8
ルーザ=ルーザは両手にある短剣の重みをたしかめた。
敵を前にして、全身が心地よく緊張しているのが自分でもわかった。自分がまるで引き絞られた弓になった気がする。
はやく放たれて、敵の急所に突きたってやりたい。
ふしぎなことに、今日はいちだんと高揚している気がした。
(うかれてるのか――なぜだ)
ルーザ=ルーザは自分を戒め、火と戦の神に祈る。今からはじまる戦闘が、神の御前に捧げるにふさわしいものであるよう。聖なる祭壇に燃えさかる炎が、身のうちに宿るように。
「おお。姫君がお出迎えか」
角をまがってきた追っ手の男たちが、ルーザ=ルーザを見つけて、立ちどまった。
「これはまた。殿からうかがっていた以上の可愛らしさだな」
「女はどこだ? ひとりでここを守る気か? いじらしいな」
「楽しませてくれそうじゃないか」
男たちが口々に言って笑うのを、ルーザ=ルーザは無言で見つめていた。
彼らはこの狭い路地で、長剣をかまえている。
多勢に無勢だが、不利とは思わなかった。ルーザ=ルーザは短剣をかまえると、一歩、すすみでた。
「……ん?」
男が四人、前後に並んでいる。
「――四人?」
オレクタンテはただただ必死に、疾走する馬にしがみついていた。落ちないように祈るだけで精一杯で、走っているあいだ、ほかのことはなにも考えられなかった。
「――オレクタンテ様!」
自分の名を呼ぶ声にようやく我に返り、馬がとまっていることに気づいた。
顔をあげると、夏至館の前だった。執事がオレクタンテに手をさしのべている。
「しっかりなさってください! どうされたのですか!? ルーザ=ルーザ殿は?」
護衛たちも、武器と松明を手にかけよってきた。オレクタンテはふるえる手をさしだす。馬から抱き下ろされると、そのまますがりついて懇願した。
「ルーザ=ルーザが、私を守ってあとに残ったの! はやく助けに行ってあげて!」
「ルーザ=ルーザが!?」
「場所はどこか、わかりますか?」
「長く狭い一本道の路地よ。クーをつれていって。この子ならわかっているし、きっとルーザ=ルーザを助けてくれるわ」
オレクタンテはクーの首を叩いた。
「私をここまで運んでくれてありがとう、クー。ここはもういいから、ルーザ=ルーザのところへ行くのよ」
クーは返事をするように低くいななくと、騎乗した護衛の男とともに、来た道を戻っていった。
日はすでに暮れ、あたりは暗い。護衛と馬は、すぐに闇にまぎれて見えなくなった。それでも暗闇に目をこらして見送るオレクタンテに、執事とサウラが声をかける。
「さあ、オレクタンテ様はなかにお入りください」
それが力になるとでもいうように、執事は灯りをオレクタンテに手わたした。
「そうです。ずいぶんと怖い思いをなさった様子ですわ。なにか飲み物でも」
「ええ――いえ、私の母はどうしているのかしら? 無事なの?」
護衛を見あげてうったえると、少し頬を赤らめて答えた。
「離れのほうも外からつねに見はっていますから大丈夫です。ですが念のため、見てきましょう」
夏至館のなかをとおりぬけるのではなく、外の道をまわりこんで離れのほうへむかった。
「さ、オレクタンテ様」
サウラにうながされ、ようやくオレクタンテは建物のなかに入った。
「なにか冷たいものをお持ちしましょう」
「ええ、お願い。……嫌な汗をかいてしまったわ。顔を洗って、着替えようかしら」
「それがよろしいですわ」
オレクタンテは化粧や着替えに人の手を借りない。寝室にひとりで入り、顔を洗って着替えた。
(ルーザ=ルーザ……お願い、無事でいて)
どうにも落ちつかず、外の空気を吸おうと、露台にでた。
とたん、はっと息をのむ。
母の家の灯りが、すべて消えていた。
そういえば、母の無事をたしかめに行った護衛も、まだ戻ってこない。確認するだけでいいのに、遅すぎる。
「お母さん!」
オレクタンテは部屋に駆けもどって燭台を手にすると、いそいで母の家へとわたった。そして露台の端にある階段をおりて、庭にでる。
小さな庭の片隅に転がっている黒いものを見て、身をこわばらせた。
大きな袋のようだが、人だ。男が倒れている。先刻母の家にむかった護衛だ。
オレクタンテは我を忘れて、危険もかえりみず母の家に飛びこんだ。
「おかあ――」
次の瞬間、オレクタンテは扉の陰から伸ばされた腕にとらえられていた。
燭台が床に落ちる。
「ははは! 女、つかまえたぞ!」
床に落ちた蝋燭の灯りで、男が見えた。男がかぶっている覆面には見覚えがある。先刻、オレクタンテとルーザ=ルーザを追ってきた騎士だ。それが今ここにいることの意味を悟って、オレクタンテは蒼白になった。
(ルーザ=ルーザ……!)
