佐田俊介
二千十六年、十二月二十九日。
世間は年末休みを迎えていた。街を漂う空気もいつもと違い、独特だった。
街を歩く人々の表情にも心なしか、優しさと余裕が滲んでいるように見える。
クリスマスも終わり、後は年が終わるのを待つだけの期間ということもあり、どこか街にはそんな哀愁も漂っていた。
そんな中、黒い軽自動車の運転席で一人、ラジオを聴いている佐田俊介の心情はとても穏やかとは、言い難かった。
佐田は今年十五年間務めた会社が倒産した。
嫁と子供にも逃げられ、今はアルバイトの掛け持ちで生活していた。
佐田は現在三十七歳である。この歳での初めての転職活動に、世の会社は佐田に対してとても冷たく、中々新しい仕事も決まらない。
「うーん、あなたの歳だと、難しいですかねぇ」
佐田を面接した人々がそう口を揃えて言った。自分の勤める会社が倒産するなんて考えてもなかった佐田は、自分がこんな風になってしまったのは、社会のせいだと決めつけていた。
佐田はコートの懐から、唯一、家族三人で撮った写真を出した。写真に写った三人はとても幸せそうな顔をしている。
妻の晴美と今年、五歳になる娘の由衣が佐田にとっては唯一の生きがいであった。
佐田は写真をコートの懐にしまい、深いため息をついた。
「くそったれが」
佐田は車の中で街を歩く人々を眺めながら煙草に火をつけた。
佐田には現在家もなく、軽自動車で生活していた。
佐田は銭湯に行くのも三日に一回と決めている。生活費をなるべく切り詰める為だ。
アルバイトでは、年下の学生バイトリーダーに怒られる日々に佐田のストレスは着実に溜まっていった。おもむろにポケットの中に手を入れてみると、小銭のこすれる音がむなしく響いた。ラジオでは最近街で発生してる連続失踪事件のニュースが流れている。
「連日報道されている都内各地で発生している連続失踪事件ですが、失踪されたと思われる現場では、失踪した村本秀樹さんの物と思われる遺留品と血痕が残っており、警察は事件性が高いとみて捜査を進めています」
佐田はラジオのニュースに聞き耳を立てながら、別のことを考えていた。なんとかこの生活から抜け出す方法はないかと。
佐田はギャンブルに依存していたが、ギャンブルにかけるお金も、もうなかった。
佐田は犯罪に手を染めるしかないと考えた。
佐田は考えた。コンビニに強盗に入るか。しかし、コンビニ強盗は一度に奪える金額は大きいが、店には監視カメラがある為、リスクが高すぎる。だとしたら人目のつかない場所でお金を奪えるひったくりはどうだろうか。
三日風呂に入っていない佐田の髪は脂ぎっていた。とにかく風呂に入りたい。そんな時、車の横を杖をついたおばあちゃんが通った。片手にはカバンを持っていた
佐田は少し考えた後、車から降りておばあちゃんを尾行していた。佐田はおばあちゃんが人気のない通路に入るのを待った。
ふとこんなことをしてはいけないと理性が働くが、佐田の空腹の音がその考えを打ち消した。佐田は心臓の音が大きくなってくるのが分かった。この感覚には佐田は身に覚えがあった。
佐田が小さい頃、仲の良かった友達と深夜に家を抜け出して、クラスのいじめっ子の自転車にいたずらをした事があった。
自転車のサドルを引っこ抜いてやろうとしたが、中々外れない。佐田は焦っていたが、ふと友達を見ると自転車のタイヤをパンクして爆笑していた。それを見て、佐田も段々楽しくなってきた。バレたらどうしようと思いつつも、味わったことのないスリルに酔いしれていた。そこからなんとかしてサドルを外し、人気のない公園に友達と一緒にサドルを持って行った。とりあえずサドルを燃やしてみようという話になり、持ってきた百円ライターで火を着けようとするが、全然燃える気配はない。そこで友達が持ってきたカッターでサドルを切り刻み始めた。
