アーマーチュア・ボクサー
俺は、ボクサー。アマチュアのボクサーだ。
今年の春に高校を卒業して、今は国立体育養成所に所属している。
表向きは財団法人が運営する小規模の指導者養成所だが、本当はオリンピックで金メダルを奪い取るための秘密機関なのだ。
俺は元々ボクシングに興味などなかった。部活をする暇がなかったのだ。
同級生の中でとびぬけて身長があった俺は、その分手足が長かった。特に部活をするでもなく、授業が終わるとそそくさと帰宅したものだった。帰宅するには理由がある。父親の手伝いをするためだ。
父親は小さな町工場を営みながら家族の生計をたてていたのだが、テレビで騒ぐような景気とは関係なく、爪に火を点すようにして切り盛りしている。中学生のときはそれでもまだ余裕があったらしいが、俺が高校へ進学するのと同時に赤字になってしまった。父親のほかには何事にも怖がる母親しかいないので、赤字を挽回することはとても無理なことだった。だから俺は部活などせず、真っ直ぐに帰宅して手伝っていたのだ。
そんなわけで、俺はガリガリに痩せているくせに腕力が強くなっていた。
ある日、いつも陰気な先生に呼び止められた。
「おまえ、部活はしてないのか?」
背が低いくせに目つきの鋭い体育の先生だ。口数が少ないせいか生徒の受けが良くなく、まばたきをしないので気味悪がられている。
「はい。家で用がありますので」
あまり関わらないほうが良いと俺は思った。しかし先生は、俺が帰宅部だということを知ると、ほう、という顔つきをした。
「そうか、用があるなら仕方ないが、家までどれくらいあるのだ?」
さして落胆したふうではなく、かえって興味をもたれたようだ。
「十キロほどですが」
家までの距離を訊ねているのだろうと思って答えると、先生は俺の古びた自転車に手を掛けて更に問いかけた。
「信号があるから、だいたい三十分くらいです」
先生は満足そうに頷いた。そして、俺の顔の前に腕を差し出した。
「ちょっと掴んでみろ。遠慮しなくていいから、力いっぱい握ってみろ」
そう言った。
薄気味悪く思いながら言われたようにすると、今度は思い切り突き出せと言った。
「なぁ、クラスと名前教えてくれよ。俺は体育教師の……」
「神野先生です。一年五組の磯部です。用はそれだけですか? 帰って仕事しなくちゃいけないので」
「仕事って、バイトか?」
「いえ、親の手伝いです」
「そうか、家の手伝いをしてるのか。じゃあ、あまり無理に引き止めちゃ迷惑だな」
そう言って先生は自転車から離れた。
「そうそう、今日からは二十分で通学しろ。いいか、毎日二十分で走るんだぞ」
それが、俺とボクシングとの出会いだった。
先生は、皆が噂するほど陰気ではなく、あっさりと俺を解放してくれたのだった。
そして翌日、登校すると通用門の前で先生が待っていた。先生に指示されたからというわけではないが、前日に帰宅したときに、時間通りに走れたことに驚いた俺は、今朝も懸命にぺタルをこいだ。額に玉の汗を浮かべながら、懸命にこいだ。
「磯部ぇ、どうだ、きついか?」
おはようという言葉などなかったが、額の汗をチラッと見やった先生は、鼻の下をちょっと擦って去っていった。
その日も、俺の帰るのに合わせるように先生が自転車置き場に姿を見せた。
「磯部ぇ、おまえ、クラブはしないのか?」
「だから、家の手伝いがあるから」
先生は、家の手伝いは一日か二日ですむことと思ったのかもしれない。しかし、俺がやらなきゃ仕事が片付かないのだ。俺が一時間仕事をさぼれば、そのしわ寄せは父親がかむることになる。というようなことを先生に言うつもりのない俺は、ニッと笑ってその場を去るしかなかった。
それから二ヶ月の間、先生は毎朝俺を通用門で待っていた。
「どうだ、磯部。最近、汗をあまりかいていないけど、さぼってるのじゃないだろうな」
文化の日がすぎると、さすがに気温が下がってきた。だからだろうか、ここ一週間ばかりの間は、うっすら汗をかく程度で収まっているのだ。そのじっとり滲んだ汗を見て先生はからかっているのだ。
「ちゃんとやっていますよ」
憮然として答えると、先生はニヤッと笑い、いきなり俺の足を摘んだのだった。
「ほう……」
