こえる。
(人前に出て何やってるんですか! ちょっと、リアさん、何とか言ってやってください)
「あー、もしもしディル坊? すまねえすまねえ、なんかのコスプレだと思われたみたいでよー。家族連れに写真せがまれちまったよ。聴覚嗅覚すげぇ上に人気まであるんじゃ、こりゃホント<肉体強化>だわ、なあディル坊?」
(残念ながらディルくんじゃなくて、リアちゃんだよー。もう「minsta」に動画アップされちゃって、ディルくんおかんむりだよ! 後で謝っといて。ともかくそれで運転してたらすぐ捕まっちゃうんだから)
「わーった、わーったって。<アンサイジング>解除すりゃいいんだろ? で、どうやるんだっけ?」
(<アンサイジングコード>を逆から唱えるだけよ)
「え、オレ様、<アンサイジングコード>何にしたっけ?」
(えー!!)
「ちょ、ちょい、嬢ちゃん! ディル坊に聞いてもらえねえか?」
(ポケットに入れていた間だから、ディルくん聞こえてなかったんだって!)
「マジか!」
あれこれ試して解除できたのは、それから30分も経った後のことだった。
◆□◆012―B 元カノと今カノがつるむとろくなことはない
蔵人の車は市の外れまでやってきた。梨が有名な地域で、道の両側は梨山になっている。
「こっからはおいらが運転するよ」
左手の梨山に入っていくと、喜久恵にはどこをどう走っているか分からなくなった。蔵人は平気な顔で運転していく。
梨山の裏側まで出ると、いくつもの山に囲まれた谷のようなところに民家がいくつか見える。一番手前の広い庭のある家が目的地らしい。
「クランちゃん、こんな所に何の用があるん?」
「おめぇがクリムトの『医学』だけじゃもの足りねえっていうから来たんじゃねえか。女神探しの旅に」
「え、ここ梨農家さんやろ?」
車を降りて家の主を呼ぶ。
「ごめんください。師匠はご在宅ですかー? 佐治と申します」
「師匠?」
呼び名以外にも疑問はある。
「呼び鈴あるけどなんで押さへんの?」
「おっと、そいつには触らねぇでくれ。Berry師匠は作品を作ってる最中にその音を聞くのが大っ嫌いなんだ」
「作品? 気難しいお人なんやなあ。絵を描いてはる時のクランちゃんでもそこまで気難しくはないやろ?」
「いや、その気持ちは分かる気はするよ。頭に槍でも投げられた気分になるからね。こうやって喋ってたら師匠の方で気付いてくれるよ」
「Berry師匠って名前も気になるんやけど」
「ああ、一悟さんっていうんだ。一ばんに悟るって書いて一悟。苗代一悟さんっていうんだ」
「男性?」
「まあ、そうだけど、越境してる感もあるから、どっちとは言い難い」
「これから会うのは、苗代一悟さんっていう梨農家さんで、Berry師匠の通り名がある性別を越境した方か。いや、さっぱりつかめへん」
「ごめんください。佐治です」
「はぁぁい」
奥から酒で焼けたようなハスキーな声がした。確かに声だけでは性別が判断できない。
ウェーブがかった長い茶髪、小麦色の肌、ゆったりとした僧服のような衣。出てきた家の主は、喜久恵の目には女性としか見えなかった。
「あら、珍しい。桜童子ちゃんじゃなーい。ん? こっちは彼女?」
「はは」
照れて顔を下げた喜久恵は、一悟の手に持つものと目が合った。
「ひ」
喜久恵の喉から声が漏れる。
生首だ。少女の生首だ。
その少女の目がゆっくりゆっくりと動いて、力なく喜久恵を見つめた。
「ぎっ!!」
喜久恵の意識がぼんやりとして、次にはっきりとしたとき、紅茶の香りが満ちた部屋の中にいた。
「は!」
「まだボク、もちもちプリンちゃんのまともな声、聞いちょらんのよねー」
