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第0a話:宿の女  作者: 吉野貴博
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 そうだ、この人は変な人だった、私に際限なく〝思い付かせる〟変な人だった。

 そうだ、ここはそういう場所ではなかったか。

 なぜ宿の女は一人として自分のことを語らないのか、なぜ宿の女は一人として向こう側に行かないのか、なぜ〝大勢の姉〟であり、〝大勢の母〟であり、〝大勢の祖母〟であり、〝大勢の高祖母〟であって、〝大勢の女〟ではないのか。

 考えがまとまらない。この人の怖い顔は私の方を向いていないのに、怖くて怖くてたまらなくなる。

 それでも私は聞かなければならない。

「お願いです。父の名前を教えてください」

 この人は、ゆっくりと、優しい顔になって私に言った。

「名前を言うのは簡単だけどね、それよりもあの中身を聞いてほしい。あの中には君のお父さんの名前どころじゃない、全てが入っている」

「あなたは、中身を聞いたんですか?」

「いや、聞いてはいない。けどね、作っているときの姿は見たよ」

 そして寂しげな顔になって続けた。

「あれは鬼そのものだった」

 もう嫌だ。この世界はこんなにも怖いものだったのか。けっして途切れることのないお客様と、〝大勢の老女〟の世話を永遠に繰り返せばいいだけの世界ではなかったのか。

 そしてこの人は、プロとしての言葉を口にする。

「君のお父さんは歌を作った。私はここまで届け、なんとか受け取ってもらえた。しかしそれでも、君のお母さんがあれを聞くか壊すかは、解らないんだ」

 私は宿に向かって走り出した。

 この人に礼も挨拶もせずに走り出した。

 母にいろいろ聞かなければならない。

 封筒の中身を聞かなければならない。

 それらに母のこと、父のことだけでなく、この宿のこともこの世のことも、全てが入っているような気がした。

 壊されるかもしれない、知ってはいけないのかもしれない、この宿を始めたお方に怒られるかもしれない、

 それでも私は知りたい。

 私は〝大勢の妹〟であり〝大勢の私〟だった。

 そしてここを出て〝一生に一度の恋〟をしても、〝大勢の〟姉となり〝大勢の〟母となり、永遠の〝大勢の中の一人〟にしかなれないのだろうか?私は〝たった一人の私〟にはなれないのだろうか?

 怖くて怖くて母の元に駆ける私の背中を、強い風と女たちの叫び声が追いかけてくるのか押しているのか、全く解らなかった。 

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