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夏至の庭  作者: 西東行
第1章 白花
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1

 ――これはまた、噂以上のたいへんな美少年だ。

 ひと目見てそう思ったオレクタンテが次に感じたのは、こうも華麗な容姿をしていれば、噂にもなろうし、厄介ごとにもまきこまれるだろうという同情だった。

 なにしろ近頃の王都ディアマンティーナの社交界では、辺境出身の少年の噂で持ちきりだったのだ。誰それが少年をめぐって口論のあげく決闘をしただの、どこぞの令嬢が、気のそまない結婚をのむ条件に少年を愛人にしろと父親に条件をつけただの。そのいずれもに、少年自身は直接かかわっていないだけに、なおさら気の毒だ。

 風変わりな名前をしているのも、口の端にのぼりやすい原因かもしれない。

 その少年は、名をルーザ=ルーザといった。

「はじめまして、ルーザ=ルーザ。あなたのお名前は、以前から聞いてたのよ。会えて嬉しいわ」

 オレクタンテはほほえんで挨拶をしたが、ルーザ=ルーザはきつく結んだ口元に、さらに力をこめただけだった。そうすると、少女のようにやわらかな唇とほっそりした顎の線が、よけいにきわだった。

 ゆれるように波打つ黄金色の髪に天上の青い瞳。背はあまり高くないが、それはまだ成長途中だからだろう。ほっそりした体つきは、中性的な顔立ちとよくあっている。

 人間ばなれした、精霊めいたなどという表現は、オレクタンテ自身がそう讃えられつづけて聞き慣れているせいか、希少性を感じなかった。なにより噂には尾ひれがつくものである。

 しかし今回のルーザ=ルーザについては、尾がまったく足りていないということを、オレクタンテは知った。

「挨拶をしないか、ルーザ=ルーザ」

 ロライマ将軍が、苦笑まじりに言った。

 ルーザ=ルーザはロライマ将軍を一瞬見やり、それからいかにも不本意そうにオレクタンテに頭を下げた。やはり兵士は、上官の命令には逆らえないものらしい。

「…………こんにちは」

 ぶっきらぼうな口調は、美少年ゆえの高慢さからくるものではなさそうだ。むしろふつうの少年らしい不器用さと率直さが感じられて、ほほえましかった。

 ただ、少し幼い気もする。歳はたしか十五、六だったか。貴族の若君なら、一人前の男を気取っている年頃だ。それなのに、異国にも知られるフィリグラーナ王国随一の高級娼婦を前にして、ただふてくされるだけというのはどうだろう。

「躾がなっていなくて申し訳ない、オレクタンテ殿。なにぶん子供のうえに、無粋な田舎者でな。私も他人のことを言えた立場ではないが」

 オレクタンテの思いを読んだわけでもないだろうが、ロライマ将軍が言った。オレクタンテはロライマに笑みを返す。

「かまいませんわ、将軍。彼のような少年が、私みたいな女に対する態度を知っていたとしたら、そちらのほうが問題ですもの」

 ロライマはやや恐縮したような表情をうかべ、ルーザ=ルーザはちらとオレクタンテを見た。

「どうぞ、こちらにおすわりになって。すぐに冷たいものを持ってこさせますわ」

 オレクタンテは長い裾をひいて、ふたりを広間の長椅子にいざなった。廻廊に面した広間は淡紫色と銀色を基調にしつらえており、中庭で咲きほこっている花々のゆたかな香りが風にのってただよってきていた。

 長椅子は、背もたれや肘掛け部分にもふっくらと詰め物をした、寝椅子にもなるものだったが、ロライマ将軍は背筋をまっすぐ正してすわった。ルーザ=ルーザは当然のようにその背後に立つ。まっすぐに前を見ているが、オレクタンテのほうを見ようとはしない。おそらく見つめているのは壁だ。