腿を摘んで小さな声を漏らすと、ふくらはぎを摘んだ。
「若いってのはいいな、磯部。良い足になってきたじゃないか、羨ましいなぁ、おい」
陰気な先生という評判を覆すような笑顔だった。そして、こう続けた。
「今日から、十五分で走れ。なに、五分早くするだけのことだ、すぐに馴れる」
そして、反論する暇を与えず去って行った。
五分早く走るだけ。言ってしまえばそれだけのことだが、元々は三十分かけて通学していたのだから、倍の速度で走れということだ。俺は咄嗟に速度を計算してみた。
十キロの道のりを三十分で通学していたのだから、時速二十キロだ。早いとはいえないが、決して遅くはないはずだ。それを二十分で走るようになった。時速に直すと三十キロ。ようやく馴れてきたと思ったら十五分だという。それは、時速に直せば四十キロだ。そんなスピードで走るための高級車ではなく、普段乗りの自転車なのだ。まったく無茶なことを要求する先生だと呆れる反面、ひょっとしたらという気持ちが芽生えた。どちらにせよ、どうしても守らねばならない言いつけではなし、気がのらなければ無視すればいいくらいのつもりでいた。
早速その日から始めてみると、面白いもので、少し無理をすれば達成できそうなのだ。十七分かかったものが、いつしか十六分に縮まり、そして十五分で走れるようになった。しかし、クリスマスセールが始まっても額にうかぶ汗は減らなかった。
「磯部、おまえボクシングをしないか。面白いぞ、ボクシングは。拳ひとつで相手を倒すのだからな、これくらい正々堂々としたスポーツはないぞ。毎日欠かさずに練習したろう、足は強くなっているし、スタミナもついただろう。おまえなら、ひょっとすると大物になれるかもしれん。どうだ、やってみないか」
先生からそう誘われたのは、終業式の前日のことだ。そしてその日、帰宅する俺を先生が追ってきた。といってもむこうは車なので涼しい顔をしているし、呼び止めるつもりもないようだった。
しかし、いくら車が速いといったって信号で止まってしまえばどうしようもない。それにひきかえ、自転車は左端をどんどん先に行けるし、横断歩道を利用すれば道路を渡ることもできる。そして、信号が青になったとたんに道路を渡り、くるっと右へ向きを変えてぺタルをこいだ。懸命にこいだ。もうこれで追いついてはこれまいと安心したのは、四つ目の信号を左折する直前だった。先生を引き離した交差点は、直進車が多くてなかなか右折できないからだ。あの交差点で引き離した車に、俺はまだ追いつかれたことがなかったのも理由の一つだ。しかし、左折するために速度をおとす間に、先生は猛スピードで俺の後ろにぴったり張り付いたのだ。
先生は、俺の家の前に車を止めると、学校では見せたことのないような笑顔を見せていた。
「磯部ぇ、おう、おう、たいしたもんだな、おまえ。ここが家か?」
やっぱり違う。こんな大声を聞いたことがない。と、その声を聞きつけて母が入り口から顔をのぞかせた。
「お母さんか?」
コクッと小さく頷くと、先生は莫迦丁寧に頭を下げた。
「はじめまして、私、体育を教えている神野といいます。突然に失礼します」
高校生になって先生の家庭訪問などなかったので、父も母も俺が問題でもおこしたのかと不安げだ。
「いえ、突然お邪魔しましたのは、彼がどんな生活をしているのか知りたくてですね」
「……はぁ、そうですか」
要領を得ないながら、父も母もひとまず安心したようだ。そして先生の求めに応じ、俺がしている仕事の説明をした。
俺の仕事は、父が作った部品を洗浄して出荷用の棚に納めることだ。プラスチックの箱に入っている部品を籠に入れ、洗浄液の中でジャブジャブ濯ぐのが第一。洗ったものを乾かして別の箱に入れるのが第二。それを製品棚に納めるのが第三。高校生にできることはその程度だが、一箱の重さが十五キロくらいあることと、納める高さがちょうど目の高さの辺りなので母には辛い作業だ。
実際に作業しながら説明すると、なにを思ったか、先生は自分で箱を棚に載せ始めた。
「なるほど……、おまえ、家で良いトレーニングしているんだな」
妙に納得した先生の腹のあたりが、洗浄液で濡れていた。
