赤い夢、白い手、その下で
夢では時々、現実には決して起こり得ないことが起こる。とてつもなく大きな蜘蛛が現れたり、坂が突如、急勾配になったり。夢は自由で、そして不思議だ。夢を見ている間はそれを不思議だとも思わない。目が覚めてから不思議な夢に首をかしげるのだ。
美羽が見ていたのはそんな夢だった。
赤色のフィルタを通しているようだった。何もかもが赤っぽい。目の前にある木目の付いた物体は、おそらく薄い茶色をしているのだろうが、それも赤みを帯び、ちょうど鮮血を薄めたような色合いに見えた。
匂いも音もない。
美羽はどうやら地面に仰向けに寝転んでいるようだった。冷たい感覚が美羽の背中に流れる。
美羽はどうしたらいいのかが分からずに、しばらくその態勢のままいたが、やがて右の脇のあたりが痛くなってきたから、寝返りを打とうとした。心の中で「どっこいしょ」と言いながら体を捻る。しかし、美羽の体は動かなかった。何度繰り返しても、背中は地面にくっついていようとする。
(あれ、動かない……)
美羽は身体のどこか一部だけでも動かそうと努力したが、結局どこも大きく動かすことはできなかった。
美羽は動くことを諦めた。動けないという非日常的な現象に頭は付いていけていなかったが、もともと頭は動いていないような感じだった。
美羽の視界はムラのある闇に覆われていて、その全てに赤みが加わっている。美羽の顔の上には美しい木目の付いた柱が覆いかぶさっていた。美羽は足元を覗こうとしたが、その先にもやはり木目の付いた物体があり、美羽は自分の足先を見ることは出来なかった。
体の上が完全に木材で覆われているようだった。目のやり場所もなくなった美羽は、ゆっくりと視界がフェードアウトしていくのを感じた。夢が切り替わる。オチも脈絡もない夢のお話がまた一歩先へ進むのだ。そう思った。
視界がほぼ無くなり――もともと明るい視界ではなくさほど変化は感じられなかったが――大方のものがぼやけきったころ、突如美羽の右手は暖かいものに包まれた。指の間に誰かの指が挟まり、それが手だとわかる。美羽をこの舞台に引き留めるかのように固く握りしめられたそれは小刻みに震えており、美羽の視界ははっきりとした闇の中で再び開けた。
美羽は視線を捻り、自分の右手の方を見た。
美羽の手よりもずっと大きな手が見えた。その手は闇の中ではっきり区別できるほどの浮き出るような白さだった。
美羽は握られた手に反応するように、握られたそれよりもずっと弱い力で手を握り返した。ピクッと握った手が反応する。反応した後のその手は、美羽の右手に馴染み、美羽の心に溶け込むようでより暖かく、より重さを増したようだった。
美羽は自分が見つめる真っ白な手に黒いモヤがかかっているのに気づく。濃淡はあれど目に映る景色が黒一色であったために気付かなかったのだ。
白い手に強調されてモヤが見えると同時に、擦った瞬間のマッチのような匂いが美羽の鼻をついた。そして炎が燃えたぎる音が美羽の鼓膜を叩き始める。その音と匂いは徐々に大きくなり、存在感を増してくる。自分に近づいている、美羽はそう感じた。
美羽は迫りくる何かに身構えるように全身をこわばらせる。自然と握った手に力が入る。美羽の手を包む大きな手が応えるように力をいれた。美羽は小さな痛みも覚えたが、それは相手と自分がつながっている証拠で、不快どころかどこか安心感さえあった。そして直後、握った白い手からは力が抜けた。
音は徐々に近づいてくる。不思議なことにそれ以外の音は聞こえない。身の危険を感じた美羽の頭がそれ以外の音をシャットしているようにも思えた。
美羽は辺りを見回した。やはり赤がかった一面の闇。変わらない。美羽の不安感だけがどんどん大きくなっていく。視界をふさぐ目の前の柱に今にも押しつぶされそうな気がした。
美羽は再び、今度は意識的に右手に力を込めた。もう一度相手に握り返してほしい。その手がだれのものなのかは分からない。しかしそれは確実に美羽の心に安心感を与えてくれるものだった。あの確かな温かみをずっと感じていたい。
しかし、待っても待っても、その手が握り返してくることはなかった。
美羽は温かみを忘れられず、狭い空間と迫りくる音と匂いへの不安の中で、その手に何度も力を込めた。ただ、そのうちのただの一度にも、たった一瞬にさえ、反応は、なかった。
急速に美羽の中を恐怖と焦りが支配していく。今までかろうじて保っていた精神が徐々に堕ちていきそうだった。
(怖い、何なの……)
それに答えてくれる者はいない。そうして、ここはどこなのだろう、などという事を今さら思った。まるで美羽の脳が見えるものと関係のないことを考え、逃避しようとしているかのようだった。
美羽は何度も何度も手に力を込め、大きな手に反応を期待した。しかしそれはすぐに希望的すぎる観測であったことを思い知らされた。
そうしているうち、美羽は目を覆いたくなるような熱い空気が顔を覆っているのに気付いた。顔を背けたくなる熱気から逃れることは叶わず、美羽は片目を閉じた。もう片目には涙がにじんだ。
この時初めて美羽は、自分は死ぬかもしれないと思った。音や匂いといった慣れたものが、実際にものすごい熱気とともに美羽に襲い掛かり始めている。暗いどこも見えない暗闇の中、動けないまま死んでいくのではないか。
