地下鉄の龍
地下鉄は鳴る。
耳鳴りのような音で鳴っている。ごお、ごお、と。トンネルに反響した線路と車輪のオーケストラが耳に小指を突っ込んでも聞こえてくる。街によって地下鉄の作りもトンネルの幅なども異なるからどの街の地下鉄も独特な音色を奏でてくれる。
ふと、本当にふと、一人で地下鉄に乗っているのが苦しくなった。ロック・コンサートへ行けば観客の叫び声が聞こえる。空中に飛び上がって腕を振りまくる僕と同じ年ぐらいの女の子がたてる微かな風の音が聞こえる。例えピアニストがたった一人きりで舞台に現れるコンサートでもしみじみと耳を紡がれる音符の流れに傾けるおじいさんの息が聞こえる。
音楽は生きている。デジタル化された楽譜はどのパソコンで呼び出しても同じかもしれないけれど、観客がとても繊細な呼吸を音楽に与えてくれる。
夜、一人で乗る地下鉄の音は死んでいた。僕一人の鼓動が電車のリズムかるな揺れに合わず、ビニールの意味不明な模様がプリントされた座席と宣伝で埋め尽くされた小さなガラス窓に吸い込まれていく。
タバコの箱をコートの内ポケットから取り出した。いつもは当たり前のことなので見逃していた赤と白の禁煙サインが目に入る。ふっ、と軽く微笑み、僕は唇でタバコを一本取り出し、向こう側には誰もいない監視カメラを見上げてタバコの先っぽをライタから飛び出した炎の上に掲げた。
白い煙が空気で作られた迷路の出口を探すように広がっていく。車両は揺れているのに、タバコの煙は蠢かず、植物のように肉眼では見えないスピードでとてもゆっくりと、そして殆ど計画性があるみたいに僕の周りの空間を侵略していく。
「登場人物が一人だけの物語って面白いか?」
瞬きするとウロコが赤い龍が僕の目の前にいた。マムシほどの大きさの龍は細長い身体をくねらせた。ウロコとウロコの間から白い水蒸気のようなガスが舞い上がる。タバコを唇に当て、龍を見つめながら吸い込んだ。すると真っ赤なウロコの輝きが増した。
「寂しくないよ」僕は龍に向かって言った。「地下鉄に乗っている間、偶然一人になっただけだよ」
「ヒャク、ヒャク」しゃっくりのような笑い声を龍は上げた。「そうかい、寂しくないか」
「うるさいなぁ」僕は龍を払いのけようとしたが、手が龍の身体を突き抜けてしまう。
「ところでおまえ、ここで何しているんだ?」
「地下鉄に乗っているだけだよ」
「どこへ向かっているんだ?」
「さあ」
龍は首をかしげ、空中で一回点してから真っ直ぐ僕を見つめた。
「じゃあおまえの名前は?」
「しらない」
「そうか」龍は納得したように頭を上下に動かした。
「それよりさ」僕は龍に言った。「二人じゃつまらないからもう一人登場人物を増やそう」
手をパンと叩いた。薄い音が車両に響いた。
走り続ける車両の扉がすう、と開いた。一瞬ぼかしがかかっていないトンネルの唸り声が聞こえた。短い髪を深い緑色に染めた女の子が乗り込んできた。よく見ると髪を染めたのは数ヶ月前らしく、茶髪が付け根に覗いていた。
「やあ」セピアフィルターを通したような少女に僕は声をかけた。
髪の色と同じぐらい深い緑色の瞳を僕に返し、彼女は微笑んだ。「やあ」
まるで尻と座席が接着剤でくっついたみたいに僕は静かに、しかし機械的にギクシャクしながら立ち上がる。彼女の肩を掴んだ。力を込めないように努力したはずなのに、手の甲に指の骨がくっきりと浮かび上がる。
「どうして俺とは寝ないんだ?」
「寝てるじゃない!」僕の手を振りほどき眉間に皺を寄せた彼女は叫ぶ。
「レズのガールフレンドとは毎週寝ているくせに、どうして俺じゃダメなんだ?」
「ダメなわけじゃないわ」
「別れろ、あいつと」
「良いって言ったのはそっちじゃない」
「いやいや言ったんだ。もううんざりだ」
冷たい空間を残して緑色の髪の少女は消え失せた。僕は尻もちをついて車両の床に座り込んだ。
「ヒャク、ヒャク」龍が笑った。