「先生、そんな持ち方してたら服がびしょびしょになります。もっと体から離して、肘と腕だけで持つのですよ」
そう教えてやると、先生は素直に持ち直して嬉しそうな声を上げた。
「くるなぁ、おい。これ、かなりハードだぞ。……そうか、毎日こうしてトレーニングしてたんだ。家のためになって、体も鍛えられて、立派なもんだ。磯部ぇ、おまえやっぱり、ボクシングしないか?」
先生は、諦めきれないように呟き、父のほうに向き直ってこう言った。
「今日は挨拶だけのつもりでした。ですが、こうして仕事を教えてもらい、実際にさせてもらって、彼の筋肉が納得できました。どうでしょう、お父さん。私は磯部を一流の選手に育てたい。いや、もちろん素質がなければ無理でしょうが、彼の腕と足があれば決して夢ではないと思います。彼にボクシングをさせていただけないでしょうか」
それから先生は、毎日顔をのぞかせるようになった。ボクシングに誘うのではなく、父は母と世間話に興じて帰ってゆくばかりだった。年が明けると、始業式の前から先生の来訪が復活した。そして新学期が始まって最初の日曜日に、客を一人伴っていた。
「今日は、私の先生をお連れしました。先生のおかげで私も高校生からボクシングに出会いましてね、それからずっと弟子のまま昇格できないのですが、実は、先生から有望な新人をさがせと言いつけられていたのです」
先生は、俺の父より年かさの人を紹介した。堂本という名前だそうだ。実はこの人には始業式の日に引き合わされていた。隙があれば冗談を口にする男で、面白い人という印象が残っている。そのときに、ひょいと俺の顔の前へ手を出したことがあった。たまに父の機械を操作することがある俺は、削り屑を避けるのが癖になっていたので無意識に避けた。それを、堂本は嬉しそうに見た。そして先生と同じように自分の手首を握らせたのだった。
そして、力いっぱい握ってみろと言ったくせに、力をこめて握ると痛そうな声をあげた。そのまま勢いよく突けと言われ、引けと言われた。
堂本さんは満足そうに先生を見、頷きあっていた。
「お父さん、どうかお願いします。堂本先生も気に入ったようです。先生はね、国の仕事として有望な若者を捜しているのです。お願いします、息子さんをあずけていただけませんか」
先生には先生なりの考えがあるのだろうし、立場もあるのだろう。だから本当に真顔で頭を下げた。しかし、我が家にも事情がある。おいそれと父が同意できない深い事情があったのだ。
「息子に何をさそうというのか知りませんが、今こいつを奪われると我が家が立ち行かなくなりますので」
父は、言葉を濁しながら穏やかにそれを断ったのだ。
「事情というのは、労働力という意味でしょうか?」
どうやら経済的なことが原因だと悟った先生はそれで黙ってしまったのだが、代わりに堂本さんが声をひそめて父に強い視線を向けた。
「お恥ずかしいことですが、そうでもしなけりゃ成り立たないですから」
父は、恥ずかしそうに目を伏せた。
その日はそれで二人とも帰ったのだが、どうやら俺が学校に行っている間に堂本さんがしょっちゅう来るようになっていたようだ。
あれから一ヶ月も過ぎた日、学校から帰ると父と堂本さんがお茶を飲んでいた。
「茂、おまえボクシングするか? こう毎日家へ来られたら、根負けだ」
作業衣に着替えて仕事場へ出た俺を父が手招きし、意外なことを言った。
「だけど、仕事があるし」
「それはいい。俺がなんとかするから。堂本さんがなあ、お前をオリンピック選手にしてやるって。金メダルを取らせてやるってよ」
「俺、ボクシングなんか知らないし。それに、オリンピックって三年後だけど」
たった三年でど素人に金メダルを取らせようだなんて、堂本さんはおかしいと思った。
「磯部君、信用できないだろう? いいよ、嘘つかなくても。実はな、もう、次の次のオリンピックに向けた取り組みを始めているんだよ。だが、君は次のオリンピックに出場させる。誰もが認める選手に仕込む。……そのつもりだよ」
やはりこの人はおかしい。自分が言っていることが常識外れだということをわかっていないのだろうか。でも、それを自信満々に言うのだ。
「……やっぱり、できません。家のこともあるから」
