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夏至の庭  作者: 西東行
第1章 白花
3/16

3

 夏至館は、花の咲きみだれる瀟洒な中庭をかこむように、広間や饗宴の間、談話室などが配置されている。

 客人はつねに多い。夏至館は情報交換の場にもなっていたからだ。高級娼婦仲間だけではなく、貴族や商人、神官、芸術家なども訪れる。いつ誰が訪れているか、オレクタンテも把握だけはしているが、応対しきれないこともしばしばだった。

 ルーザ=ルーザを案内していたそのときにも、中庭に面した談話室に、オレクタンテの友人たちが七、八人ほどたむろしていた。

「オレクタンテ! その子が噂の彼かい?」

「まあ。ぜひとも、ひと目会いたいと思っていたのよ。紹介してちょうだい」

 オレクタンテとルーザ=ルーザが部屋の前をとおるのを待っていたように、声がかかった。オレクタンテがちらとルーザ=ルーザを見ると、彼は唇をぎゅっと引き結んでいた。

 会いたくなさそうだが、ここで友人たちを無視するわけにもいかない。

「みんな私のお友達よ。あなたは黙って私にまかせてくれたらいいわ」

 囁いてから、微笑みを友人たちにむけた。

「――紹介するまでもないでしょう? ルーザ=ルーザよ」

 そう言って、ルーザ=ルーザの腕にしなだれかかって見せた。ルーザ=ルーザはぴくりとしてオレクタンテを見おろしたが、騒いだりはしなかった。

「なんてこと、信じられないくらいきれいな子ね」

「会えて嬉しいわ、ルーザ=ルーザ」

 友人たちは立ちあがり、ルーザ=ルーザをかこんで口々に挨拶をした。だがそれらに対しては、すべてオレクタンテが明るく受け答えた。ルーザ=ルーザは言われたとおり黙ったままで、わずかに目礼を返すだけだ。それでも会話はごく自然に流れて、違和感はなかった。友人たちも、無粋にからむようなことはしない。

