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夏至の庭  作者: 西東行
第2章 真珠の櫛
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2

「久しぶりの市場は楽しかったわ! 当たり前だけど、行商人が持ってくるものとは品数がぜんぜん違うもの。野菜でも魚でも香辛料でも果物でも、いろいろありすぎて目移りして、ずいぶん困ってしまったわよ」

 母は午過ぎになって、少女のように目を輝かせて帰ってきた。よほど楽しかったのだろう、買いこんだ品物を戦利品のように駕籠から取りだしては、食卓に並べる。ルーザ=ルーザもにこにこと笑って、母が買った荷物の整理を手伝っていた。

 喜ぶ母とルーザ=ルーザを見ていると、夏至館で見た不気味な女の姿も、悪い夢にすぎないと思えてくる。

(そうよ。夏至館はサウラが魔術的な結界も張ってくれているんだし。魔だって入りこまないわ)

 オレクタンテは自分に言い聞かせ、母に笑いかけた。

「いい買い物ができたみたいで、なによりね」

 母はくすくす笑った。

「そうなのよ。ルーザ=ルーザをつれてると、おまけしてくれる店が多くて! ねえ、ルーザ=ルーザ?」

「うん。荷物持ち以外にも役に立てて、よかったよ」

 ルーザ=ルーザも嬉しそうだ。当然だろう。買った食糧のほとんどが、彼の胃袋におさまるのだから。

「これが新しいお皿ね? こっちは?」

 オレクタンテは、かたい包みを取りだして尋ねた。

「ああ、火神のお護りと、灯明皿だよ。俺が使わせてもらってる部屋に、火神の祭壇をつくらせてもらおうと思ってさ。火神殿に参拝に行ったついでに買ってきたんだ」

 包みからでてきたのは、赤い石でつくられた親指ほどの大きさの円錐と、灯明皿だった。

「あなたはアフラで生まれ育ったんですものね」

「いちおう、神官の資格も持ってるぞ。でないと神殿の祭礼の手伝いができなかったからだけど」

 世間話のように言うルーザ=ルーザにつられたのかもしれない。オレクタンテは深く考える間もなく、口を開いた。

「私の部屋にも火神の祭壇をつくってくれる?」

「ん?」

 オレクタンテはすぐに恥じ、後悔した。あれは夢だったと思いなおしたばかりだというのに、自分はまだなにを怯えているのだろう。

「ごめんなさい、やっぱりいいわ。私は特に武術をしてるわけでもないし、火神の信徒でもないんだもの」

 打ち消したが、ルーザ=ルーザは首を横にふった。

「武術も信徒も関係ない。神様に祈りたくなったなら、それはそうするときが来たってことだ。そういう自分を見つめて、祈ればいい」

 火神の護りと灯明皿を持って、立ちあがった。

「さっそく祭壇をつくりにいこうか」

「今から? でもそれは、あなたのための祭具じゃないの」

「仮にも神官が、人を差しおいて自分の祈りを優先してどうするんだよ。あんたが先だ」

「行ってきなさいな、オレクタンテ。ここは私がしておくわ」

 母にも言われ、オレクタンテはルーザ=ルーザと夏至館にむかった。

 日差しが強くて、影が濃いせいだろうか、露台から見あげた夏至館は暗く見える。

 けれどルーザ=ルーザはまったくなにも気づかない様子で、夏至館に入りこんだ。

「棚でも小卓でもいいから、空けてくれるか?」

「ここでいい? 敷物はこのままでいいかしら」

「適当でいいって言っちゃいけないんだけど、適当でいいよ」

 オレクタンテは花瓶を飾っていた壁龕を空けた。下に敷いていた、異国の織物はそのままにしておく。ルーザ=ルーザはそこに火神の象徴である紅い円錐と、聖油を入れた灯明皿を並べた。