 オレクタンテはロライマ将軍を見やり、ルーザ=ルーザに目を移した。

「あなたのことは将軍の護衛ではなく、お客様のひとりとしておむかえしているのよ。どうぞすわって。そんなところに立っていては、お話ができないわ」

「……話すことなんかない」

「ルーザ=ルーザ」

 ロライマ将軍がたしなめると、ルーザ=ルーザはちょっとひるんだように目をそらせたが、また前をむいた。

「話すのは将軍だ。俺は将軍の決めたことに従うだけだ」

 ルーザ=ルーザの返答に、ロライマ将軍は小さくため息をついた。

「ではよかったら、ロライマ将軍と私がお話しているあいだ、私の庭をご覧になってきてはどうかしら。たいした庭ではないけれど、夏の花が見頃なの」

 ルーザ=ルーザは答えるかわりにロライマ将軍を見た。将軍がうなずいたのを確認すると、オレクタンテを見ずに大股に廻廊へでていく。王国軍のしるしである緋色のマントが、はねるようになびいた。貴族のような洗練された物腰ではなかったが、俊敏ですっきりとした所作は目に快かった。

「――お気遣い申しわけないな、オレクタンテ殿」

 ロライマ将軍は、もういちど嘆息した。

「かまいませんわ。私の夏至館では、どなたにも楽しんでいただきたいの」

 オレクタンテはゆったりと、長椅子に身をもたせかける。そうすると華奢でやわらかな体がきわだつことは、自分でもよくわきまえていた。べつにロライマ将軍を誘惑しようというのではない。一種の力の誇示だ。

 小間使いが葡萄酒を持ってきて、小さな円卓の上においた。ロライマ将軍はさっそく酒を口に含んだが、その芳醇な味を理解したようには見えなかった。

「……ルーザ=ルーザのことは、この王都でもずいぶん噂になっているようだから、あなたもお聞きおよびのことと思うが」

「ええ、もちろん。ぜひ本人にも会いたいと思っていましたわ」

 美少年に興味はないが、オレクタンテは宮廷政治にかかわる高級娼婦として、王都のあらゆる噂話につねに気を配っていた。可能なかぎり裏も取っている。

 ロライマ将軍からルーザ=ルーザをつれて訪問したいと打診があったときも、快諾した。思うところもあったし、なによりも、他人がまだ知らない情報をつかめば、それは力になったからだ。

 ロライマ将軍は、やや身をのりだした。

「――それで、奴をどうご覧になっただろうか?」

「きれいな男の子ですわね。正直、自信を失いそうなくらい」

「まさか。奴はあなたの足元にもおよばない。特に中身ときたら、天地ほども差がある」

 お世辞ではなく、心からというふうにしみじみと言った。

「奴があなたの半分でも聡明であったならよかったのだが」

「バカな子には見えないけれど」

 ちょっとはっきり言ってみた。ロライマ将軍は気を悪くしたふうもなく、うなずく。

「バカではない、たしかに。ただ、貴族社会の複雑さが、奴にはまったく理解できない。田舎の素朴な家庭でまっすぐに育ったのだからしかたないが……」

「いろいろと面倒がおありだとは、私も耳にしていますわ」

 オレクタンテが聞いただけでも、ルーザ=ルーザを自分の近衛兵に迎えたいという王族や貴族は十指に余る。王国軍の将軍とはいえ平民出身のロライマが、それらの申し出を穏便にことわるのに苦労しているという話は、オレクタンテも耳にしていた。

「それでも、私をとおして話をするならまだいい。だが先だってはある侯爵殿が、ルーザ=ルーザに直接、近衛兵にならぬかとさそいをかけてな」

 オレクタンテは眉をあげた。ロライマ将軍もなめられたものだ。

「そしてルーザ=ルーザは、バカ正直にもその場で、面とむかってことわったのだ」

「困ったこと」

「困っている。当然ながら相手は激怒して、私の軍に嫌がらせをかけてきた。おかげで食糧や資材の搬入が滞りがちだ。なんとかやっているが」

 ロライマ将軍は、頭が痛いとでもいうように額に手をあてた。

「だが私は、ルーザ=ルーザを手放すつもりはない。見てのとおり、まだまだ子供で体もできていないが、実はあれでかなり優秀な騎兵なのだ」

 オレクタンテはうなずくかわりに、大きな灰色の瞳を瞬かせた。

 平民出身のロライマ将軍の隊は、国王にとっては貴族間の政治的なかけひきやしがらみにとらわれることなく自由に動かせる、使い勝手のよい軍事力だった。正規兵の大部分は農家や商家出身の平民が占めたが、しかし主力となる騎兵は、傭兵隊に頼っていた。馬にのって戦うという技術は、きわめて特殊なものだからだ。幼少のころから訓練をつまなければならないし、おまけに軍馬は高価ときている。荷馬や農馬を扱った経験だけでは、話にならない。