 淡い金髪の青年が、肩をすくめてオレクタンテに笑いかけた。

「名家からの、近衛に召すというお誘いをすべてことわったと聞いたときは、なんと豪儀なことだと思ったものだけどね。きみの恋人におさまったと聞けば納得だよ」

「お上手ね、シノニム。でもこの人はただ、華やかな場が苦手なだけよ」

「きみの横に立つこと以上に、華やかな場があるかい?」

 皆がさざめくように笑った。ルーザ=ルーザだけが居心地悪そうに身じろぐ。

「それにしても、噂なんてあてにならないものね。あれほど噂になっていたけど、彼の美しさを半分も伝えていなかったじゃない」

 少し目尻の下がった、甘やかな雰囲気の女が言った。

「やはりどんな噂でも、渦中にいないとだめね」

 ほかの男女もうなずいた。

「ペリの言うとおりだな。こういうことは自分の目と耳でたしかめないと」

「ね、オレクタンテ。彼はこれから夏至館で暮らすの?」

「そうね。でもこの人も軍の勤めがあるから、ずっと夏至館にいるわけじゃないわ」

 ルーザ=ルーザは正規の兵士だ。兵士が自分の恋人の家にころがりこむのは黙認されていたが、義務は果たさなければならない。

 以前に雇った傭兵は解雇して、すでにロライマ将軍の配下の男たちと入れかえていた。ルーザ=ルーザが不在のときでも、彼らが守ってくれるという手はずだ。

「いつでも会えるわけじゃないのね。残念だこと」

「でも次の満月の夜会には、ルーザ=ルーザも出席するんでしょう?」

「それもわからないのよ。ごめんなさいね」

「おやおや。出し惜しみしているのかい?」

「そうね。あなたたちにルーザ=ルーザを誘惑されたら、困るもの」

 またべつの女が、くすくすと笑った。

「誘惑できるものならしたいけれど、あなたと並んだ姿を見てしまっては気後れしてしまうわ、オレクタンテ」

「まあ、気後れだなんて」

 だが一方から、女に同調する声があがった。

「いや、私もわかるよ。きみとルーザ=ルーザが並ぶと、お似合いをとおりこして迫力だ。ちょっと近寄りがたいくらいだね」

「本当よ。これは勇気を試されるわ」

「やっぱり試すつもりじゃないの」

 皆が笑いあうあいだにも、ルーザ=ルーザの眉間のしわはどんどん深くなっていく。オレクタンテはあわてて話を切りあげた。

「さ、もう行かなくちゃ。彼のために特別に用意した部屋を、まだ見てもらってないんですもの。お相手できなくて申し訳ないけれど、どうぞゆっくりしていってね」

「おかまいなく」

「また会いましょうね、ルーザ=ルーザ」

 別れの挨拶にまぎれて、シノニムがオレクタンテの耳元に顔をよせた。

「ヴァラの葬儀は明後日になったよ」

「……わかったわ。ありがとう」

 小さな声だったので、誰も気づかなかったようだ。

 廻廊をまわりこみ、談話室をはなれたところで、ルーザ=ルーザは盛大なため息をついた。オレクタンテは苦笑する。

「苦手なことをさせて悪かったわね。でもこんなことはあまりないでしょうし、あっても私が受け答えをするから、あなたはなにもしなくていいわ」

「そりゃ、ありがたいな」

 ルーザ=ルーザはため息というよりも、大きく深呼吸した。

「あいつら、本当にあんたの友達なのか? 見ててもよくわからなかったんだけど」

「大切なお友達よ。好きかどうかというと微妙な人もいるけど、信頼はしてるわ。私のお仕事は、信頼が大事なんですもの」

 ルーザ=ルーザは談話室のほうを見たが、友人たちの姿は、庭園の白い花々にさえぎられてよく見えなかったようだ。

「――あいつらも、宮廷政治の一部ってやつなのか?」

 オレクタンテはわずかに驚いてルーザ=ルーザを見た。先刻のオレクタンテの話を、ルーザ=ルーザはまだ心にとどめていたようだ。

「そうね。皆が貴族とは限らないけれど、貴族社会を支えているわ」

 ルーザ=ルーザはしばらく談話室を見すかしていたが、やがて首を横にふった。

「貴族ってなんだろうな。俺にはよくわからない。もともと神々は、人間を身分や血筋でわけるようなことはしてなかったのに」

「人間が平等だったのは神々のいらした大昔の話よ。でも今は、神々はどこかへ去ってしまったわ」

 かつてこの世界は、神々によって支配されていた。彼らは創世の混沌のなかで、まず明澄で高貴な自分たちを神々と定め、それから万物に名前をつけていった。

 人間は、ただ『人間』とだけ名づけられた。男や女、大人、子供、老人といった区別はあったが、それだけだった。

 王や貴族、平民という言葉をつくったのは、人間自身である。神々が消えたあとのことだ。神々は人間を魔妖から守り、世界を平和に統治していたが、あるとき突然、この世界からいずこかへと去った。千年も昔のことだ。

 なぜ神々が突然いなくなったか、人間にはまったく知らされていない。しかし当然ながら、当時の人間の社会は大きく乱れた。

 だがひとりの英雄が、立ちあがり、混乱した大陸を統一した。そうして、神々から支配権をゆずられた証しの権標をかかげ、最初の人間の統治者――『王』となった。

 今ある貴族は、英雄とともに大陸を平定した人々の子孫である。彼らは神々に統治権をゆずられたわけではないが、王との契約により領地を与えられた。

「大勢の人間がともに暮らす社会には、皆をまとめて統制する指導者が必要だわ。王は神々にかわって民を統治し、貴族はそれを支えているのよ。そうした秩序は、諸神殿も尊重して認めていることでしょう?」

