日常
宿の朝は早い。
目を覚ました〝大勢の私〟は〝大勢の妹〟の世話を始める。〝大勢の姉〟と〝大勢の母〟はお客様の朝食を作り始め、〝大勢の祖母〟は〝大勢の曾祖母〟や〝大勢の高祖母〟の世話を始める。
この宿は、女たちが死んであちらの世界に行く途中に立ち寄る宿だ。温泉につかり料理を食べ、この世への思いを消した後にあちらの世界に行く。恨みや悲しみに捕らわれた女たちは宿に荷物を降ろすともう少し道を進んで崖まで行って、喉が裂け血を吐きながら叫び続ける。とにかくこの世への執着を全て無くさなければ、あちらへは行けないのだ。
〝私たち〟はこの宿で働くために生を受けた。
宿のことはほどんど何も知らない。宿の全体も知らない。働いている女たちの部屋の向こうに、高祖母より上の、〝大勢の老女〟が寝ているのだ。
仕事を割り振られる前の、走り回ることが生きることそのものであるような幼少期のころは、宿の奥まで行ってみようという子供もいる。別に誰も咎めも止めもしない。しかし延々と、数えることもできないほどいる寝たきりの〝大勢の老女〟たちの部屋を見ているうちに、みな怖がって、どこかで諦めて引き返すのだ。
宿の全てを知る者は、少なくとも動き回れる女の中にはいない。また働くようになったらそんなことを考えてる時間はない。
今まで一人だけ宿の一番奥に辿り着いた子供がいたという。
そこには木乃伊のような老女が立派な椅子に座っていて、瞑想をしているみたいだったそうな。
「初めまして。私の名前は○○といいます。何とお呼びすればよろしいのでしょうか?」
返事はない。
すると近くに寝ていた一人の老女が、ゼイゼイと努力をしながら
「そのお方はね、この宿を始めたお方なんだけどね、もう喋り方を忘れてしまったんだよ」
子供はその老女に一礼し、椅子に座っている老女にも一礼し、戻ってきたそうだ。
いつの時代の〝大勢の私〟も、その話が嘘なのか本当なのか、一度は議論するそうだ。しかし〝大勢の妹〟のときに奥まで行ってみたことのある者は、疑っている。進んでいるうちに時間が解らなくなるのだが、数を数えながら歩いて、千や万では足りないほど歩いても、まだまだ廊下は終わりそうにないのだという。三万を数える子供はまれだが、ときどき五万まで数える子供がいて、さらに七万まで数えたという子供もいたのだが、それでも廊下が尽きる気配がない。その五万も信じられないという行ったことのない〝私〟の疑いで議論が紛糾するのが常のようだ。
私は興味がない。議論にも加わらない。
しかし話を聞いていて、あり得ないことではないな、と思う。なにしろ〝妹〟も〝私〟も〝姉〟も〝母〟も〝祖母〟も、どの世代も〝大勢〟いるのだ。ましてこれ以上の大勢ともなれば、一人くらい〝この宿を始めたお方〟に会えたとしてもおかしくはないだろう。私には関係がない。会いたいとも思わないし、会っても何も喋ることがない。ただ〝大勢の妹〟の世話と、もうすぐ高校を卒業して、それからどうしたものかを考えなければいけないのだ。