 そもそも人を殺すということが、特殊技能だ。いくら農民が家畜に慣れていても、食べるために動物を殺すのとはわけが違う。

 したがって、騎兵の多くは貴族出身の騎士となるが、平民のロライマ将軍の命令に従おうという貴族はいない。どうしても、金で雇った傭兵頼みになってしまう。

「だがルーザ=ルーザは平民とはいえ、戦士の巡礼地で生まれ育った男だ。剣をはじめ、槍も弓も馬も、ひととおり以上にこなす。ほかの兵士たちともうまくつきあえるのもありがたい。私の軍では、貴重な人材だ」

「事情はわかりましたわ。それで、あの子をつれて私のところへいらしたということは、私に貴族の方々への口添えを頼みたいとおっしゃるのかしら?」

「まあ、そういうことだが」

 オレクタンテは王都の宮廷のみならず、地方の大商人や異国にまで幅広い交友関係がある。人脈を頼みにされることは多い。

 だが、情報や人脈はただではない。それなり、というよりも、かなりの元手がかかっているものである。利用には相応の対価を払うのが信義というものだ。将軍とはいえ金も権力も持たないこの男が、なにを見返りにするつもりだろう。

 ロライマ将軍は小さく笑った。

「どうだろう。あのルーザ=ルーザを、あなたの愛人にする気はないか?」




 フィリグラーナ王国の王都ディアマンティーナは、杯を伏せたようなかたちの岩山の上に建てられた都市だ。白い石でつくられた街には、いたるところに坂道や階段があり、建物のなかにさえ段差があった。

 そのような土地柄、貴族の邸とはいえども広壮な庭園はむずかしい。かわりに高低差を活かした、変化に富んだ庭園が多くつくられた。

 オレクタンテの夏至館の庭園は、むしろこじんまりとしたものだったが、階段や小径をめぐらせ、さまざまな高さの木々や草花を絶妙に配したおかげで、実際以上に広く感じられた。

 趣向をこらした庭園に優美なやわらかさを与えているのは、花の色だ。オレクタンテの庭園の花は、銀梅花ミルテやさんざし、くちなしに茉莉花ジャスミンなど、すべて白い花だった。薔薇や藤、あらせいとうなども、白い品種をそろえている。

 白い花が夏の日射しを照りかえして、庭園はいっそう眩しく見えた。対照的に、白い敷石の上に落ちる影は濃い青紫色をしている。鳥がさえずり、庭園の中央に据えられた小さな噴水は、清涼とした音を立てていた。

 ルーザ=ルーザは庭園を、無造作な足取りで歩いていた。つまらなさそうな顔で、よく手入れされた庭園に感じいっている様子はまったくない。

 そのとき、小径ぞいの繁みががさりと動いたかと思うと、黄色い猫があらわれた。

 ルーザ=ルーザの表情が、やっと動いた。彼は笑みを浮かべて猫に手を伸ばし、口を鳴らす。猫は耳を立て、しばらくじっとルーザ=ルーザを見ていたが、やがて尾をひとふりすると足早に去り、ルーザ=ルーザの視界から消えた。

 ルーザ=ルーザは姿勢を低くして、猫を追いかける。段差をまわりこんで木影からひょいと顔をだすと、猫の尻尾が石づくりの腰掛けのむこうに隠れるところだった。

 小さく笑い声をあげ、さらに追いかけようとしたところで、ルーザ=ルーザは唐突に足をとめた。さっと身を起こすと、きつい表情でまわりを見わたす。

「……今、誰か俺の気をそらそうとしたか?」

 答える声はない。噴水の涼やかな音が響くばかりだ。わずかに風が吹いて、小さな白い花がゆれた。

 ルーザ=ルーザは眉をひそめると、そのまますすんだ。猫が消えたほうではない。猫を目にするまでむかっていた方向へだ。花には目もくれず、つっきるように大股にすすむ。

 すぐに、小さく開けた場所にでた。つる性の白い花にかこまれた、隠れ家のような一角だ。建物や廻廊が、木々のすぐむこうに見えているので、庭園の端なのだろう。

 ルーザ=ルーザは知らなかったが、そこはオレクタンテがくつろぐための空間だった。

 建物と廻廊のあいだに、ほそい青空が見える。どうやら狭い通路があるらしい。のぞいてみると、傾斜した短い通路のつきあたりに、ルーザ=ルーザの背の高さほどの塀があった。塀には片開きの木戸がついている。使用人の裏口のようだ。

