逃げるが勝ち
それから一か月後、木場は別の会社に転職していた。今日はその初日だった。新しい上司が沢山の同僚達の前で木場を皆に紹介していた。
「えー、今日からこの会社の一員になった。木場武志君だ。皆、仲良くやってください」
新しい上司が、そのまま木場に「何か一言」と言った。
「初めまして。木場武志と申します。一日でも早くこの会社の戦力になれるよう、日々精進して参ります」
木場はそう言った後、少し間をおいて続けて言った。
「僕の、僕の人生のモットーは逃げるが勝ちです!よろしくお願いします!」
木場がそう言うと、それを聞いた新しい同僚達はどっと笑った。そのうちの一人の、恐らくこの会社のムードメーカーであろう男がつっこんできた。
「いやいや、逃げるって!さては君、早速、転職する気満々じゃないのか?」
その男の一言で、皆はさらに声を上げて笑った。
入社したばかりの木場だったが、会社の雰囲気はとても良いと思えた。
木場はこの会社の面接を受けた時、面接を担当していた人事の人に、何故、前の会社を辞めたのか聞かれた。木場は理由が上司からのパワハラだと正直に伝えた。
すると、人事の人は怪訝な顔をするかと木場は思っていたが、人事の人は意外にも真剣に話を聞いてくれた。
その人事の人は「うちの会社にはそう言った人は一切いないと約束できる」とまで言ってくれた。
木場は不思議に思い、悪気は一切なく、その人事の人に、何故、そう言い切れるのか思い切って聞いてみた。すると、その人事の人は「うちの会社にもそういった古い考えを持った人が沢山いたが、新しくなった役員がそういった人達を嫌い、どんどん辞めさせていった」という。
木場はその言葉を信じ、この会社に入社を決意したが、本当にこの会社の人達は皆、優しさが溢れ出ている人達ばっかりであった。
「今日から木場君の教育係を務める、中本です。よろしくね」
中本と名乗る三十代前半らしき、その男性は優しい表情を浮かべ、木場にそう言った。
「初めまして!木場と申します!よろしくお願いいたします!」
木場は精一杯元気な声で挨拶をした。
「おっ、やる気満々だねぇ。そんなやる気満々だと、すぐ、ばてちゃうよ?リラックス、リラックス」
中本の意外な返答に、木場は少し戸惑った。
「あ、ありがとうございます」
「最初は分からなくて当たり前だから、分からないことがあったら、すぐ僕に聞いてね。この会社は優しい人達ばっかりだから、僕以外の人にも遠慮なく聞いて大丈夫だから」
木場は仕事関係の人に優しくされるのが、久しぶり過ぎて、なんだか泣きそうになった。木場はこの会社なら頑張れそうな気がしてきた。
それから中本は木場を連れて、会社の中を案内してくれた。さらに部署の人達を一人一人紹介していった。その中に、先程、朝礼の時に木場につっこみを入れてきた男性もいた。
「彼は坂田っていうんだ。歳は木場君の一つ上かな?歳が近いから仲良くしてあげて」
中本はそう言って坂田を木場に紹介した。
「坂田です!よろしく!木場君、お酒は好きかい?」
坂田は屈託のない笑顔で木場に問いかけてきた。
「ええ!大好きです!」
木場はそう言うと、坂田は声を出して笑った。
「ははっ、君とは仲良くなれそうだ!」
それを見ていた中本もつられて笑っていた。
木場の教育係の中本は細かいところまで、丁寧に木場に仕事を教えてくれた。間違いがあったとしても、とても柔らかい言い方で指摘してくれた。
「知らない人を、一気に紹介されて疲れたでしょ?少し休もうか」
中本は気疲れも心配してくれていた。
早速、木場は新しい先輩の中本と共に、営業先にあいさつ回りに向かう為、木場がオフィスを出ようとすると、先程、中本が紹介してくれた坂田が座っていた席から、木場に近づいて来た。
「今日、お前の歓迎会やるから!絶対来いよ!」
坂田にそう話しかけられた木場は「はい!」と元気よく返事をした。すると、その男は満足げな顔をして「じゃ、また後で」と自分の席に戻って行った。
木場が会社を出ると、空は気持ちいいくらい快晴であった。木場が空を眺めていると、新しい先輩の中本が少し離れた所から、「おーい、木場君、行くよー」と声をかけた。
木場は「よし」と自分に喝を入れ、先輩のいる所へと、元気よく駆け出した。
その時、木場は幸せそうに歩く、父、母、娘の三人家族とすれ違った。木場はその父親の顔をちらっと見た時、何かに引っかかったが、中本に「早く!」と急かされたので、慌てて、中本のもとに走った。