「それは俺だってわかってるけどさ」

 もどかしそうに髪をかきあげた。

「だけど神々は、いつか帰ってくるかもしれないだろ。王も貴族も、それまで神々の代理をしているだけのはずなのに。なのになんていうか……さっきも思ったけど、いばりすぎてる」

「貴族の領主を持たない神殿領で生まれ育つと、そう思えるのかしらね」

 戦の神を祀る火神殿では、神官は戦士でもある。強大な戦闘力を持っているため、諸神殿のなかでも力が強く、大国の国王でさえ火神殿には容易に干渉できなかった。貴族の横暴など、見る機会はなかっただろう。

 だが多くの都市や村では、身分制度が定着している。『王』や『貴族』といった身分制度は、人間が作った言葉なのに、今では自身がその言葉に縛られているのだ。

「王族も貴族も、神々の帰還なんて想像もしてしないわ。少なくとも自分が生きているあいだにそんなことは起こらないって思っているのよ。あなたはどうなのかしら、ルーザ=ルーザ?」

 ルーザ=ルーザはこの問いに戸惑ったのか、わずかに口ごもった。

「俺は……そりゃ、神々が帰ってきたら会ってみたいし、嬉しいと思うよ」

「そうね。私は帰ってきたら、面白いことになると思っているわ」

 そのときの貴族たちの顔を、ぜひ見たいものだ。

 ルーザ=ルーザは黙って中庭に目を戻した。木々の合間から、かすかに談話室の笑い声が聞こえてくる。

「さ、行きましょう。まだ母屋を案内していないわ。この館で働く人たちにも会ってもらわないとね」

 ふたりは廻廊から母屋に入った。一階は、天窓の光がさしこむ広いホールを中心に部屋が並んでいる。客間や浴場、台所などもあった。また玄関脇には、護衛たちの部屋がある。二階は夏至館の使用人の部屋や、物置だ。しかし床のあちこちに段差があり、階段の下をもぐりこんだところに扉があったり、廊下が斜めに曲がっていたりと、見た目はかなり複雑だった。

 ひととおりまわったあと、オレクタンテは両開きの扉の前に立った。

「この先が私の居間と寝室」

 とたんにルーザ=ルーザが体をちょっと引く。オレクタンテは苦笑した。ルーザ=ルーザはむっとして、頬を赤らめる。

「引きずりこんであなたを食べたりしないわ」

「わかってるよ!」

「私の部屋から、お母さんの家へ行けるようになってるの」

 オレクタンテはルーザ=ルーザを部屋に入れた。

 廻廊に面した明るい部屋だったが、広間や談話室とはくらべものにならないくらい、飾り気のない部屋だった。華やかな壁画などはなく、床の陶片模様も白とごく淡い灰色の二色だけだ。調度などにも大げさな装飾はない。ルーザ=ルーザは意外そうに部屋を見わたした。

 オレクタンテは中庭に面した廻廊にはむかわず、部屋のすみにおりた帳をあげた。その影に隠れるように、片開きの扉がある。

「ここから露台テラスにでられるの。お母さんの家の二階につながっているのよ」

 露台といっても、ふたりが並んで歩けないくらい狭いものだ。ルーザ=ルーザは露台から母の庭を見おろした。

「ここ、下から見たときはただの壁だと思ってたよ」

「実際、ただの壁だったかもしれないわ。狭いから夜は落ちないよう気をつけてね。さあ、母の家の二階に、あなたの部屋を用意したの。ここよ」

 オレクタンテは戸を開けた。

 戸のむこうは、質素な部屋だった。漆喰の壁には装飾はなく、床も素焼きの陶板をしきつめただけだ。おいてある家具も、寝台と小さな書きもの机に椅子、長持だけしかない。

 だがルーザ=ルーザは気に入ったようだ。嬉しそうな表情を浮かべた。

「いい部屋だな! 本当にここを使わせてくれるのか?」

「もちろんよ。気に入っていただけたかしら?」

 ルーザ=ルーザは大きくうなずいた。

「なんだかすごく感じのいい部屋じゃないか。明るいし、風通しもよさそうだし。俺、自分ひとりの部屋ってはじめてだ。今まで兄貴と一緒か、兵舎暮らしばかりだったからさ。正直、すごい嬉しいよ。悪いけど、夏至館のあんたの部屋よりよっぽどいい」