男はオレクタンテを乱暴に引きずった。ふりまわされて、視界のなかでかまどや扉、窓がぐるぐるとまわる。
「雌犬らしく、首に縄をかけて四つん這いにしてつれてこいとの仰せだ。服もはいで、奴隷小屋につないでやるとな!」
騎士らしからぬ、下卑な笑い声をあげた。
オレクタンテは、声がふるえたりしないよう、ぐっと深く息を飲みこんだ。
それから手をあげて、男の腕にそっと触れる。
「奴隷ですって? 安く見られたものだわ。私は、王や有力貴族をたぶらかすために磨かれた女なのよ」
男が動きをとめ、今はじめて気づいたようにオレクタンテの顔を見おろした。
そのまま、瞬きすらできず、口もぽかんと開けて、かたまってしまう。
その馬鹿面に、オレクタンテは甘くほほえんだ。そして指先で男の腕をなぞりながら、ゆったりと囁く。
「エルドニア子爵様があなたにいくら払うのか知らないけれど、私はその気になれば有力者を操って、王国の予算だって動かせるのよ。それなのに、子爵様に命じられたからって私を奴隷に与えるの? ずいぶん忠実なのね。欲はないの?」
語尾にあわせて、指先でくるりと小さく円を描く。
風が入りこみ、床に落ちた蝋燭の火が、消えそうに頼りなくゆれた。
「え……いや。その」
「ねえ。欲はないの?」
突然、男がかっと目を見ひらいた。両手からずるりと力が抜けて、オレクタンテの体を解放する。
そうして男は、そのままゆっくりと倒れ伏した。
男の背後に立っていたのは、ルーザ=ルーザだった。剣をふりおろしたままの姿で、オレクタンテを見つめている。
「ルーザ=ルーザ!!」
今しがた、窓の外にルーザ=ルーザの姿を見たときはゆさぶられていたので気づかなかったが、ルーザ=ルーザは血まみれだった。顔にも髪にも、赤黒い血が飛びちっている。
「大丈夫なの!? 怪我は!?」
ルーザ=ルーザは怖いほど真剣な顔をしていたのだが、オレクタンテを見てほっと表情をゆるめると、苦笑した。
「いや、だからさ。俺の心配より自分のことを心配しろって」
足先でひょいと騎士を転がし、死んだのを確認した。それから同じく足先で、まだ灯りの残っていた燭台を器用にもとに戻す。それらの仕草を見るかぎり、怪我をしたりどこか痛い箇所があるようには見えなかった。
「あんたがこいつの気をそらせてくれたおかげで、すごく助かったよ。追っ手五人のうち、ひとりだけ路地に誘いこまれてなかったんだ。すまなかった。怪我はないか?」
「ええ……大丈夫よ」
オレクタンテは死んだ男を見て、今になって怖くなってきた。自分をあざ笑っていた男が、もう二度と動かないということを、実感を持って受けとめられなかった。
どやどやと、家の外が騒がしくなる。次いで護衛や、見たことはないが緋色のマントをまとった王国軍の男がルーザ=ルーザのうしろから家に入ってきた。
「おい、ルーザ=ルーザ。お前とクー、はやすぎるぞ」
「あんたらが遅いんだ。もう終わったよ」
ルーザ=ルーザが剣を鞘におさめた。
ロライマ将軍の配下の男たちだ。護衛のひとりが手早く家のほかの場所を見てまわり、母の寝室につづく扉を開ける。
寝台の上に、猿ぐつわを咬まされ縛られた母が転がっていた。
「お母さん!!」
護衛はすぐに、母の縛めを解いてくれた。母は息を吸いこむ間も惜しんで、オレクタンテを呼ぶ。
「……オレクタンテ! ああ、お前、無事だったのね!」
母娘は互いに手をのばし、抱きあって無事を喜んだ。
赤毛の小間使いが、部屋をひょいとのぞきこんだ。