そしてようやく自分が握っている手の持ち主が、今まさにその状態にあるのかもしれない、ということに気づいた美羽は反射的にその真っ白な手を離した。自分のぬくもりが残り、自分の手にもまだ感触が残るその手を。
美羽はもう一度狭い空間の中で派手に暴れてみる。
肘が目の前の柱の角にあたり、膝が何かを擦ってきれた。頬にカスが落ちてきて、それを呑み込みかけた美羽は大きく息を吸ってしまい、盛大に煙を吸い込むことになった。覆いかぶさる闇は僅かに、ほんのわずかに動いたがやはり自由には動けず、ひとかけらの光さえ見えない。美羽は何かに思い切りぶつけた足の痛みに、その動きを止める。
何も変わらなかった。出れない。この闇は壊れることはない。
その時、何かが近づいてくる音がして、美羽は目を見開いた。美羽のちょうど真上でガコッと箍が外れるような音が続いた。今までの炎が燃える音とは明らかに異なる音に耳が過剰に反応する。美羽は音のした方向を凝視した。
そして、そこに一点の光が宿るのを見た。真っ白な手のようなその光に、美羽の心臓は動悸が早まる。一点は広がり指先ほどに、手のひらほどに、そして顔一面に。それが広がるたびに、美羽の顔のすぐそばを沢山のかすが落ちていった。
「誰かいるのかッ」
突如叫ばれたその声に美羽は身震いした。太くて、少し鼻声に近いその声には聞き覚えがなかった。
そして手が差し伸ばされた。あの白い手とは違う日焼けした角ばって固い手。ところどころには皺もよっていた。美羽はそれを掴む。その手は放してしまったあの手と同じ温かみを持って、美羽の手を握りしめた。
美羽はふわりと体が浮くような感触を覚える。それと同時に闇は一気に溶け、目の前には眩い光と美羽の顔を覗き込む、日焼けをしてヘルメットを被った歳のいった男の顔があった。男はこちらを見て、破顔する。美羽はそれに応えるように少しだけ微笑んだが、すぐに気恥ずかしくなって目をそらした。
そして美羽の眼は驚きのあまり見開かれた。
そこにあったのはいくつもの木々の残骸。いくつかは建物の形をとどめており、それが家が崩れた残骸であろうことは推測できた。地平線までずっとその残骸が続いている。その中には激しい炎が覆いかぶさっているものも多くあり、どの方向を向いても煙が視界から外れることはなかった。そして美羽がずっと聞いていた音、感じていた匂い、熱気が立ち込めていた。折れている電柱や地を覆うアスファルトから、そこが市街であることは明白だったが、人影は少なかった。
空を見上げた美羽はそこにヘリが飛んでいることに気付く。モーター音に気づかなかったのは辺りの景色に衝撃を受けていたからだろうか。その強い音が耳に響く。
「大丈夫か、お嬢ちゃん」
「あ……」
あの手のことを伝えなければならないと思う。しかし何といえばいいのだろうか。「手があった」という? 「女の人がいた」のほうがいいだろうか? しかしあの手の持ち主は……。女性の手だったような気がしたが、確信が持てるわけではない。人の手をいつも見ているわけではないから。考えた挙句、選んだのは初めに見つけた結論だった。
「あの、あのね……」
「どうした?」
男は煤のついた顔を捻らせる。
「そこに女のひ――」
時計のうるさいアラームが鳴っている。ほとんど無意識に手探りでそれを止めた美羽は片目を開けた。
明るい部屋。外から太陽の光が差し込んでいる。本棚がそれに照らされ、その横には物にあふれた勉強机。そしてフローリングの床からこちらを見上げる茶色いクマの人形。
美羽は再びベッドに寝転がりたい衝動と闘いながら、その身を起こす。その夢は鮮明に、頭に残っていた。
美羽はそこで何とか涙が出そうになるのを堪えた。どうして涙が出てくるのだろう。何か悲しいことがあったっけ。そう思ううちに、美羽は父との約束を思い出し、慌てて部屋を出て階段を下りていった。
リビングからはテレビの声が漏れ出ている。その扉を開けた美羽は、椅子に腰かけ、新聞を広げている父の姿をその眼にとらえた。
「おはよ」
「おはよう、美羽」
テレビでは朝のニュースがずいぶん古い映像を流している。字幕は――
「1996年〇〇地震から15年」
映像は、ヘリが撮ったものであろう上空からの物に変わった。手ぶれのせいか時折揺れるカメラが捉えていたのは何もかもが崩れ、壊れ、燃えている街だった。同時に流された地震前の映像と比べるとその差は歴然で、その真ん中、ちょうど地震の前に赤い屋根の家が建っていたあたりに、二人の人がポツンと立っているのがわかる。一人はヘルメットを被っていて、もう一人は小さい子供だった。
「お父さん、今日行くんだよね?」
「ああ」
映像は切り替わる。映し出されたのはどこかの書庫。並んだ本棚にはぎっしりと紙が詰まっており、それは一応分類されているようであった。スーツを着た女性が手に大きな箱を持ってカメラに近づいてくる。
「ご飯できてるぞ、食べるか?」
「うん」
「早く食べちまいな、お母さんに会う時間が少なくなるぞ」
父は母のいる隣の部屋に視線を送りながらそう言った。
「わかってる」
美羽は台所から食事を持ってきて、席に着く。そして、先ほどの父のように母の眠る仏間の方にちらりと視線を送り、口の中で何かをつぶやいた。父のほうに向きなおり、「いただきます」と箸をとる。
「何せ今日はお母さんの命日だからな」
テレビの画面は太陽の光にきらめく川に浮かぶ、幾千もの流し灯篭を映し出した。