 オレクタンテは眉をあげた。

 この部屋が、実はオレクタンテの部屋だと知れば、ルーザ=ルーザはどんな顔をするだろう。荷物はすべて片付け、寝具も取りかえたが、道具や家具などはそのままなのだ。

 もっとも、オレクタンテがこの部屋で過ごす時間は長くはない。昼間は夏至館で客人の応対か、荘園の管理をしているし、夜は宴に招かれる機会も多かったからだ。それでもわずかにでも時間が空けば、母の家で母と一緒に料理や縫い物をしてすごしていた。

「あ、寝床もやわらかい」

 寝台の感触をたしかめていたルーザ=ルーザが、今にもそのまま寝ころびそうなのを見てとって、オレクタンテはつい声をあげた。

「泥だらけの靴のまま寝台に寝ちゃだめよ!」

 ルーザ=ルーザは驚いた表情を見せたが、素直に身を起こした。

「わかってるよ」

 どうも信用ならない。

(言ってやろうかしら。私の部屋だし私が寝ていた寝台だから、よごさないでって)

 しかしオレクタンテはすぐに思いなおし、我慢した。せっかく、少年が自分ひとりの部屋を持てて喜んでいるのだ。水をさすことはない。ここは大人として、寛容にならねば。

「……二階はこの部屋だけなの。部屋をでてすぐわきに、下に降りる階段があるわ」

 ルーザ=ルーザは扉を開け、階段の位置をたしかめた。

「この下が一階か? ラーレは一階にいるんだろ? あんまり物音が聞こえないな」

「階段をおりたところにも扉があるのよ。お母さんは足が悪いから、その階段は使わないわ。急だし、長いから。外にも階段があるけど、そちらも使わないわね」

「外の階段? そんなのあったか?」

「わかりにくいところにあるの。こっちよ」

 オレクタンテはルーザ=ルーザをもういちど露台につれだした。建物の端の、ただの壁のへこみかと見えるところにさらに狭く急な階段があり、ほとんど螺旋階段のようになんどもおれまがって、庭におりるようになっていた。