「ラーレの家には、竈神と樹木神と……あとは機織りの神が祀られてたな」

「そうね。昔は商売の神様も祀っていたんだけど、商いはやめたから。夏至館のほうでは薬神と、ディアマンティーナの土地神にもお祈りしてるわ」

 竈神は、家の中心である台所に祀られ、家庭の幸福と安寧を守る神だ。かまどは人間の営みの礎であり、竈神を祀らない家庭はないと言っていい。

 だがそのほかの神々については、どう祀るかは人それぞれだ。たいていの者は仕事に関係する神を祀る。農民なら農耕神や牧神、田園の守護神に祈った。医術や芸術などのあらゆる技術と才気を司る風神には多くの眷属がいて、それぞれが職人や芸術家に信奉されていた。そのほかにも都市や村の神、薬神、子供のいる家庭なら犬をつれた子供の守護神なども祀ったりした。火や水、大地の神などはそれぞれの系列の神を束ねる高位の神として、篤く敬われたが、即物的な利益を祈願することはあまりなかった。

 祭の日には神殿に行くが、家の祭壇には竈神しか祀っていないという家庭は不信心と見られたが、逆にあまりに多くの神々を祭壇に祀る家も、周囲に笑われた。

 ルーザ=ルーザは厨房にいって火をもらってくると、灯明をともす。

「あんた、火神への礼拝の作法は知ってるか?」

「抜いた剣を水平にかかげて祈るんでしょう? でも自分でしたことはないわ」

 ルーザ=ルーザはうなずいた。

「……ちょっと触るぞ」

「どうぞ」

 遠慮がちに手をのばして、オレクタンテの肩や二の腕、背中に触り、指先でおす。ルーザ=ルーザはオレクタンテに配慮しているのか、少しばかり緊張しているようだったが、それがくすぐったいような満足をもたらしてくれた。

 ルーザ=ルーザはオレクタンテの手のひらをたしかめる。

「――長剣は持てないな」

 それからちょっと考えて、腰から短剣を鞘ごと抜いた。

「これをやる。そんないいものじゃないけど。火神に祈るとき、抜いてかかげるんだ」

「でも、これは使い慣れた大切なものじゃないの? もらうわけにはいかないわ」

「ほかにも持ってるし、大丈夫だよ。火神へ祈るときに持つ剣は、できれば使いこんでいるほうがいいんだ。これならちょうど、使ったところだし」

 オレクタンテは短剣を抜こうとして柄に赤黒い染みを見つけ、ぎょっとした。

(『使いこんだ』って……)

 だがそれ以上想像する前に、ルーザ=ルーザがオレクタンテの体に手をまわした。

「ひざまずいて……腰はちょっと落として。で、顔は伏せて、両腕で剣を捧げもって――いや、もう少し上」

 遠慮がちな手つきのわりには、遠慮なくオレクタンテに無理な体勢を取らせる。柄の血の染み、研がれた刃の硬い冷たさに、体が緊張しているのか、うまく促されたように姿勢が取れない。おまけに短剣が予想外に重くて、はやくも腕が疲れかけていた。

「重いか?」

「そうね。少し」

「それが大切なんだ。剣の重みと、しみついた血の意味を問うんだ。なにと、なぜ戦うか、自分は何者なのかって」

 なんとかオレクタンテの姿勢にかたちをつけた。

「祈りってのは、問いだ。正しく問えるように、修行をするんだ。神は簡単に教えてくれないけど、思いがけないときに答えを示してくれる。そんなとき、問いを自分のなかにちゃんと持っていないと、答えを見逃してしまうんだ」

 自分の言い聞かせるようにつぶやくと、長剣を抜き、隣にひざまずいた。

 それきり、黙りこむ。彼も祈りを捧げているのだろう。

(剣の重みを問う――)

 オレクタンテは単純に、破魔の神である火神の加護を得られればいいと思っていたのだが、神とはそのような虫のいいものではないらしい。ルーザ=ルーザが持つ護符も、神に恥じることなく戦えるようにと、戦士に心構えをうながすためのものだと言っていた。戦うのはあくまで自分自身なのだ。

(私は戦おうとしているのかしら。あの気味の悪い幻と? それとも――)

 だが今さら、なにと戦おうというのだろう。

 オレクタンテは、決して裕福ではないが、堅実な商人の娘として生まれ育った。

 だが父が負債を残して死に、母が足を悪くして、オレクタンテには貴族か商人の愛妾になるか、娼館に身を売るしか選択肢がなくなった。幸いと言おうか、オレクタンテの美貌は当時すでに名高く、多くの貴族たちがオレクタンテを愛妾にと望んだ。そこである程度の打算も働かせ、いちばん高い支度金を用意してくれた貴族のサフィレットのもとに行くことにしたのだ。