 ルーザ=ルーザはロライマ将軍を残して外にでるつもりはなく、もと来た道を戻ろうとした。

 だがそのとき、なにか重たいものを引きずるような音が聞こえて、ルーザ=ルーザは足をとめた。

 足音を忍ばせて短い通路をすすみ、そっと木戸を押し開ける。

 木戸のむこうは、今までいた庭園とはくらべものにならない、狭い庭だった。しかし香草が植えられた花壇には雑草もなく、掃除がいきとどいている。すぐそばにある民家も、古びているが居心地はよさそうだ。

 その庭を、中年の女が大きな桶を引きずって、横切ろうとしていた。褐色の髪をきちんと結いあげ、身につけた前掛けもぱりっと清潔だ。痩せていたが不健康そうではなく、むしろ動きはきびきびとして、働き者らしく見えた。それにしては桶を引きずるなど、横着なことだったが。

 よく見ると、女は杖を脇に抱えていた。足が少し不自由らしい。

 ルーザ=ルーザは考える前に、木戸を大きく開けた。

「小母さん。それ、俺が運ぼうか?」

 声をかけると、女はとびあがらんばかりに驚いた。

「あ。驚かせてごめ――」

「誰なの!?」

 ルーザ=ルーザをさえぎって、けわしい声で尋ねた。そしてルーザ=ルーザの腰に下がった剣を見て、眉をひそめて身を引く。ルーザ=ルーザはあわてて両手を広げ、少なくとも手には武器がないことを相手に訴えた。

「ホントにごめん。でも怪しい者じゃないよ」

「……あなた、そこのお邸のお客なの?」

 嫌悪感すらにじんだ声だった。ルーザ=ルーザは背後の夏至館をふりあおいだ。

「えーと、お客っていうか、俺は将軍についてきたんだ。でもこんなお邸、居心地が悪くてしかたなくてさ。抜けさせてもらった」

「将軍? あなた、どこかの貴族の若様かなにか?」

「俺が? よしてくれよ。俺も将軍も、貴族のせいで苦労してるのに」

 うんざりした声をあげると、女はやや表情を変えた。もっとも、ほんのわずかだが。

「それよりさ、小母さん。引きずったりすると桶が傷むだろ。俺が運ぶよ」

 ルーザ=ルーザは返事を待たずに、女に歩みよった。女はあわてて、逃げるように下がる。

 桶をのぞくと、かまどで使うものだろう、小さな炭がぎっしりつまっていた。

「ああ、これはどう見たってあんたには重いって。俺の婆ちゃんも、重い水桶を持とうとして腰を痛めたことがあってさ。つらそうだったぞ」

「……安かったから、つい買ってしまったのよ」

「うん、安いってのは大事だけどさ」

 ルーザ=ルーザは桶を持ちあげる。

「で、どこに運べばいいんだ?」

 女は答えず、まだルーザ=ルーザを見ている。ルーザ=ルーザは桶をゆすって持ちなおした。

「俺はルーザ=ルーザ」

 女はひどく戸惑ったようにルーザ=ルーザを見た。

「え? なにそれ、もしかしてあなたの名前?」

 ルーザ=ルーザはため息をついた。

「長くて変な名前だと思ったんだろ? 王都にでてきてからこっち、会う奴みんなに言われてるよ。でも俺の故郷じゃ名前を略さないのが決まりだから、小母さんもそうしてくれるかい?」

