第8話 アイシャはアイシャ
――アイシャ、あたしは嬉しいよ。あんたが期待どおりのことをしてくれたんだからね。少しばかり、悪戯がすぎたような気はするけど、悔いはないのさ。あたしがあんたに目をつけたという選択眼が間違ってなかったことも証明された。そう思うさね。
あんたは強情なくらい「あたくしはアイシャなのです」と言っていたが、あんたはヘラでもありアイシャでもあったのさ。あのアプロディーテーが、美と愛の女神であり、魔女でもあったようにね。そう、人というものは、時と場合によって神にもなれば、悪魔にもなるのさ。そうしたことを頭で考えると混乱しちまう。だから、トネリコの杖だとかヘーゼルの杖だとかいった、目に見えるものにして、昔ばなしという神話を作っちまったのが人間てものなのさ。べつにあの二本の杖がただの棒でも、何の問題もなかったのさ。ヘーゼルであるからこういう力を持ち、トネリコであるからこういう力を持つ。そんな考え方こそが、狂った連中の戯言ってわけさね。
そこには人間がいた。そいつらはこんなことを考えて、こんなめに遇った。良いこともあったし、悪いこともあっただろう。――なにかこれを上手く伝える方法はないものだろうか? きっとそう考えたのさ。そこででき上がってきたのが神話ってわけさね。だけども、馬鹿な連中ってのは、どこの世界にもいるんだよ。そいつらは、本当に神がいたと思い込んじまったのさ。そうして、昔ばなしの良い部分だけを持ち出して、そいつを囃したて、崇拝し、拝み倒すようになっちまったのさね。とぼけた連中だよ。いってみれば、アグリオスという男は、そういう罠にずっぽりはまっちまった可哀そうな男だったのさ。ちょっとしたあたしの悪戯でいい思いができて、あいつも楽しかったんじゃないかい。あたしはそう思うよ。生れてこのかた、どきどきするとか、ときめくことひとつ知らなかったんだからね、あの男は。可哀そうな奴でもあったのさ。まあいい、逝っちまった奴のことを悪しざまに言うほどあたしも邪険じゃあないからね。
ともかく、馬鹿な連中はいたのさ。それもたくさんだ。終いにそいつらは、もともとあたしらの中にあった神っていう名の善意を自分の外に作り出しやがった。そうだねえ、十字架に磔にされたキリストとか。十字架そのものとか、神が説教をしてくれている絵画なんかを指して、「これこそが神だ!」とか言いだしやがったのさ。けれどもアイシャ、あんたは一歩たりとも自分から抜け出そうとすることはなかった。いささか強情にすら思えたけどね。あの、「あたくしはアイシャです」という言いぐさはね。けどそれでいいんだよ。あんたはあんたさ。アイシャ以外の何者でもないさ。誰かがそうじゃないっていってみろ。あたしがそいつを懲らしめてやるさね。本当さ。そう、あんたは全能の神ゼウスの妻になるような立派な女神ヘラだったのであり、アイシャでもあったのさ。あんたが言った、「わたくしでないもの」もあんただったってわけだ。口や体が勝手に動いてしまうことにはなんの不思議もないのさ。智慧ってやつさね。たしかに、経験したことのない奴らからしたら、ただただ戸惑うばかりなんだろうけど、一度その感覚を味わったことのある者なら、「あたしは正しいことをしている」っていう、どこからともなくやってくる、いいや違うね、自分の中から湧き上がってくる「あたしは正しいことをしている」って声が聞こえてくるのさ。聞えてくるんじゃあないな。全身そういう感覚に包まれるってのが、一番ぴったりくる感覚かな。目にしている風景も、そこにいる人も動物も草花も、いやそれだけじゃあない、土や砂、汚れて錆ついた鉄の壁ですら輝いて見えるんだよ、その瞬間には。アグリオスに言わせれば、きっとこういうだろうさね。――マレイカを押し倒したくなったときに感じた恍惚? そんなものじゃあないんだよ、君! って具合さ。そうそう、あんたが宇宙で喜びに満たされたときに感じたものがそれさ。良いこと悪いこと、好きなこと嫌いなこと、嬉しいこと悲しいことが、よりあわさったもので満たされるのさね。