 だがサフィレットは、宮廷政治の大物だった。うまい料理や上質の酒、高価な馬と美しい女を愛し、またそれらと同じくらい、政治を楽しんでいた。彼にとって政治とは、友人たちとおこなう極上の遊戯にほかならず、オレクタンテはその手駒だった。

 爪を整えた指先を、小さく優雅に動かして要求されるあらゆることに、オレクタンテは諾々と応じてきた。ほかになにができたろう。あきらめ、受けいれることには、とうに慣れていたはずだ。

(今さら、なんのために戦うの)

 オレクタンテは隣で顔を伏せているルーザ=ルーザを、ちらりと見やった。肩も背も微動だにしない。まだ成長しきっていない、いかにも少年らしい体つきなのに、強靱なのだ。

 この少年はなんのために戦うのだろう。

 そのとき突然、ルーザ=ルーザがはじかれたように顔をあげ、祈りも忘れて彼を見つめていたオレクタンテはばつの悪い思いを味わった。

「ん?」

「どうしたの?」

 ルーザ=ルーザは迷いこんだ羽虫でも探すように、眉をしかめてオレクタンテの部屋を見わたした。

「あんたが、なんで火神の祭壇を欲しがったか、わかった気がする」

「え?」

 もの思いを見抜かれたかと焦ったが、ルーザ=ルーザはごく落ちついた表情で、オレクタンテを見た。

「この家、なにかいるな」




「サウラ! サウラはどこなの?」

 部屋をでて声をあげると、すぐに足音がした。

「オレクタンテ様、いかがなさいました?」

「ルーザ=ルーザが、この館になにか悪い気配のものがいるって言うの」

「なんですって!?」

 咎められたかのように、ルーザ=ルーザを見た。

「なにかって、なんです?」

「わからない。でも一瞬だけど、嫌な気配を感じたんだ」

「サウラ……実は私も、妙なものを見たのよ。金髪の、たぶん若い女の姿だったわ。二度ほど見かけたのだけど、すぐに消えてしまったから気のせいかと思ったの」

「邪霊とでもおっしゃるのですか?」

 さも心外だと言わんばかりに、首をふった。

「外部からそのようなものが入りこんだ形跡はございません。断言できますわ。もちろん、夏至館は出入りする人が多いですから、雑霊もよく入ってきますけれど、だからこそ霊の入りこみやすいところには術をほどこして、すぐに察知できるようにしております」

 サウラは強い口調で訴えたが、しかしルーザ=ルーザは動じなかった。

「出入りしてないなら、最初からここにいたんじゃないか?」

 サウラは目をみはる。オレクタンテもとまどって、ルーザ=ルーザを見た。

「一瞬感じただけなのに、自信があるのね。どうして?」

 問われて、ルーザ=ルーザは困惑したようだった。

「どうしてもなにも、ちらっとでも敵を見かけたら、用心するのがふつうだろ? 気のせいかもしれないなんて理由で、黙ってたりしないよ。まわりや上の奴にも報告する。本当に敵がいたら、大変なことになるんだから。気のせいだったら、よかったですむだけだのことだ」

 オレクタンテは虚をつかれてルーザ=ルーザを見た。サウラも表情をあらため、ひきしめる。

 ルーザ=ルーザは邪霊がいると言いはっているわけでも、ましてサウラが怠慢だったと責めているわけではない。怪しい気配を感じたから、用心しろと言っているだけなのだ。

 だがオレクタンテもサウラも、そんな怪しいものがいてほしくない、あるいはいるはずがないという意識からものを考えていたようだ。

「おっしゃるとおりですわ。失礼いたしました。さっそく、たしかめます」

 そう言うと、サウラは目を閉じた。

「――あら……?」

 すぐに、目を閉じたまま眉をひそめた。

「やっぱり、なにかいるの、サウラ?」

「いえ……まだはっきりとらえたわけでは……たしかに夏至館になじんだ気配ですけど――以前は気配が弱いから気にとまらなかったのですが、今はむこうがうまく隠れていて、気配をとらえにくくなっている、という感じです」