「オレクタンテ様、ご無事でよろしゅうございました!」
「あなた……」
小間使いは、そばにいた軍人を見あげた。
「ねえ、ターラー。オレクタンテ様の無事を、あたしがもうひとっ走りしてロライマ将軍に知らせてこようか?」
「いや、城門も閉じたし、将軍には俺らから伝えておくよ。お前は外で倒れてる奴の手当てをしてやってくれないか」
「うん!――オレクタンテ様、私、夏至館へ行ってまいりますが、なにかございましたらいつでもお呼びくださいませ」
小間使いの少女は元気よく去っていった。
入れかわるように、ルーザ=ルーザが顔をだす。
「俺は今からこっちの部屋を片づけて、そのあとちょっとでかけてくるよ。かわりの護衛は残しておくし、できるだけはやく帰るから、ふたりとも安心して寝ろ」
「え? でも、ルーザ=ルーザ――」
このままそばにいてくれると思ったのに。ルーザ=ルーザがいなくなると思うと、心ぼそかった。それにまだ、助けてもらったお礼を言っていない。
だがまわりに人が大勢いるせいか、声をかけるのがためらわれた。その間に、ルーザ=ルーザは扉を閉めてでていってしまう。
しばらくのあいだ、表の部屋で数人の話し声がしていた。それからルーザ=ルーザが部屋を片づけているのだろう、しばらくものを動かす物音がつづく。やがて扉が閉まる音がして、それきり音はとだえた。
それでもまだ落ち着かなくて、オレクタンテは母と身をよせあう。
どれほどそうしていただろうか。そのうち母がゆっくりと手をあげて、オレクタンテの腕を軽く叩いた。
「……さ。そろそろ私たちも起きましょうか。いつまでもこうしてはいられないわ」
「お母さん。私――」
「ええ、いろいろあったわね。でもお前が無事だったから、私にはなにも言うことはないのよ」
そんな言い方でオレクタンテが謝ろうとするのを封じた。オレクタンテは力なくほほえみ、母の手を軽くにぎる。
母もオレクタンテを見て、ほほえんだ。
「それにしても喉がからからだわ。果実水でも飲もうかしらね。お前もどう?」
「そうね、お母さん」
オレクタンテと母は立ちあがり、お互いに支えあうようにして表の部屋へむかう。
だが表の部屋に戻ったとたん、ふたりはそろって足をとめ、声をあげた。
「え……え?」
「あらまあ」
ルーザ=ルーザは、たしかに死体を運びだして、部屋を片づけてくれていた。
しかしおざなりに雑巾で拭いたのだろう、床や壁には赤黒い血の染みが筋になって残っている。床に倒した燭台の蝋もたれたままだし、椅子などの位置も乱れたままだ。
「あ……あの子ったら! なにがかたづけておく、よ!」
怒声をあげたオレクタンテを、母が気づかうように見やった。
「ま、まあ、男の子なんだから、こんなものかしらね」
「きれい好きの男の子だっているわ! ルーザ=ルーザが大ざっぱなのよ!」
オレクタンテは足音を立て、外の水場に行った。案の定、床を拭いた雑巾は申しわけ程度に洗われ、しわだらけのままに干されている。オレクタンテはそれをすばやく水洗いしなおした。水に赤黒い血がにじんだが、あえて無視する。そして桶にきれいな水をくみ直して家に戻った。
「私もやるわ、オレクタンテ」
「いいえ、お母さんにこんなことさせられないわ!」
オレクタンテは床に膝をつき、よごれが残ったところを力をこめて拭きだした。
(まったく、もう! 雑巾でよごれた箇所をとおりいっぺんになぞるのが掃除じゃないのよ! よごれをきれいに取るまでが掃除なの!!)