けれどもアイシャ、今夜見た夢は忘れちまいな。いつかまた湧き上がってきて、口と体が勝手に動き出すときはくるから。そのときは、その気持ちを素直に受け入れればいいのさ。あんたは、あんたが訴え続けたように、あたくしはアイシャという名前以外なにものも持たないということが、あんたの全てなんだよ。それだけを胸に抱いて信じればいい。そうしてくれたら、あたしはいつまでもあんたを愛し続けるし、大事にするよ。もちろん、からかったりはするけど、たくさんたくさん褒めてあげるさね。
だけど、この世界のしくみってのは悲しいものでね、あんたが見た宇宙やあんたが見た世界は、なにひとつ欠けることなくアイシャ、あんたのものなんだよ。あたしのものでもないし、ましてやマレイカのものでもない。わかるかい? あんたはあんたの宇宙の中であんた一人で生きているのさ。そしてあたしはあたしの宇宙の中で生きているのさ。けれどもあたしたちは同じものを見て、似たようにものを感じるときがあるよね。でもそれはあんただけが感じられるあんたの宇宙なんだよ。それと同じように、あんたと同じものを見ても、あたしはあたしにしか感じられない宇宙を見ているってわけさ。それでも似たような気持ちになる。そのわけはねアイシャ、あたしとあんたの宇宙が重なりあうことができるってわけさ。ただし、ぴったり重なりあうことってのは不可能らしいんだけどね。偉そうに話してるけど、なあに、こんなことはあの白衣の男アグリオスに教えてもらったことなのさ。長いこと信じられなかったんだけど、いまは信じてることさ。この永遠のような眠りについたとき、あたしはアグリオスとも、マレイカとも、もちろんアイシャ、あんたとも紙一枚ずれることなく重なりあえることを知ったからさね。いつまでもこうしてずっと一緒にいられるし、あたしたちが思ったことがこれっぽっちもずれるなんてことはないんだからね。だから今もあたしの思念がそのままあんたに届くというわけさ。
アイシャ、あんたはこのままずっと眠っていたいのかい? それともいつか目覚めてあたしやマレイカとともに、誰かのために尽くしてくれるのかい? そいつにどんな意味があるのかは、言わなくてもわかるよね? いいさ、答えなくていいのさ。あんたがなんて答えるかはもう知ってるからねえ。ただ黙って肯くのさ、あんたは。だけど、そのときがいつくるのかはあたしにもわからないんだ。いいや、知っているといえば知っているんだがね。しょせんあたしもあんたと同じ身の上なのさ。エロスはエロスでしかないのさ。聞こえたかい? アイシャ。
とはいえ、そいつを本当の意味で実感するには、こんな風な思念ではできやしないことはあんたも知っているはずさ。だからそろそろ眠るよ。実はだね、本当のところ、あたしとあんた、いやそれだけじゃあない、マレイカやあの男とぴったり重なりあえるのは眠っているあいだだけなのさ。わかるよね、アイシャ。――なんだかあたしは嫌な女を演じてるみたいじゃないかい。意地悪な女みたいじゃないかい。まあいいさ、あたしは女でもないし男でもないんだからね。新星人ってのはけったいで気に入らない名前だけど、どうやらそういうものらしいよ。どこだったかな。そう、まだあたしも見たこともない星だけど、地球って星のとある国では、あたしのような奴を「目覚めた人」と呼ぶらしいんだがね。けれどもけったいな話じゃないかい。眠ってるあいだだけ「目覚めた人」になれるってのは。まあいい。全部忘れちまいな、アイシャ。どっちにしろあんたはなにもかも知ってるんだし、思い出すこともできるんだからね。
そうさねえ、今度はあんたに夢の戯れの仕掛け人をさせてやってもいいさ。マレイカにやらせてやったっていいさね。あの男アグリオスにやらせてやってもいいのさ。まあいい。そのときがくるまで、あたしも眠ることにするよ。
そうだ、忘れていたよアイシャ。あんたが信じる先に見つけ出そうとしたこと。それはね、あんたとあたしが離れていても、まるで一緒にいるみたいに感じるようなあたたかい気持ちになろうとすることさね。それじゃね、おやすみ、いい夢を見るんだよ、アイシャ。
~完~