父
あの人はもうずいぶん進んでいた。
しかし強い風の中立ち止まり、崖の方を見ていたので追いつき話しかけることができた。
「すいません、母に、何を渡したんですか」
その人は私の目をじっと見てから言った。
「依頼人のことを話すわけにはいかないんですけどね」
そしてより強く私のことを見て続けた。
「依頼人に、あなたのことを言っても構わないですか?それならば話しましょう」
「かまいません、なんでも話してください。だから、教えてください」
その人は話し出した。強い風の中、どこかに行こうとも言わずに話し出した。
「十何年も前、その人はあなたのお母さんと初めて会ったとき、別に何も思うことはなかったんだそうです。
しかし話をしているうちに惹かれ始め、どんどん魅了され、夢も将来も、全てをあなたのお母さんに捧げても構わないと思うようになったんだそうです。
一生に一度の、燃えるような恋だったそうです。
しかし突然、あなたのお母さんは子どもが出来たとだけ言うと、その人の前から姿を消しました。呆気にとられているうちに立ち上がり、振り返らずに行ってしまったそうです。
結婚も出産も、認知も堕胎も一切なく、ただ消えたそうです。
その人は現実を受け入れるまで多くの時間を費やし、あなたのお母さんと出会う前からあった作曲の技術に頼るようになりました。
腕を磨き仕事をこなし多くの作品を作り続け、ようやくあなたのお母さんから聞いた話の断片と、あなたのお母さんの記憶を音符に込めることに成功し、今度は自分を理解してくれる言葉の使い手を探し、長い時間をかけて協力をもとめ、作詞をしてもらいました。
そして自分の社会的な立場をフルに使って天性の声を持つ人を探し、過不足なく歌ってもらい、全てをあの封筒の中身に込めました。
しかしどんなに作曲家として力があっても、歌を完成させることは出来ても、あなたのお母さんに届けることが出来ない。そこで私に依頼が来ました。
私だって見つけることは出来ても受け取ってもらえるかは自信がなく何度も断ったのだけど、いやぁ、才能と執念とが組み合わさると、これはもう抗えきれない。
生涯にたった一度の本物の恋の一端とはこういうものかと思ったよ」
話の前半は、たまに〝大勢の姉〟が話すことと一緒だ。
そのときは聞いても何も思わなかったが、そうか、相手の立場での話もあったのだ。
そして初めて気がつく。
〝大勢の姉〟は皆「子どもが出来たからここに帰ってきた」とだけ言い、相手のことをどう思うようになったのか、誰も言わなかった。
なんとなく、子どもが出来たら〝一生に一度の恋〟も醒めたのだろうと思っていたのだけど、果たして本当にそうなのだろうか。
この人は崖の方を見ている。
ごうごうと鳴る風の音を聞きながら、怖い顔で崖の方を見ている。