「面白いぜ。お前もやってみろよ」
友達は笑いながら言った。友達からカッターを借りてサドルを切り裂いた。今まで、いじめっ子にされてきた嫌な思い出が佐田は少し薄れたように感じた。快感を覚えた佐田は何度も何度もサドルを切り裂いた。
「まぁその辺にしとけよ。まだ、お楽しみがあるだろ」
友達は意味ありげに言うと、袋の中からくさやを取り出した。
「初めて見るけど、ぱっと見はただの魚の干物だなぁ」
佐田がそう言うと、友達は固そうな、くさやの入った袋をカッターで開けながら答えた。
「でも、これ臭いが強烈なんだってよ。バラエティ番組で罰ゲームで使われててさ。一回嗅いでみたかったんだよねこれ」
そう言いながら、くさやの臭いを嗅いで友達は悶絶していた。「お前も嗅げ」と嗅がせてきたが、全力で拒否した。ほんのり排泄物の香りがしたからだ。
友達はそのまま、くさやをサドルのカッターで避けた部分に押し込んだ。そのままサドルをいじめっ子の自転車に戻し、佐田と友達は帰宅した。
翌日、いじめっ子はとても元気がなさそうに見えた。いじめっ子と仲がいい奴に聞いた話では、近所を徘徊しているホームレスが怪しいと言っていたらしい。
それを聞いた佐野達は陰で楽しんでいた。
昔の思い出を振り返っていた佐田は我に返った。
そうこうしているうちに、尾行していたおばあちゃんが、人気のない路地に入っていった。佐田は周りを警戒しながら思った。
今がチャンスだ。
昔感じたことのあるスリルと快感が体中を駆け巡った。
一気にターゲットとの距離を詰めていく。佐田はおばあちゃんの持っているカバンに視点を集中させた。
佐田が走って詰め寄ったところで、おばあちゃんが振り返った。やばいと思ったと同時に、おばあちゃんと身体が接触した。おばあちゃんが倒れると同時に、反射的にカバンをつかみ、奪った。
おばあちゃんはびっくりし過ぎているのか、意外にも声を出さなかった。
そのまま佐田は、振り返る事無く無我夢中に走った。だいぶ距離をとった。しかし、後ろからはまだ悲鳴が聞こえてはこない。本当に驚いた人間は声が出ないのだろうと佐田は思った。
佐田はそのまま路地をぐるっと回るように走り、自分の車へと戻る。佐田はすぐに車のエンジンをかけ、車を走らせた。
自分の荒くなった呼吸音だけが車内に木霊した。周りをチラチラ気にかけながら、車は隣町へと着いた。ここなら大丈夫だろうと、佐田は思った。
少し落ち着きを取り戻した佐田は車を止め、先程、奪ったカバンを物色し始めた。中には財布とポケットティッシュ、お菓子などが入っていた。佐田はすぐさま財布の中身を確認した。
「諭吉が七枚に英世が四枚か。上出来だな」
佐田は想像以上の収入に、思わず声が出た。お金だけ抜いて財布はカバンに戻した。
佐田は近くの川に移動し、誰も見ていないことを確認してカバンを川に投げ捨てた。佐田はやり遂げた達成感とお金を手に入れたことで浮かれていた。
そのまま車を走らせて二十四時間営業のスーパー銭湯へと向かった。久しぶりに脂ぎった髪を熱々のシャワーで洗い流すのは天にも昇る気持ちよさだった。
佐田は浴槽に浸かりながら考えていた。ここを出たら久しぶりにビールでも飲もうと。お金を何に使うか考えていたら時間はあっという間に過ぎていった。
スーパー銭湯を出ると、すぐさま車でファミレスへと向かう。ビールと食べたいものをひとしきり注文した。運ばれてきたビールを飲みながら佐田は幸せ噛みしめていた。こんなに贅沢したのはいつぶりだろう。そしてあのおばあちゃんは警察に通報したのであろうか。転んだ時に怪我をしてないだろうか。