考えるまでなかった。ただ、父親より年配の相手にどう断ろうかと迷っただけだ。しかし、上手くそれが見つからなかった。
「茂、やったらいいんだぞ。いや、やってほしい」
「お父さん、それは私から説明したほうがいいでしょう」
堂本さんは、父が言いかけるのを遮って、あらためて俺に向き直った。
「聞いたよ、税金のこと。なぁ、酷いことをするよ、税務署ってのは。だけど、なんだろう? 税金がかかったら地方税もかかるし、健康保険も掛け金が上乗せされる。なぁ、真面目にやってる人から毟り取るようなことを平気でするんだよ、国ってのは。そのくせ出すほうは滅茶苦茶さ。そこでだ」
堂本さんはコーヒーに手を伸ばし、一口飲んだ。
「その分、俺がなんとかするよ。いいや、俺が肩代わりするんじゃないよ、もみ消すってぇ荒業も使わない。書類操作で全部終わらせてやるから心配するな。それと……国民年金を払っていないそうだが、それも解決してやる。そのかわりだ、君に働いてもらいたい」
そんなことができるのだろうか。それってものすごくズルイことだと俺は思った。だけど、税金のことも年金のことも、すべては俺の返事にかかっているわけだ。だから父が隠れて拝むまねをしたのだろう。それに、そんな破格な条件を示すということが怖い。神野先生がいるのだから悪い人ではないと思うが、何をさせられるのか知ってからでなければ承知できなかった。
「磯部君にはボクシングをしてもらう。そして、次のオリンピックで金メダルを取ってもらう。それが究極の目的だ」
「でも、ボクシングなんて本当にやったことがないのです。それで良いのですか?」
「もちろんだ。それに、絶対に負けない秘策があるんだよ。だから信じてほしいのだ。ただな、国家機密がからむから、今ここで教えることはできない」
そうして俺は養成所の強化選手として採用された。
そこには様々な種目の選手が集められている。ボクシングだけみてもすべての階級にそれぞれ一人、水泳も同じだ。しかし、体操などのような人気のある競技の選手はいない。そして、衣服に隠れたところに、必ず傷跡が残っている。トランクスのベルトより少し低いところを一周するのが、俺の傷跡だ。ボクシングの選手は皆、俺と同じ傷があった。
水泳の選手は、尻の割れ目に小さな傷がある。もちろん水着の上からではわからないし、全裸になっても見難い位置にある。それが何を意味するのか、国家機密だけど教えてやろう。
俺は、採用されるとすぐに病院に連れてこられた。
堂本さんが病院というのだから、まちがいなくそうなのだろう。しかし、俺を乗せた車は理化学研究所と看板がかかった建物の玄関で止まった。
急き立てられるように職員通路へ案内されて、エレベーターに載せられた。
「これから君の体を精密に測定する。なに、指示されたようにしていれば、すぐに終わるよ」
堂本の言うとおり、ベッドに横になったら息を吸え、吐ききれとスピーカーで指示される。そのたびにベッドが大きな音をたてて狭いトンネルを前後した。
「じゃあ、こんどは横向きになって。合図したらさっきみたいに息を吸って、吐ききってくれるかな。じゃあ始めるよ。はいっ、吸ってー……」
やはりスピーカーから指示が出た。なんだかテレビで見た身体の中を写す機械のように感じたのだ。堂本さんは測定だと言ったけど、メジャーを当てられることはなかった。
「磯部君、いい身体をしているよ。皮下脂肪が厚くないのが良いよ。骨格の割に臓器が小さめなのも良い。これなら理想的なボディーに仕上げることができるはずだ」
それが堂本さんから言われたことだった。
二年生に進級して、部活動が始まった。
神野先生に指示されたのは、足の瞬発力を強化することだった。他の部員がランニングにでかけても、俺は顔面をガードした姿で、前後に跳ぶことばかりしていた。
夏休みと同時に、俺は合宿に行かされた。合宿先も、そこでどんなことをしたかも、一切話してはいけないと言われ、俺はそれを守っている。というのも、厳禁されていることを漏らした者がいて、そいつが事故死したことを新聞で知ったからだ。
どうしてかというと、通学する俺を見張っている者がいることに気付いたからだ。俺を殺してもなんの得にもならないが、秘密を守るためなら手術代……なんでもない!
