第6話 妖精学者ヘラ――アプロディーテー学ぶ
「なんだかひと仕事終わらせた気がしますわ」
そう言ってアプロディーテーは、部屋の入口近くに椅子を移動させて腰をかけた。
「いったい何年ぶりだろうか、こういう気持ちになったのは。生まれてはじめてだ。なんだろうこの恍惚感というものは」
愛欲に目覚めてしまったアグリオスが、ベッドに横たえられたマレイカの服に手をかけようとしたとき、
「なにをされているのですか、おやめください!」
という声がした。
「ヘラ様! どうしてここに!?」
アプロディーテーの視線の先に立っていたのは、眩くように輝いているトーガを身に纏ったアイシャだった。
「なぜヘラ様がここにおられるのですか?」
「なにをおっしゃっているのですか、わたくしはアイシャであります」
「なにをって、どこをどう見てもわたくしの目にはヘラ様にしか見えないのですが……」
「わたくしはアイシャです。アイシャ以外の何者でもありません。アイシャという名のただの女です」
彼女は毅然としてそう答えた。
「おいおい、どうなっている? どうでもいいが、邪魔はせんで欲しいなあ。どちらにしても俺様はこれからお楽しみなんだからな」
白衣の男は振り向きもせずにそう言いながら、マレイカの服をはぎとろうとしていた。
「おやめなされ、そこの男。その娘はわたくしの可愛い弟子であります。いかがわしく見えるあなたのような方に汚させるわけにはいかないのです! さてはアプロディーテー、あなたがあの男をあんな風にしたのですね。許されざることです」
輝くトーガから青と緑の鱗光をちらつかせながら、ゆっくりと老婆のほうへ足を運びはじめたアイシャは戸惑っていた。
――あたくし、何を言っているのでしょうか。なぜだかわかりませんが、口と体が勝手に動いてしまうのです。
「その手にもっている杖。あなたはそれにどんな力が秘められているのか知っているのですか」
「ああ、これはその辺に落ちていた棒なのですヘラ様、ただそれだけのことなのです。それになんだかわからないのですが、妙に胸がそわそわして、この男を杖で打ってしまっただけなのです」
アプロディーテーの傍らにやってきたアイシャは言った。威厳のある声で。
「そわそわですか。きっとあなたにはまだそれがわからないことでしょう。不安、恐怖、悪意、悪戯心、そんな言葉で説明されるものです。別の言い方をすれば、なんとなく不幸になってしまえばいい。そしてそれを見て楽しんでしまいたい。そういう気持ちをそわそわというのです。わかりましたか?」
「そうですか。――不思議な気持ちですね、そわそわとは」
「さあ、その榛の杖をお貸しなさい、それは危険なものなのです。人をそわそわさせることが出来るのです。ついうっかりしたことに、旅の間にわたくしが失くしてしまったものなのです。ただの棒ではないのです。榛の木から作られた杖なのです。とても間違いやすいのです。榛などと呼ばず、ヘーゼルと呼べば混乱は避けられるのです。これからはそう呼ぶことにいたしましょう」
アイシャはアプロディーテーを優しく抱きかかえながら話し続けた。
「さあもうこの仮面も外してしまいましょう。これは魔女の仮面なのですから。魔女は、人を貶める存在なのです。今ここにはありませんが、死人の手を切り取って杖にしたものはとても邪悪なものなのです。いつかあなたにも見せてさしあげましょう。それと比べれば、ヘーゼルの杖はたわいのないものです。見えないものを見せたり、本来心にもないものを植え付けるぐらいの力しかもっていないのですから」
「ヘラ様、あたくしはまだよくわからないのです。あの丘にあったような楽しみに出会いたかっただけなのです。そうしてここまでやって来ました。二人の声が気になったのです。なぜだかわかりませんが、彼らのしていることを止めなければならない、ただそう思っただけなのです」