不意に、佐田に罪悪感を押し寄せた。しかし、その罪悪感は運ばれてきたステーキの匂いを嗅いだ途端、どこに飛んで行ってしまった。
自分の単純さに少し呆れながらも、佐田はステーキを頬張りながらビールで流し込んだ。無我夢中に次ぐ次と運ばれてくる料理を食べ続けた。
佐田はこの幸福がいつまでも続けばいいと、付き合いたてのカップルみたいなことを感じていた。
佐田はひとしきり料理を食べ終え、煙草に火をつけ一服して落ち着いていた。
佐田がふと、ファミレスの時計に目をやると、時計は深夜の二時を回ったところだった。さっきまでの時間が濃密すぎて、佐田はまだこんな時間かと思った。
佐田はひったくりした時の高揚感を思い出していた。小さい頃、いじめっ子の自転車のサドルに悪戯した時にも感じたあの何とも言えない高揚感。自分は悪いことをしているという感情が気持ちを高ぶらせるのだろう。佐田はそう感じた。この時間なら、またもう一回くらい出来そうだ。終わってすぐは、もうしばらくはいいだろうと考えていたが、気持ちが高まっているのか佐田はそんな風に考えていた。
思い立ったらすぐ行動するタイプの佐田は、ファミレスで会計をすまし、車を走らせた。
車を運転させながら、佐田は周囲を見渡した。ターゲットになりそうな人を注意深く探した。さっきより時間が深くなったせいか、中々、ターゲットになりそうな人は見つからなかった。
諦めかけた佐田は、人の気配がまったくしない工場地帯の近くの路地に迷い込んでいた。佐田がファミレスを出てから一時間ほどが経っていた。
佐田が奥の道に目を凝らすと、人影のようなものが見えた。人影にだんだん近づくと恐らく六十代くらいのおばさんが重そうな黒いバッグを持って歩いているのが分かった。やたらと辺りを警戒していた。おばさんはどうやら工場に向かって歩いているらしい。おばさんに気づかれる前に佐田は車を止め、ゆっくりおばさんに近づいて行った。これはどう考えてもチャンスだ。おばさんが工場の入り口に入りそうなところで、佐田は一気におばさんをめがけて走った。
かなり接近したところでおばさんは振り返り、悲鳴をあげた。
佐田はすかさずバッグを奪い、振り返って自分の車へと一気に駆け出した。
奪ったバッグは想像していたよりも重く、佐田は焦っていた。佐田は車に乗ると、叫んでいるおばさんの横を車で走り去った。
さっきまでは気づかなかったが、車で逃げている際に近くで黒い車にスーツを着た男二人が乗り込むのが見えた。
「くそ!見られてたか!」
佐田は思わず叫んだ。
とにかく遠くに逃げようと思った佐田は、街外れにある山の方角へと車を走らせた。運転しながら佐田は考えた。ひとまず、どこかへ隠れようと。
佐田は思い出していた。以前、アルバイトをしている時にアルバイトの若い子達が話していた会話の内容を。あの山の近くには大きな廃病院があるという。今、その廃病院は若い子たちの間ではお化けが出る心霊スポットとして有名らしい。その話を聞いたのは今年の夏頃だ。冬に心霊スポットに行く奴はいないだろう。だとしたら、今その場所は身を隠すにはもってこいではないか。
「お化けなんて馬鹿馬鹿しい」
佐田はその廃病院へと車を走らせた。
佐田は廃病院の近くで車を止め、奪ったバッグを持ち病院へと向かった。廃病院の入り口は夏場の間若者に荒らされたのか、缶ジュースやお菓子のごみが散乱していた。廃病院からはとてつもなく薄気味悪いオーラが漂っていた。