 中年の女は思わずというように吹きだした。

「――わかったわ、ルーザ=ルーザ。私はラーレよ」

 ルーザ=ルーザもにこっと笑った。

「あなたの故郷って、どこなの?」

「アフラ。火と戦の神の八神殿のひとつがあるところだよ」

「戦士が巡礼するっていう? じゃあ、フィリグラーナ王国の本当に国境近くじゃないの」

「うん。つい最近、こっちに来たんだ」

「まあまあ、それは遠くから大変だったでしょうね。……疑うような態度をとったりして、失礼したわ」

「いや。王都じゃ、みんなが武器を持てるわけじゃないんだろ。自分はなにも持ってないのに相手だけが剣を持ってたら、そりゃ俺だって警戒するよ」

 ラーレは目元をいっそうやわらげた。

「それじゃルーザ=ルーザ。悪いけど、その桶を家のなかに運んでくれるかしら?」




「私の愛人ですって? ルーザ=ルーザを?」

 ルーザ=ルーザを近衛兵にしたくないなら、確実な策ではある。たとえオレクタンテが口添えしてことわったところで、ルーザ=ルーザを召しあげようという貴族は次から次へとでてくるに違いないからだ。だがオレクタンテの愛人となれば、有力者とつながりの深い彼女と争って彼を奪おうとする者はいなくなる――とまでは言わずとも、激減するだろう。

(でも、ルーザ=ルーザは納得しているわけではなさそうね)

 いくら女に興味のある年頃でも、こんなかたちで高級娼婦のもとにさしだされるなど、不本意なことに違いない。あれほど不機嫌そうにオレクタンテを睨んでいたのも、これで納得がいった。

「あの年頃の少年には、ずいぶん酷な仕打ちですわ、ロライマ将軍」

 ロライマ将軍はかすかに眉を動かしたが、それだけだった。

 オレクタンテはたゆたうように長椅子にもたれなおした。

「それに、この私が誰かに愛人をお世話してもらう必要があると思ってらっしゃるのかしら」

「無論、あなたに求愛する男どもが星の数ほどもいることは承知している。しかもいずれも、大貴族や大商人など、有力者ばかりだ。だがあなたは、先の後援者であったサフィレット伯爵がお亡くなりになって以来、新たな後援者を選んでいない」

 オレクタンテはまだ笑みを口元に残していたけれども、わずかに目をほそめた。

 オレクタンテがサフィレット伯爵の愛妾になったのは、彼女がまだ十四歳の時だった。オレクタンテが彼のもとにいたのは十年にも満たなかったが、サフィレット伯爵はゆうに一生分の経験を彼女に味わわせた。

 今なお、その名を聞けば心の奥底にさわだつものがある。しかしオレクタンテはそれを人に悟らせるほど迂闊ではない。ほそめた灰色の瞳も、周囲にはただ謎めいた印象しか与えないはずだ。

 ロライマ将軍も、なにごともないように穏やかにつづけた。

「それぞれ腹に一物ある男たちを互いに牽制させ、自由な立場を守っているあなたの手腕は、さすがというほかない。だがその均衡は、誰かが実力行使にでれば崩れるのではないだろうか。たとえば、エルドニア子爵とか」

 オレクタンテは、今度はわかりやすく肩をすくめた。

「エルドニア子爵は勇猛な騎士ですから、求愛も情熱的でいらっしゃいますの。私に言いよる方々に敵愾心をあらわになさるのは困るけれど、女冥利につきますわ」

「なんとかあなたを我が物にしようと、あちこちに根まわししていると聞いた。脅迫まがいのこともしているようだ。――そして、これは噂になっていないが、あなたまでも脅しているとか」

 オレクタンテはすぐには答えず、考えた。この男は、なにをどこまで知り、なにが目的で、情報をちらつかせているのだろう。

 しらをきってロライマ将軍を追いはらうことは簡単だった。だが追いはらうと、当然ながら相手を利用することはできなくなる。

 オレクタンテはすばやく計算し、腹を決めると同時に淡くほほえんだ。

「よくご存じですのね。失礼ながら、貴族の方々に伝手がおありのようには見えませんのに」

「そのかわり、下々の者とはうまくやっている。貴族は彼らを便利な家具程度に思っているかもしれないが、耳も鼻もきくし、領主や主人が思う以上に頭がまわるのだ」

「使用人より愚かな貴族ばかりではありませんわ。お気をつけになることよ。もっともエルドニア子爵様は、たしかに使用人にだしぬかれているようですわね」

 エルドニア子爵がオレクタンテを恫喝しているのは、事実だった。

 だが、その詳細はオレクタンテの手札のひとつだ。やすやすとロライマ将軍に教えるつもりはない。

「オレクタンテ殿。私も、私の隊の男たちも、己の身ひとつで生きのびている。ルーザ=ルーザを守っていただく見返りに、こちらが提供できるものは少ないが、しかしきっとあなたの役に立つはずだ」