そして俺はオリンピック選手となり、こうしてリングに立っている。
これから始まるのは決勝戦の、初回ラウンドだ。
先にコールされた俺は、控えめに手を挙げて自分のコーナーに戻っていた。
「いいか、弱虫のふりをしろ。お前はチキンだ、いいなっ」
コーチが耳元で呟くのにおれは応える。
「もっと怖がれ、怯えた目をしろ。そうすりゃ十五秒で金メダルだ」
まだ俺の芝居は下手なようだ。もっと怖がれ、弱虫になれ。それは耳にタコができるほど聞かされている。しかしいざ試合が始まると、どの試合も三十秒かからずに終わってしまった。そんなことがつづけば、怖いと思わなくなる。それが表情に出るのだろう。
「磯部、何度も言うけど、もっと怯えているようにみせかけろ。ここまできたら頭の勝負なんだ、ボクシングなんて。いいか、踵を上げるな、動くなよ」
リングの中央に呼ばれる俺の背に、コーチの指示がとんだ。
すでに待ち構えている相手は、目をギラギラさせて俺を睨みつけている。それに対し、俺は躊躇うように中央へ進んだ。もちろん伏し目にしてだ。試合はすでに始まっている。
審判の手がさっと上がった。
拳を揺らしながら相手が威嚇してくる。それを怖がっているように、俺は両腕を上げて頭を守った。
パン
相手がジャブを繰り出してきた。それに驚いたように、俺は踵を下ろして棒立ちになった。
上手く芝居ができたとみえ、相手がニヤッとした。
バンッ
左ボディーに衝撃がある。だがそれはフェイントだろう。次に本命の右ボディーがくるはずだ。
ボディーを撃たれても、俺はまだ頭を守って怖がっているふりをしていた。
左ボディーを撃った拳が帰ろうとするのにあわせ、相手の左手がかすかに引かれた。これこそ本命パンチだ。
その一瞬を狙って俺は跳ねた。同時に鉄工所で鍛えた腕力を真っ直ぐ前に突き出して。
俺は顎なんか狙わない。あんな硬くて小さなものよりも、正面にある胸のほうが狙いやすいからだ。
俺の拳が胸板を叩くと同時に、重いパンチがボディーに炸裂した。
いたいなぁ
相手のパンチは、申し分なくヒットした。だって、ボディーの防御をまったくしていないから誰でも当てられるはずだ。見た目には一発で膝をついてもおかしくないようなパンチだ。けど、防具のおかげでダメージがない。そりゃあ叩かれたのだから痛いには違いないが、実際のところ平手で叩かれたくらいのダメージしかないのだ。
それこそ、高密度炭素繊維で成型した防具、似非肋骨のおかげだ。
軽くて薄くて衝撃を防ぐ。そのくせ翼のように折畳みできる。ベルトラインの下に隠された傷は、それを挿し入れた痕なのだ。
だから先生は、それを有効に活かすためにボディー防御を禁じたくらいだ。
怖がっていると思わせるために棒立ちになったのも、ボディー攻撃をさせるため。そうすれば相手のガードが甘くなる。『心臓を狙え』が、合言葉なのだ。
それを知らない対戦相手は、仰向けに倒れていた。
審判がカウントする間にも、だらしなく開いた口から血の泡が出てきた。
運よく心臓を叩かれなかったことを幸運に思わねばならないのに、相手は立ち上がって継続意志を示そうとする。しかしそれも一瞬のこと、胸を押さえて崩れてしまった。
こうして俺は、呆気なく金メダルを取ってしまった。
帰国後、ほとぼりが冷めた頃を見計らって、祝賀旅行があるという。そうして所在をくらませておいて、皮下に埋め込まれたプロテクターを取り出すのだそうだ。
損傷程度を確かめて、更に強度のある防具を開発するために。
使い道は……国家機密だそうだ。
人は俺の事をメダリストと称え、
一方で、アーマーチュア・ボクサーと呼ぶ。