「街だけじゃなくて、家まで迷路みたいなんだな」

 庭におりたってから、ルーザ=ルーザは二階を見あげてつぶやいた。

「この庭は、もう知ってるわね?」

「うん」

「水場はこっち。外から帰ってきたとき、手や顔はここで洗ってね」

「ん」

 ルーザ=ルーザは聞き流そうとした。庭にただよっている食べ物の匂いに気を取られているのだ。オレクタンテはカチンときた。

「…………洗ってちょうだい」

 やや声を調子を変えて言うと、ルーザ=ルーザは眉をひそめてふりかえった。

「なんだよ」

「なんだよ、じゃないわ。さっきから気になっていたのよ。長靴も手も顔も、泥でよごれているわ。マントだって埃まみれだし」

「当たり前だろ、騎兵なんだから。今日だってここに来る前に馬の世話も調練もしたんだぞ」

「お仕事熱心でご苦労様ね。いいことよ。でも外から帰ってきたら、家に入る前に手や顔を洗ってちょうだい」

 ルーザ=ルーザはさらに眉根をよせた。

「今さらなんだよ!? あっちのもったいぶってでっかい家じゃなにも言わなかったくせして! へんだぞ、あんた」

「へんじゃないわ! 夏至館は夏至館、お母さんの家はお母さんの家だもの!」

「どう違うんだよ!?」

「夏至館は不動産よ!!」

 言いきった。ルーザ=ルーザは気圧されたか、口をなかば開けたまま言葉を失い、はじめて見る女かのようにオレクタンテを見つめる。

 オレクタンテは両腕を組んだ。

「ここはお母さんの家なの」

 それですべての説明がつくとばかりに、オレクタンテはくりかえした。

「――まあ、なんなの? 庭で騒いだりして。なかにまで聞こえてますよ」

 そのとき開けっ放しの扉から、母が顔をだした。

「よくきてくれたわね、ルーザ=ルーザ。待っていたわ。あなたの部屋は、もうオレクタンテが案内したのかしら」

「あ、うん。これからよろしく」

 ルーザ=ルーザはきちんと挨拶をした。母はにっこりと笑い、扉をさらに大きく開けはなつ。と、母が用意していた食事の匂いが、いっそう強く庭にたちこめた。ルーザ=ルーザは反射的に、家のなかに目をこらす。

「いい匂いでしょう?」

「うん!」

 ルーザ=ルーザは、あごを首にぶつける勢いでうなずいた。

「じゃあ、このの言うとおり、手や顔を洗いなさいな。よごれた手で、私の作った料理は食べさせませんよ」

 ルーザ=ルーザはかけだす勢いで水場にむかった。母がオレクタンテに顔をむけ、やや得意げに口の端をあげてみせる。――男の子は、こうやって動かすものですよ。

 男の扱い方など、言われるまでもなく熟知している。が、まさか母にそう言いかえすこともできず、少しばかりもやもやした気分が残った。

 かわりにオレクタンテは、手ぼうきを持ってルーザ=ルーザの背後にこっそりと忍びよった。手を洗っている今なら、彼の背中の泥を払い落とせると思ったのだ。

 しかしいくらも近づかないうちに、ルーザ=ルーザが身を起こしてふりかえった。

「あんた、いいかげんにしろよ」

 怒るというより、うんざりした口調で言った。オレクタンテも不機嫌な声で言いかえした。

「いいじゃない。手は洗えても、背中の泥は自分で払えないでしょう?」

「そうじゃない」

 ルーザ=ルーザは表情を変えた。

「俺は剣を腰にさしたままなんだぞ。そんな人間に、足音を忍ばせて近づくな。斬られたいのか。手加減なんかしてられないんだからな」

 オレクタンテは反射的に反論しようとして、口をつぐんだ。ルーザ=ルーザの顔は真剣で、オレクタンテがしたがわなければ殴ることも辞さない、そんな明確な意志が感じられたからだ。

 子供だと思っていた相手からの、思わぬ暴力の気配に、オレクタンテは本能的に身をこわばらせる。

 しかしオレクタンテは、すぐに理性を取りもどした。ルーザ=ルーザの態度は剣で命のやりとりをしている者として、当然のものだ。安易だったのは自分である。

「……そうね。ごめんなさい。私が悪かったわ」

「ん」

 ルーザ=ルーザは目をそらせると、柄杓にもう一杯水をくみ、手を洗った。

 ふたりでそろって母の家に入ると、食卓にはすでに所狭しと皿が並べられている。それを見て、ルーザ=ルーザは唾を大きく飲みこんだ。

(お母さん、はりきったのね)

 昼間にオレクタンテが下ごしらえを手伝ったときより、献立が増えている。食べ盛りの少年と言うことで、気を使ったのだろう。オレクタンテも母も食は細いので、ふだんの料理は質素なものだが、今夜は肉料理が中心だ。兎に蜂蜜をぬって炙り焼いたものに芋を焼いたものをそえ、ほかには豆料理や野菜のスープ、川魚の油漬けなどが並べている。

「――うまい!」

 一口食べるなり、ルーザ=ルーザは大声で叫んだ。

「すごいやわらかくておいしい! 姉さんの料理した兎肉なんてもっとかたいのに、なんでこんなに脂がのっててやわらかいんだ? それに、味付けも甘いだけじゃなくて、ぴりっとした辛さもあって。とにかく、最高だよ!」