 ロライマ将軍はやや声を低くした。

「――私があなたに提供できるものは、もちろん武力だ。ルーザ=ルーザをはじめとする私の配下の者の力を、あなたのためにふるおう」

 オレクタンテは、答えるまでにやや間をおいた。

「たしかに私には臣下の騎士はいないけれど、相応の対策はしていますのよ?」

「傭兵のことなら、失礼ながらあなたのような貴婦人には統制するのはむずかしいのではないだろうか」

 残念ながら、これはロライマ将軍の指摘どおりだった。オレクタンテは護衛として傭兵を雇っていたが、今ひとつ彼らを信用できずにいた。傭兵も信用問題があるから滅多なことはしないが、美しいオレクタンテは、本来なら彼らの『獲物』であり、忠誠や献身の対象ではなかったのだ。自由な立場を守りたいオレクタンテにとって、その人脈や情報の質に見あうだけの武力を持っていないことは、頭の痛い問題のひとつだった。

 サフィレット伯爵が生きていたころは、後援者である彼がオレクタンテを保護してくれた。

 ただし彼は、オレクタンテを徹底的に利用もした。

 サフィレット伯爵は、大国フィリグラーナの大使として、国内外の有力者たちと幅広く交友した。深い教養と洗練された趣味をそなえた人物であったことは、オレクタンテも認めざるをえない。気前がよかったことも友人たちに好かれた理由のひとつで、むしろ楽しみながら馬や宝石など高価な贈り物をしたり、特別な便宜をはかったりした。

 自身の愛妾であったオレクタンテさえ、友人との親交を深めるためなら惜しみなく供した。

 おかげでオレクタンテは数多の有力者たちと昵懇の間柄となり、王国屈指の人脈と情報を持つ高級娼婦として、一目おかれている。

 オレクタンテは、回想に引きこまれそうになる自分を制して、ロライマ将軍を目でうながした。

「私は、傭兵より安価で信頼のおける力をあなたに提供できる。特にルーザ=ルーザは先刻も言ったように、腕がたつ。実際、かなりのものだと保証しよう」

 ロライマ将軍は両手を広げた。

「べつに本当に愛人にする必要はない。だがルーザ=ルーザは、ご覧になったとおりの容姿だ。奴があなたの愛人におさまっても不自然ではないし、それどころか、たいへんにお似合いだ。あなたがほかに愛人や後援者を持たなくても、あやしまれることはないだろう。奴も、あなたの愛人という名目があれば、ごく自然にあなたを身近で守ることができる」

 オレクタンテは、ルーザ=ルーザがいるはずの庭園をちらりと見た。どこを歩いているのか、白い花穂がゆれているだけで、緋色の赤いマントは見えなかった。

「おまけにルーザ=ルーザは、爵位も領地も、金も権力もない。平民だからな。したがって、今のあなたの中立性を危うくすることもないのだ」

 貴族たちのさまざまな情報をにぎるオレクタンテにとって、その点もまた重要なものだった。

「どうだろう。愛人のふりをするだけでも、お互いかなりの利があるのではないかな」

 オレクタンテは頬杖をついて、ロライマ将軍の言葉を吟味する。

 彼の提案は説得力があり、オレクタンテにとって充分に魅力的だった。

 だからといって、簡単にうまい話にのる女だとは、まさかむこうも思ってはいまい。

「……魅力的なお申し出ですわ、ロライマ将軍。でも、いくら優秀な兵士だからって、あの子ひとりを手元におくためにそこまでするわけではないでしょう?」

 オレクタンテはゆっくりと、長椅子での姿勢を変えた。

「あなたが望んでいらっしゃるのは、私なのだわ。違う?」

「その問いに否と答える男はいない。したがって、無意味な問いだ」

 ロライマ将軍は苦笑ではなく、なお泰然と笑った。

「たしかに私はあなたが欲しいが、身の程知らずであることくらいわきまえている。私には武力があるが、逆に言えばそれしかない。貴族社会に人脈のあるあなたなら、その気になればいつでも私をつぶせるだろう」

「もちろんよ」

「だがだからこそ、私はあなたと対等に取引できるのだ。私は貴族の男たちと違って、あなたの主人にはなれない。したがってあなたにとって不本意なことを、一方的に押しつけることもできない。これは重要な点ではないだろうか」