「アプロディーテーよ、あなたの気持はわかります。まだあなたは勉強不足なのです。あなたのしたことに間違いなどないのです。しかし、憶えておきなさい。わたくしたちは彼ら人間に干渉してはならぬのです。そう、学んできちんと対処できるようになるまでは。わたくしの言っていることがわかりますか? アプロディーテー」
「はい、わかります。ヘーゼルの杖は、つまりその、わたくしが正しい美と愛を知ってから使うべきものだった。そういうことなのですね」
「そうです、そのとおりです。自ら不幸になるような人間を救うためにあるのが、この杖なのです。むやみに人と人を愛し合わせるために使ってはならないのです。美と愛は自然のなりゆきのなかから生まれるものなのですよ。さあ、もうその仮面をおはずしなさい。魔女は悪意に満ちた存在なのですから。好きでもない相手を好きにさせたり、そんな気持ちもないのに、愛するがあまり、その人を殺してしまいたくなるような心を与える存在なのですから。素顔をおみせなさい、アプロディーテー」
「はい、ヘラ様」
こくりと肯いた老婆は、くすんだみどり色の手をのばして仮面をはずした。すると、そこには純白の羽衣に身を包んだ女神の姿があった。
「なんだかわからんが、いい雰囲気じゃないか。それにこの香り、これは薔薇だな。いよいよやる気になってきたじゃないか!」
「やめてください! でないと本当に承知しませんよ!」
怒気の込もったアイシャの声が部屋を振動させた。
「ヘラ様!」
「あたくしはヘラではありません、アイシャです。なんど言えばわかってくれるのですか?」
「でも、ヘラ様はヘラ様ですよ」
「あなたがわたくしをなんと呼ぼうがかまいません。ヘラと呼ぼうが、女と呼ぼうが、子娘と呼ぼうが、侍従と呼ぼうが、侍女と呼ぼうが、召使いと呼ぼうが、ヒトと呼ぼうが、人間と呼ぼうが、はたまた女神と呼ぼうがかまいません。しかし、わたくしにはアイシャという名前しかないのです。それ以外のものになれはしないのです。アイシャはアイシャでしかないのです。それ以外に説明のしようがないのです。――そうですね、わたくしの知る限り、トネリコの杖を振るう者は妖精学者と呼ばれることもあります。そう呼んでもらっても構いません。ですが、しつこいようですが、あたくしにはアイシャという名前以外、なにも持たない存在なのです」
「うるさいんだよ、女! 少し黙ってろ!」
「やめなさい! やめないというならば、実力行使も辞しません」
「やってみろよ!」
アグリオスは構わず、マレイカの上着の留め具を外しはじめた。
「しかたのない人ですね」
つかつかとベッドのほうへ歩みよっていったアイシャの手には二本の杖が握られていた。左手にヘーゼルの杖が、右手にトネリコの杖が。
「もう怒りましたよ、承知しません」
――あれでもこれ、どちらの杖がどちらだったかしら?
「ふへへへへへ」
男が全ての留め具を外し終えて、自らも白衣を脱ごうとした刹那、
「ラミパスラミパスルルルルル~!」という美しい音声とともに、アイシャの手が振り下ろされた。
――あってたかしら? 確か右で良かったはずだけど……。
するとどうだろう、アグリオスの体が、ぴくりと痙攣して忙しそうに瞬きをしたあと、
「私はなにをしていたんだ? それに、あんたたちは誰だい? 女神?」と言いだしたのだった。
「さすがヘラ様! それで、その杖はなんの木でできているのですか?」
「これはトネリコの木でできた杖です。そのうち教えてさしあげましょう、その意味を」
そういってアイシャはにっこりとほほ笑んで見せた。その瞳は澄みわたった青空のような色を湛えていた。
「妖精学者……。わたくしもそうなりたいものです。魔女はもう懲り懲りです」
アプロディーテーはうっとりとした表情でアイシャを見つめていたのだった。