「は、はい。ホンマに申し訳ない! なんや、気を失うてしもて。幻覚なんか見るなんて。ホンマかなわんわぁ」
家の主は紅茶をカップに注ぎ終わると笑った。
「あっはっは! もちもちプリンちゃんは桜童子ちゃんから何も聞いてないのかい。そりゃあ可哀想に。ハイ、紅茶」
「あ、あ、おおきに。ウチは矢車喜久恵言います」
「あら? もちもちプリンちゃんの呼び名嫌いやった?」
「いや、そないなことないです」
ジロジロ相手を見るのも気が引けるので喜久恵は紅茶に口を付ける。熱い。
ふと気づいて周りを見回す。
「あの、クランちゃんは?」
「桜童子ちゃんやったらアトリエよ。作品、見せちょくれっち」
「作品?」
「ホントになんも聞いちょらんのやねー。んじゃあ、ちゃんと見せちゃんけん、紅茶置いて。火傷したら困るけんね」
「え、え、紅茶? ハイ」
ゆったりとソファに凭れる一悟が、テーブルの隅に置いていたものに触れる。かけておいた布をはらりと取る。
「ひゅっ!」
喜久恵は口を押さえたが、喉の奥から出る悲鳴までは止められなかった。
少女の生首は幻覚などではなかった。
「眼球の可動部が壊れちゃってさ、それ直してる途中やったんよね。ごめんごめん」
「え、これが、作品?」
「そうだよー。ボクの娘さ」
一悟は愛おしそうに生首の頭頂部を撫でた。
「あれ? 言わなかったかー。Berry師匠は九州一の<生き人形師>さ」
そこに蔵人が戻ってきて言った。
「言うてないわ!」
ホッとしたのか喜久恵の声は上ずっていた。
「桜童子ちゃん。ボクのこと紹介するんなら、九州一のじゃなくて、当代随一のとか、稀代のとか、愛しのとか付けて言うちょくれ」
一悟は憤慨する。
「芸術大学の同期がやってる『ルネサンス工業』のラブラドールズシリーズには勝てねぇって、酒飲みながら泣いてたじゃないですか」
蔵人が揶揄うと、一悟は袖で口元を隠して流し目を送る。
「そう言うて泣いたら、普通ボクのこと抱くでしょ」
「抱かねぇすよ」
「向こうは二人組だから負けてなんかないし! だから、桜童子ちゃんとボクで組んで『Cherry&Berry工房』作ろうって誘ったのに。一緒に子作りに励もうって誘ったのに!」
「そんな語弊のある誘われ方してねぇすよ」
「そう言うて誘ったら、今晩ボクのこと抱くでしょ」
喜久恵が手を挙げる。
「あ、あの! クランちゃんと、ど、どないな関係なんですか?」
一悟はキョトンと目を丸くしていたが、そのうちニヤリとした。
「元カノっちゃ。どうも。今カノのもちもちプリンちゃん」
「お、おい」
蔵人が狼狽えたのは、一悟のくだらないジョークにではなく、ポロリと涙を流した喜久恵に対してである。
喜久恵自身にもきっと涙の意味はわからない。だが、一悟の前で気絶するという弱みを見せてしまった悔しさが沸き上がったことだけは自覚できている。
「冷静にならなあかん」
スパッと気持ちを切り替えた。
冷静になると今まで見えてなかったものが見えてくる。
一悟は蔵人よりもやや年上であること。生首の少女に不気味さはなく今にも喋り出しそうな程、潤った唇をしていること。そして、蔵人が自分を心配していること。
「すごい作品やね」
喜久恵は一悟に真っ向勝負を挑んだ。もう元カノに弱味は見せない。
一悟はにんまりと微笑んだ。
「桜童子ちゃんとボクの娘やもん」
「師匠ー」
蔵人のツッコミはやや甘い。喜久恵はそれでも負けない。
「首だけなのに、生きているみたい」
相手の素晴らしいところはきちんと認める。なぜなら蔵人のパートナーは嫉妬で目を曇らせるような小さな人間であってはならないと確信しているからだ。