 オレクタンテはうなずかなかった。わりと不愉快な問いなので、答えてやる気になれなかったのだ。

 ロライマ将軍はオレクタンテを見すえて、言い継ぐ。

「あらためて提案する。私の武力を利用するかわりに、あなたの情報網を利用させてほしい」

 返答するまでに時間をかけたが、オレクタンテはそのあいだ、ずっと考えていたわけではなかった。

「……条件があるわ」

「なんだろうか」

「あなたのその武力を、私のために使ってくれるとおっしゃったわね? その力で、ついでに私の母のことも守ってくださるかしら。この館のすぐ裏に住んでいるから、手間ではないはずよ」

 ロライマ将軍が、武骨な眉をあげた。そんな表情をすると、彼はいかにも素朴で庶民的な印象がした。

「私の身になにかあったときは、母を保護していただきたいの。この条件を承知していただけるなら、協力は惜しまないわ。ルーザ=ルーザのことも引きうけてあげる」

 この取引ができる相手を、オレクタンテはずっと探していたのだ。

「でももし、母になにかあれば……そうね、ルーザ=ルーザが男色に目覚めてしまったら困るでしょう?」

 ロライマ将軍は、本気で焦った顔をした。

「それは困る。軍隊は男が圧倒的に多い世界なのだ」

「そうね。でも私があの子のお世話をしているかぎり、そんな心配はご無用よ。私が母の心配をしなくてすむのと同じようにね」

 神妙な面持ちで、ロライマ将軍はうなずいた。

「――承知した。私の亡き母にかけて、あなたの母親を守ろう」

 オレクタンテは心のなかで、ほっと息をつく。

「もうひとつ。頼んでおいてわがままなのはわかっているけど、母の警備は目立たないかたちでお願いしたいの。剣を持っている人が近くにいれば、怯えてしまうわ。ルーザ=ルーザについても、結論には少しお時間をいただければありがたいかしら。愛人なのはふりだけとしても、私の身近で母も守ってもらうなら、人となりをみきわめたいの。ルーザ=ルーザも私を警戒しているようだし」

「わかった。……さて、あなたに検分いただくためにも、そろそろ奴を呼びもどさねばならないが、どこに行ったものかな」

 オレクタンテとロライマ将軍は、そろって庭園のほうを見たが、ルーザ=ルーザが戻ってくる気配はない。

 そのとき、広間の入り口にふくよかな中年の女があらわれた。

 髪を結いあげ、地味な衣装を着て透かし織の白い帽子をかぶったところは、一見したところ家政婦らしく見える。だが実はサウラは、夏至館でオレクタンテのために働いている魔術師だった。

「オレクタンテ様、お話中に申しわけございません。ですが、少し……」

 ロライマ将軍を気にするように口をつぐんだ。オレクタンテは立ちあがり、女のそばに行く。

「どうしたの、サウラ?」

「――客人の少年が、お母上の家に入りました」

 サウラの答えに、オレクタンテは目をみはった。

「なんですって? でも、庭園に結界は張ってあったんじゃないの?」

「術の存在に気づかれました。そうなると、破るのはさほどむずかしくありません。あまり強い結界ではないとはいえ……申しわけないことです」

 サウラは悔しそうに言った。

「いいのよ」

 サウラは優秀な魔術師で、十二分に働いてくれている。たんに魔術が万能ではないというだけだ。身を守るためには、武力というべつの力も必要であり、その算段をするのはオレクタンテ自身の責任なのである。