心のなかで、ルーザ=ルーザへの怒りを叫びつづける。
そうでもしなければ、死んだ人間の血を拭くなど、できそうになかった。
エルドニア子爵の命令で、オレクタンテを辱めようとしていた男。目の前の欲に迷っていた男。俗悪のきわみだった男。だがルーザ=ルーザの剣で、あっという間に殺された。なんとあっけなかったことか。
生きることはつらい。つらくてしかたがなくて、立ちあがれないときもある。だが、死ぬのはやっぱり嫌だった。なぜだかわからないけれど、死にたくない。
涙がにじんできた。目から涙があふれないよう、心のなかでルーザ=ルーザを罵倒しながら、床を拭く。
(――掃除もちゃんとできないくせに、私の手を子供にするみたいににぎりしめて、なでるなんて!)
母は椅子にすわって、そんなオレクタンテを見守っていたが、ふいに顔をあげた。
「……そうだわ。夕食の支度の途中だったのよ。ルーザ=ルーザはもう夕食は食べたのかしら?」
オレクタンテも、はじめてそのことに気づいて、顔をあげた。
「……そういえば、まだだわ。お食事を辞退して帰ってくるところだったんですもの」
「ってことは、あの子、お腹をすかせて帰ってくるの?」
「そうなるわね」
オレクタンテと母は、顔を見あわせた。
母が突然、立ちあがった。
「まあ、たいへん!! いそいで支度しなきゃ! ――ああ、でも今日ばっかりはお肉は料理できないわ! あの子には我慢してもらわないと」
「お母さん、私も手伝うわ」
「いいえ、私ひとりでいいわよ。……まあ、なんてことかしらね」
台所で仕事をはじめた母の背を、オレクタンテはしばらく手をとめ、見つめていた。
こうして掃除をし、食事の支度をするという、そんなあまりにもささやかな行為が、たとえようもなく尊く感じられた。
安全を脅かされたが、とりあえず穏やかな日常は守られた。自分は殺されも、辱められもしていない。家はよごれたがきれいに掃除されるし、あたたかな食事で腹が満たされるのだ。
(助かったのだわ)
そのことを、やっと実感した。
「オレクタンテ?」
たまたまふりかえった母が、オレクタンテを見て驚いて声をあげた。オレクタンテが静かに泣いていたからだ。
「お前、どうしたの?」
「なんでもないわ、お母さん。今日は私のせいで迷惑をかけて、ごめんなさい」
「そんなこと言うのはおやめ! 私はお前が悪いだなんて欠片も思ってませんよ!」
「ええ。ありがとう。……ルーザ=ルーザにもお礼を言わなきゃ。助けてくれたんですもの」
オレクタンテは涙をぬぐい、笑った。
「でも、お掃除は本当に下手よね、あの子」
母も前掛けの縁で、目頭をおさえた。
「男の子なんて、こんなものですよ」
ルーザ=ルーザは夜中近くになって、やっと帰ってきた。約束どおり、できるだけはやく帰ってきたらしく、外ではなにも食べなかったらしい。オレクタンテと母が用意していた料理を、泣きださんばかりにありがたがって食べた。
その際、まだ血でよごれていたマントや手袋を部屋のすみに投げだしたが、オレクタンテもこのときばかりは黙認した。
翌朝、エルドニア子爵の王都での邸に、五人分もの死体が放りこまれた。
けれどエルドニア子爵は訴えでず、逆に自分の邸に引きこもってしまった。
宮廷はこの血なまぐさい噂で持ちきりになったが、当の子爵が沈黙を守ったこともあり、人々の関心はすぐに次の噂に移ってしまった。