自分はぽっちゃり系の極みで、特技もなくて、人に自慢できるところなど何もない。でも、胸を張って蔵人の傍にいたい。異常なまでに洞察力が鋭くて、自分に向けられる愛情にはひどく鈍感な蔵人だからこそ、そのパートナーとして恥ずかしい人間にはなりたくない。
「ほえ?」
人形から目を離すと、すぐ近くにエサを狙うネコのような表情をした一悟の顔があった。
「もぎょぎゅむむー、んー! んー! ぷはぁ」
「桜童子ちゃん! この子最高! この子最高! シリコンで固めていい?」
「ダメでしょ」
「え! え! え! なんでキスされた! え?」
「ボクはね、愛情に飢えとるんよ。じゃけん分かるっちゃ。もちもちプリンちゃんから溢れ出る愛情が! ボクにもおすそ分けしちょくれよう!」
「クランちゃん、たーすけてー」
「<ジーレトス>! <サクラドウジ>!」
紅茶がこぼれてようやく一悟が落ち着いた。
一悟は床を拭きながら謝る。
「ホントごめんよ。ボク、久しぶりに興奮したもんやけん」
「危ないお人やわー!」
ぬいぐるみ姿になった蔵人を抱っこして喜久恵が頬を膨らます。
「でも、クランちゃん。どうやって師匠はんを落ち着かせたん?」
「いや、それは。聞かねえでくれ」
「むー!」
さらに頬を膨らます。
「それにしてもすごいやん。ゲームの姿のままやんか」
ぬいぐるみ姿に感心する一悟。蔵人がその姿になっていることよりも、造形に興味があるようだ。
「師匠はんは異世界には?」
「異世界? 異世界行ったらそげな姿になるん? いいなー」
今度はマタタビを食らったネコのような表情をする一悟。
「ちょっと話を整理させてもらってええ? ウチらは<癒しの女神>を探しにここまで来た。ここは稀代の<生き人形師>苗代一悟さんのお宅。そんで、一悟さんはクランちゃんの元カノ」
「いや、その最後の1文は削除してもらえるかな。おいらはBerry師匠のお手伝いをさせてもらってただけだ」
「お手伝い?」
一悟が代わりに説明を始めた。蔵人があまり言いたそうにしていないからだ。
「『不気味の谷』を超えるためにね。おや、もしかしてもちもちプリンちゃんは、桜童子ちゃんの『美人画』を見たことないんかい?」
「『美人画』?」
喜久恵は首を傾げ、ぬいぐるみ姿の蔵人を見る。
蔵人が異世界では<画家>であったのは知っているが、地球世界でどんな絵を描いていたかまでは知らなかった。
「ボクは、大学までは球体関節人形を作ってたんよ。ボクにはハンデキャップがあるけん、その影響をバッチリ受けた不気味な子たちばかり作ってた。でも、同期の仲間たちが造形した人形見た時、衝撃が走ったんよね。それはもう抱きたくなるほど可愛らしい人形で、あれにはやられた。ボクは失意のまま帰郷したんよ。絶望のどん底で作品作りづけて何年経ったかな。そんとき、偶然にも出会ったのが、桜童子ちゃんでね」
「それで付き合ったん?」
「惜しい。ボクが申し込んだのは交際やなくて、ボクをモデルに絵を描くこと。立体畑のボクにとっちゃ桜童子ちゃんの絵も衝撃だったよ。似顔絵っていったら目鼻立ちを誇張するやろ? 桜童子ちゃんの場合、顔の特徴を少ない描線で捉えて、決して誇張することなく描くのよ。できた絵はボクに似てるのにボクよりずっと可愛らしい。ボクの作品が『不気味の谷』を越えて、<生き人形>と呼ばれるようになったきっかけを与えてくれたんよ」
一悟が蔵人との関係について語った。喜久恵は、蔵人の話が聞けて嬉しかったが、どうも蔵人は話を切り上げたがっている。
「こっからは大人な話題になるんやけど、もちもちプリンちゃん、聞きたい?」
「聞かせてください! イチゴお姐さま!」
蔵人は頭を抱えた。