第7話 わくわくを探しに――ねむり姫、夢へ帰る
美と愛の女神アプロディーテーのおこした小さな騒動は、アイシャの智慧によって治められた。彼女は自分自身知りもしない力を行使して、岩壁の部屋でおこった記憶の一部を二人から消し去り、やがてアプロディーテーをともなって、ウルジュワーン根拠地を後にしたのだった。
「この宇宙は退屈なのです。あなたはそう言いましたが、本当にそうでしたか?」
「そうとも言い切れません、ヘラ様。一か所だけとても興味を惹かれた場所があったのです。青くて丸っこいものなのですが、ところどころに白い模様があって、その隙間から、あの丘にあった緑が萌えだしていた塊りがあったのです。あれは美しいものでした」
「それは地球のことでしょう。あなたがさっきいた星で見た人間というものたちがたくさん暮らしている惑星です」
「ほし、ちきゅう、わくせい、にんげん……男と女ですね!」
アイシャは優しく微笑んでいた。
「そうです、男と女です。大人もいれば子供もいるのです。年寄りもいます。そうした人たちを人間というのです。惑星と呼ばれる地球です。――アプロディーテー、あなたはそこへいって学びなさい。きっと楽しいものがたくさん見つけられることでしょう。そう、たくさんです」
「よろしいのですか? 実はわたくし、またあの退屈な丘に戻るのがすこし嫌だったのです」
「あなたの気持ちはよくわかります。ですから、地球へいきなさい。あたくしはあの丘、トネリコの木のある丘へ帰りますので」
「ありがとうございます、ヘラ様。あたくし何だか少しわかってきましたよ。そわそわとは違う感覚がどんなものかを。わくわく。――わくわくというのですね。それではヘラ様ご機嫌よう! わたくしは参ります」
アプロディーテーは、純白の羽衣を宇宙風に揺らし、紫と桃色の鱗粉をまき散らしながら、地球へと向かいはじめた。
「せっかちな女神、美と愛の女神よ、きっとあなたはさきほど口にした嫌というものにも出会うことでしょう。そして悲しみにも出会うことでしょう。胸をえぐるような深い悲しみに。しかし、恐れてはなりません。決して恐れてはならないのです。それを忘れないことです。聞こえましたか? アプロディーテー」
「大丈夫です! わたくしは恐れませんから!」
ずっと遠くに離れてしまい、星に紛れてしまったような彼方から、美と愛の女神の思念が響いてきた。
――わたくしはあなたを信じます。わたくしにできることはそれだけですから。
思念に耳を澄ますために目を閉じていたアイシャは、ゆっくりと瞼をあげると、みどり濃きトネリコの丘へむけての飛翔へと旅立ったのだった。
――あの場所は遠いのです。すこし眠りましょう。そしてわたくしはあの方の夢を見るのです。
「おやすみなさいませ、エロス様。しばらくのお別れですが、アイシャはいつもあなた様とともにあるのです」
するとどうだろう、それまで輝きを失っていたトネリコの杖が強い光を放ち、宇宙に青緑色の流星が流れたかと思うと、もうそこには何も見いだせなくなっていたのだった。彼女は自分自身の眠りの中に帰っていったのだった。
「だらしのないエロス様、いくらお疲れだからといって、ベッドにもあがらずにお眠りになってしまうなんて」
アイシャの目は、ベッドに腰をかけたまま居眠りをしている主人にそそがれていた。
「こんなに体が冷えていらっしゃる」
囁くような声にふと誰かの存在を感じたのか、エロスは低く小さな声をあげたが、目を覚ますことはなかった。
「さあこれを……」
外套のように着重ねていたトーガを引きはがすと、アイシャはそれでエロスを包み、その身をベッドに横たえさせた。
「マレイカ……マレイカか……」
「まあ、いじわるなエロス様。ここにいるのはアイシャでございます。なんだか少し淋しい気持ちがいたします」
そう言うと彼女は、大きなベッドで眠る主人の傍らに身を横たえてしまった。
「おしおきです。もっともこんなことをしたならば、おしおきを受けるのはわたくしのほうなのでしょうが。それでも構いません。いくらでもお受けいたします。ですから、側にいさせてください」
アイシャは、エロスの長く伸びた薄紫の髪をなでながら、色白な顔をじっと見つめつづけていた。時間がたつという感覚を失いそうになるのを感じたとき、彼女もまた眠りに落ちていったのだった。