001 失われた黄金の日々
第一章
黎明の子よ 明けの明星よ
あなたは天から落ちてしまった
◆□◆001―A 帰還
少女は敗北感を奥歯に噛み締めながら、眠りに似た感覚の中を漂った。景色は白く輝いて、長く引き伸ばされたように見えた。その光の帯が凝縮しはじめ、やがて目の前で弾けると、後頭部に強い衝撃を感じた。
虚血性貧血の不快感に近いと彼女は思った。目の前の景色にようやくピントが合い、視覚情報が脳に送られてくるのを感じる。海だ。海が見える。
「津久見の、海?」
懐かしい潮の匂いが鼻腔に届く。
夏に近づこうとする海からの風。日は既に水平線を大きく離れ、肌を焼くほどの熱を届けている。
「みんなは?」
振り向いたが誰もいない。自分を包む衣服が軽装すぎることに気付く。戦闘に敗北したペナルティかと考えたが、もっと重大なことが起きているようにも感じる。
「ステータス画面が表示されない!」
彼女は異世界にいる間に、眼前に表示される画面によって状況を理解する癖がついていた。むしろそうすることが必然である世界にいたのだ。
立ち上がると、とても身体が重く感じた。トランポリンから降りたとき、ちょうどそんな感覚になる。1センチだって身体が浮かないような感覚なのだ。
「何コレ、身体重っ!」
頼りになる兄貴分の顔や仲間たちを思い浮かべたが、情報画面がないのでは連絡手段さえ思いつかない。
海辺から引き返すと、アスファルトの道路が見えた。
「ここ、どこ?」
車が1台通り過ぎていった。彼女はそれをいつまでも目で追っていた。
「何、コレ?」
緑に覆われた大地と、移動手段の馬や馬車はどこにもなかった。
生まれ育った小さな漁村であることに気付くまで、そこからたっぷりと時間が必要だった。
彼女の名は佐倉莉愛。
戦闘中の異世界から落伍して現実世界に帰還した数万人のうちのひとり。
◆□◆001―B 困惑
異世界に放逐された原因はとあるオンラインゲームだった。調べるならばそこからだ。
先ほど座っていた場所にゲーム用のタブレットが置いてある。
思い起こせば、いつもより気温の高かったある黄金週間のこと。夜中に家を抜け出して、夜風に吹かれながらゲームをしていたあの日のままなのだ。
そこから異世界生活を経ること1年以上。
「当然、電池残量ないよね」
拾い上げたタブレットは、不思議なことに簡単に画面を明るく光らせた。
「マジ、スリープモード、神」
懐かしいゲームのログイン画面。しかし、その光景の中に先ほどまでいたのだ。最終決戦はまだ続いていて、仲間たちは莉愛の復活を心待ちにしているはずだ。
「何、コレ」
3度目のこのフレーズは、ログイン画面にポップアップされたメッセージに向けてのものだった。
「ただいまサーバにアクセスできません」
何度Enterの文字を押しても、ログインできないことを虚しく通知してくるだけだった。
「お問い合わせ!」
端の方にあるアイコンを押すと、制作メーカーのページに飛ぶ。その旨のポップアップを反射的に「ハイ」を押して消す。ページがロードされる時間ももったいない。
「何、コレ」
ページには「現在起きているログイン障害につきましては、調査を急いでいます。なお、個別のお問い合わせにはお答えできません。原因がわかり次第、このサイトにてお知らせします」と書かれてある。
「また、ご購入頂きました商品の損失につきましては、後日調査の上、補填させていただきま・・・詫び石どうでもいい!」
続けて攻略サイトに移動して掲示板を見る。
―――ハイランカーたちが消えた。連絡取れねえ。
―――今が天下取りのチャンスと思ったらログインできねー。
―――おはよー。アップデート待てずに寝落ち。何事?
―――来るべき黄金の日々は失われた。GW充爆ぜろ。
掲示板に困惑した文言を見つけることができたが、誰ひとり異世界のことは書いていない。最終の書き込みはアップデートされた日の朝のようだ。異世界に行ってから一年以上経ったであろうに。
「えーっと、スマホ、スマホ」
莉愛は家に引き返すことにした。仲間たちと連絡をとること思いついたのだ。
仲間の顔が思い浮かぶ。さっきまで一緒に戦っていたのだ。その顔のうち、大切な顔を思い出して目を大きく開く。
異世界生まれの大切な恋人。
「ユイ!」
彼はどうしているのだろう。こっちの世界にやってきただろうか。おそらくこの事態は敵の攻撃を受けたから引き起こされたことだ。そうなると、彼の安否が気になる。
莉愛は、慣れぬ重力感が身体を縛り付ける中、必死に手足を動かして実家に戻る。
玄関を開けるとちょうど外に出ようとしていた祖父と顔を合わせた。
「リア、お前どこ行っちょったんか。朝飯できちょんのに、どこまで散歩行っちょんか心配になっち、探そうと思っちょったんじゃ。なんかえ、お前また外でゲームしちょったんか」
祖父は心配顔だ。ウインドブレーカーなど着ているところを見ると、本当に探す気だったのだろう。
「ごめん、じいじ。ご飯あとで食べるけん!」
「なんちや。おい、リア、靴をちゃーっと揃えて上がらんか」
「ごめん、じいじ。やっちょって! 今世界の危機なんよ」
「なーんが、世界の危機かい。こげんしちから」
祖父が靴を揃えている間に階段を駆け上がる。ダイエットせねばならぬ体重でもないのに、身体が重い。超人的な身体能力を誇っていた異世界生活から頭が抜け出せないのだ。
机の上に充電中のスマートフォンがある。すぐに無料コミュニケーションアプリを立ちあげる。
「えっと、レンちゃん、これだとなんて名前だっけ。あった、やぐりんだ。『なぜか元の世界に戻ったみたい』『レンちゃん何してますか』『早くみんなに会いたいです』スタンプ!」
送ってすぐにメッセージが既読の表示になる。それと同時に莉愛は送信メッセージの誤字に気付いた。
「打ちづらいと思ったら、ローマ字入力してた! 『会いたいです』じゃなくて『会いたいどす』って何? 恥ずかし! 普通打たないでしょ、DOS! スマホ久しぶりすぎた」
異変はその直後に起きた。
スマートフォンが虹色の光の粒になって分解されていく。
「うそうそうそ! やめてやめてやめて!」
莉愛は光の粒から手を離し、近くに置いてあるドライヤーを武器代わりに握りしめ距離をとる。
光の粒が消え去るとスマートフォンもなくなった。
代わりに机の上には1枚のカードがあった。