 ちらりとロライマ将軍を見て、サウラに目を戻した。

「サウラ。あの子には、霊感があるの?」

「見たところは、それほど。しかし気配には敏感なようです。それと、おそらくなにか強力な護符を持っているようで」

「失礼。ルーザ=ルーザがどうかしたのか?」

 聞きとがめたのか、ロライマ将軍も立ちあがった。オレクタンテは答えず、衣装をつまむと、さっと踵を返す。

「ついて行ってもよろしいだろうか」

「どうぞ」

 母になにかあれば、ロライマ将軍に責任を取らせねばならない。

 廻廊にそってすすみ、裏口へのほそい通路に入る。

 木戸を開けたとたん、母の家から笑い声が聞こえてきて、オレクタンテは思わず足をとめた。

「こんなにうまいスープは食ったことないよ、ラーレ!」

「あらまあ、そう? 嬉しいわ。そんなのでよければ、いっぱい食べてね。手伝ってもらえて本当に助かったわ」

「あれくらい、お安いご用だよ」

 夏なので、戸や窓を開け放しているのだ。ルーザ=ルーザは母のつつましい食卓に居すわっていた。野菜と豆のスープとパンを食べながら、さかんに喋り、笑っている。

 母もまた、楽しそうに笑っていた。

「――お母さん」

 なかば呆然とつぶやいた。その声に、ルーザ=ルーザがぱっと顔をあげる。

 その手元に、パンくずがいくつも落ちているのを見て、オレクタンテは思わず両手を腰にあてた。

「まあっ!」

 その声音に、ルーザ=ルーザは反射的に食卓を袖で拭いた。食卓は一時的にきれいになったが、パンくずはすべて床に落ちる。オレクタンテがさらににらみつけると、ルーザ=ルーザは射すくめられたように動きをとめた。ロライマ将軍が、あわててルーザ=ルーザをとがめる。

「こんなところでなにをしている、ルーザ=ルーザ」

 詰問にむしろ助けられて、ルーザ=ルーザは立ちあがった。しかし目は未練がましく、皿を見ている。

「この人が重いものを引きずっていたから、かわりに俺が運んだんだ」

「桶いっぱいの炭を運んで、水瓶まで満杯にしてもらったんですよ。私は足が悪いから、とっても助かったの。それで、お礼をと思って引きとめていたのよ。叱らないであげてくださいな」

 母は状況をわかっていなかったが、それでもルーザ=ルーザをかばって、ルーザ=ルーザとロライマ将軍のあいだに立った。

 そして、説明を求めるようにオレクタンテを見やる。

 ルーザ=ルーザも複雑そうな表情で、オレクタンテを見た。

「……ラーレは、あんたの母さんだったのか」

 オレクタンテは小さくため息をついた。

「――そうよ。私からもお礼を言うわ。母を助けてくれて、ありがとう」

「べつに。たいしたことじゃない、けど」

 うしろからついてきていた女魔術師のサウラが、ルーザ=ルーザの前にすすみでた。

「失礼ですが、もしや、なにか護符を持っているのではありませんか」

「護符? ああ、これのことかな」

 ルーザ=ルーザは首にさげていた護符を、服の下から取りだした。ロライマ将軍が身をのりだし、のぞきこむ。

「ああ、火神の護符だな。兵士ならたいてい誰でも持ってる」

「いえ、これは。……失礼」

 サウラは手をのばし、護符を手にした。

「――これはもしや、聖なる火神の山から取った火で鋳造した護符ですか?」

「うん。昔の名のある火神官の剣を溶かしてつくりなおしたんだ」

「し、しかも、この印は火神殿の大導師が祈りを捧げたしるしでは?」

「なに!? 大導師!?」

 ロライマ将軍も知らなかったのだろう、驚いて声を大きくした。

 導師は厳しい修行をつんだ高位の神官である。火神殿の大導師ともなると、武術であれ魔術であれ、実戦に秀でているのはもちろん、多くの武装神官を率いて指揮する器量もあるはずだ。首座神官にもっとも近い立場にある実力者だ。

 その大導師が祈りを捧げた護符があれば、生半な術など効かないだろう。

 しかしルーザ=ルーザはこともなげに肩をすくめた。

「アフラの人間が外の――つまり国や貴族の軍隊に入るなんて滅多にあることじゃないから、みんな気を使ってくれてさ。この大導師は俺の遠い親戚で、新月から満月まで神殿にこもって祈ってくれたんだよ」

「まあ、いい人ねえ。さっき話してた伯父さん?」

「いや、べつの人だよ」

 いったいいつの間に、母とルーザ=ルーザはこれほど親しくなったのだ。半ば呆れて、オレクタンテはふたりを見る。

 ロライマ将軍が、ちらとオレクタンテに目をむけたのが感じられた。

 どうやらルーザ=ルーザを受け入れるかどうかについて、悩む必要はなさそうだった。しかし少しばかり腹立たしいのはなぜだろう。オレクタンテにも、その理由はわからなかった。



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