「そう? お口にあったみたいで嬉しいわ」

「芋も、外はカリカリなのに、中身はほくほくしてる!」

 ひとつひとつの料理に感動しては豪快に食らいつく様子に、母は目元をゆるめきって喜んでいる。

「飲み物は? 麦酒でいいかしらね。あまり甘くないけど果実水ネードもあるのよ」

「お母さん、飲み物の瓶は重いでしょ。私が取るわ」

 女ふたりが会話を交わした、そのほんの少しの間のことだった。

 ルーザ=ルーザが匙をおいた。

「――豆料理、おかわりしていい?」

 オレクタンテと母は動きをとめ、ルーザ=ルーザを見つめた。

 たしかに皿は空になっている。だがつい今まで、この少年は兎の肉を頬ばっていたはずだ。その兎肉も、今はどこに消えてしまったのか。

「……おかわり、だめかな?」

 ふたりが黙っているのを不承諾の意と解したのか、今度はやや遠慮がちに尋ねた。オレクタンテと母は、あわてて笑みをうかべる。

「いいわよ、もちろん! たくさん食べてね!」

「私がよそってあげるわ、ルーザ=ルーザ」

「いいよ、そんなの。自分で入れる」

 ルーザ=ルーザは立ちあがった。

 自オレクタンテと母は深刻な視線を交わした。もしかして自分たちは、食べ盛りの少年の胃袋を甘く見ていたのかもしれない――。

(なにかつくり足したほうがいいかしら? やっぱりお肉がいいわよね?)

(でも鶏はいるけど、まだ絞めてないし。ほかにすぐ食べられるものは――)

 口の動きだけで話しあうあいだにも、鍋底をしつこくさらう音が聞こえる。ルーザ=ルーザは豆料理を食いつくすつもりのようだ。それはまあ、いい。

 しかし、次いで隣の鍋の蓋を開ける音がしたとき、オレクタンテは飛びあがった。

 見ればルーザ=ルーザは、すでに豆で満杯になった皿に、次なる料理をのせようとしているではないか!

「ちょっと、なにをしてるの? そっちのお鍋の中身は、明日の夕食よ!」

「そうですよ! 下ゆでしただけで、まだ味付けをしていないんですからね!」

 足の悪い母まで立ちあがる。女ふたりの剣幕に、ルーザ=ルーザはいったん手をとめたが、体は鍋のほうをむいたままだ。数度瞬きし、オレクタンテと母を見くらべていたが、やおら鍋にむきなおった。

「…………ゆでたんなら、食べても腹は壊さないよな」

「いやっ、信じられないわ!! やめてよ!!」

「火がとおってるなら平気だって」

「だめです! そんなもの、食べさせませんよ!」

 母も激昂していた。無理もない。これでは味などどうでもいいと言われたも同然だ。

 だがオレクタンテは、いちはやく冷静さを取り戻した。自分を律して息を整え、正確に問題の本質を見抜こうとする。

「待って、ルーザ=ルーザ……つまり、あなたはまだ、食べ足りないのよね?」

「うん」

 ルーザ=ルーザはわずかに頬を赤らめつつも、うなずいた。オレクタンテはため息をつく。

「だったら、ちゃんとしたお料理を持ってきてあげるわ。だからまだ味付けのしてない料理なんて食べるのはやめるのよ。いいわね?」

「わかった」

「席について、豆を食べてなさい。そのあいだに、持ってきてあげるから」

 ルーザ=ルーザはおとなしく席につき、豆料理を食べはじめた。いっぽうオレクタンテは、心配そうな母の視線に見送られて、扉にむかう。

 扉を後ろ手に閉めたあと、オレクタンテはこの数年、ついぞしていなかったことをやった。

 すなわち、走ったのである。

 夏至館の厨房には、急な客人にそなえてつねに食べ物が用意されていた。それを、ルーザ=ルーザが豆料理を食べ終わるまでに取ってくるのだ。

 このところずっと懸念だったエルドニア子爵のことも、このときばかりは完全に忘れ果てていた。



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