「じゃあ、あの女は気のせいではなくて、本当にいたの!?」

「断定はできませんが、そう言ってさしつかえないと思います」

 女の姿を思いだし、オレクタンテは身ぶるいした。

「本当なら、いやなことだわ。この館にあんな気味の悪い邪霊がひそんでいただなんて」

「申しわけございません、オレクタンテ様。私の油断が招いたことです」

「それはもういいのよ。でも、今まで気がつかなかったのに、どうして突然、私にも見えるようになったのかしら?」

「今はまだ、なんとも申しあげられませんわ。ただ、邪霊も含めて精霊というものは気配だけの存在で、実体を持ちません。きわめて不安定で、まわりの影響を受けやすいのです」

 はるか昔には、実体を持った力ある精霊たちも数多くいた。だが力ある精霊たちは、神々とともにこの世界を去った。今もこの世界に残っているのは、実体を持たず、したがって神々についていくこともできなかった、弱い精霊たちだけだ。実体を持たない彼らは、大樹や深い山にある泉、年経た道具、あるいは術者が描いた魔法陣などに宿って、自分をなんとか保っていた。

「気配というものは、感覚――それも直感でしかとらえられません。術師の私にさえ、たしかにはとらえられないものなのです。オレクタンテ様が気のせいだと思われたのも当然ですわ。理屈も証拠も、なにもないのですから。直感を信じるべきか疑うべきか、その判断を下すのも直感なのです」

「相手も不安定な存在なら、人間の能力も不安定なのね」

 オレクタンテはため息をついた。

「これ以上のことを探るには、もっと集中力を高めねばなりません。失礼して部屋に下がらせていただきたいのですが、よろしいでしょうか、オレクタンテ様?」

「ええ。お願いね、サウラ」

「かしこまりました」

 サウラは頭をさげて、下がった。自室にこもるのだろう。彼女の自室には、より集中できるよう結界も張ってあるし、魔術のための道具もそろっている。女の正体も、その対処方法もつきとめることができるはずだ。

 サウラを見送ると、オレクタンテはルーザ=ルーザへ目を移した。ルーザ=ルーザはずっとそうしていたというように、オレクタンテを見ていた。

「あなたのおかげで、怪しい気配に気づくことができたわ。ありがとう、ルーザ=ルーザ」

「うん」

 ルーザ=ルーザは少しためらって、つづけた。

「あの気配、すぐに浄めることができるのか?」

「さあ、どうかしら。でもサウラは優秀な魔術師だから、集中力を高めれば、それほど手こずらないと思うわ」

「そうか。だったら大丈夫かな」

 心から心配している口調に、オレクタンテは少なからず驚いた。たしかにルーザ=ルーザはオレクタンテを守る約束をしているが、それはあくまで剣での護衛の話だ。魔術的なところはサウラの仕事であり、ルーザ=ルーザには関係がない。

 それを、こうして心配してくれることが意外であり、嬉しかった。

「大丈夫よ。あなたがくれた短剣もあるんですもの。心強くいられるわ」

 ルーザ=ルーザはオレクタンテをじっと見つめ、それから急になにか思いついたように、自分の首に手をまわした。

「これ、貸してやるよ」

 はずしてオレクタンテにさしだしたのは、火神の護符だった。

「戦士の護符だけど、火神は破魔の神だって、サウラも言ってたからな。ちょっとは役に立つだろ」

「まあ。ありがとう」

 名のある神官の剣を鍛えてつくったという護符は、ずしりと重たかった。

「俺はラーレのところに戻る。でもなにかあったら、また呼んでくれ」

「ええ。私も夏至館の用事が終わったら、お母さんのところへ行くわね」

 ルーザ=ルーザはオレクタンテの部屋に入っていった。彼女の部屋から母の家へ移動するのだろう。庭園からでも行けるのに、ごく自然にオレクタンテの部屋を選んだことに、オレクタンテは胸が高なる心地がした。

(いけない。そろそろ、夜会にでかける前の誰かが、夏至館に立ちよるかもしれないわ。いちおう準備しておかないと)

 重たすぎる護符を自室において広間のほうへ行くと、執事がやってきて来客を告げた。

「はやいわね。誰かしら」

「はい。それが」

 執事は玄関のほうをちらと見た。

「魔術師組合の方です。オレクタンテ様におうかがいしたいことがあると」



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