「なるほど、こりゃお化けが出るのも納得だな」
佐田は馬鹿にしたように言った。
入り口のドアは鍵がかけられてなく、佐田はそのまま、入り口のドアを開け、中へと入った。
中は当然真っ暗だった。外から入る僅かな月の光を頼りに、佐田は歩いた。ロビーには受付と大きなソファがそのままになっていた。受付のカウンターにはたくさんのロウソクが置いてある。恐らく肝試しに来た人達が置いて行ったのであろう。
「気が利くね」
佐田は持っているライターでロウソクに火を灯した。佐田はそのままソファに腰かけ、タバコに火をつけた。佐田はふと考えた。あのスーツを着た男二人は何者だったのだろうか。もしかして警察なのではないか。
しかし、一瞬しか見えなかったが警察のわりには柄が悪そうにも見えた。あの男二人は、おばさんを監視していたようだった。二人の慌てた様子からこの中に何か秘密があるのかもしれない。佐田はバッグのチャックを開けた。
「な、何だ。これは」
佐田はバッグの中身を見て驚愕した。その時だった。ロビーの奥の暗闇から足音が聞こえてきた。
「誰かいるのか!」
佐田は震えた声で叫んだ。しかし返事はなかった。足音は徐々に近づいてきた。まさか、本当にお化けが出るっていう噂は本当なのか。佐田は信じられなかった。
その時、足音と一緒に男の鼻歌と、何か金属の様な物を引きずる音が聞こえた。こちらに近づいて来る影の正体が見えてきた。
影の正体はパーカーのフードを被った大柄な男だった。手には大きな銀色のシャベルを持っていた。男はこちらを凝視している。佐田は恐怖を感じていたが、相手がお化けでも、先程のスーツを着た男二人でもなかった事に、ひとまず安心した。
「あんた何者だ?」
佐田は小さい声で恐る恐る質問した。
しかし、パーカーの男から返事はなく、相変わらず鼻歌を歌っている。佐田は考えていた。この鼻歌の曲、どこかで聞いたことがあると思ったが、ディズニー映画ピノキオで有名な星に願いをだ。
佐田がそんなことを考えているうちにパーカーの男は鼻歌を止めた。すると突然、パーカーの男は高笑いを始めた。駄目だこいつ完全におかしい。佐田は悟った。すると、急にパーカーの男はシャベルを持ち上げ、笑いながらこちらに走ってきた。
パーカーの男が振りかぶったシャベルを、佐田はぎりぎりのところでかわした。
しかし、パーカーの男は攻撃の手を緩めなかった。そのままシャベルを佐田に向かって振り回した。
佐田はバッグを持ち、なんとかロビーの奥へと走って逃げた。
ロビーの奥に進むと、階段が見えた。佐田は階段を駆け上がり逃げた。後ろからはパーカーの男の高笑いが聞こえてくる。距離は意外と離れてるみたいだ。
佐田が二階に上がると、長い廊下が続いていた。佐田は一目散に廊下を駆け出した。奥には大きな扉があり、佐田はその部屋に入った。
中は広い部屋でどうやら元々はリハビリ用に使われていたようだった。大きな窓の外は木が立ち並び山の様だった。どこかに隠れられそうな所がないか佐田は探した。
その時、佐田の後方から、荒い息遣いが聞こえてきた。
佐田が後ろを振り返り、ドアの方を見ると、パーカーの男が立っていた。パーカーの男は楽しそうに笑っていた。ここまでか。佐田は心が完全に折れた。パーカーの男はゆっくりと佐田に近づいてきた。
「頼む、殺される前に教えてくれ。お前はこのバッグと何か関係があるのか?このバッグが目的なら返すから助けてくれ」
佐田はパーカーの男に問いかけた。
パーカーの男から返答はなかった。佐田にはパーカーの男が薄っすら笑っているように見えた。
パーカーの男は佐田に近づいていき、シャベルを振りかぶった。