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第4話 宇宙――どこからきてどこにゆくのか

 闇に染められた無窮の宇宙を、青と緑をした光の鱗粉をたなびかせながら、アイシャは進んでいた。透明な翼をはためかせることもなく。

「わたくし、どこに向かっているのかしら? でもわたくしの心は知っているのです」

 彼女は、光よりもはやく宇宙を飛翔していた。アイシャが出発したのは、アプロディーテーが旅をはじめた場所と同じだったが、彼女は迷うことなく海王星を目指して飛んでいた。

 濡れた睫毛のある閉じられた瞼を透して、胸もとで組み合わされた両手で、アイシャはエロスの居所を感じとれると思った。そしてそれを疑うことはなかった。ふとした瞬間、何かに導かれて目を開けると、そこには心躍る星々の世界があった。

 まるで、肉球のように並んだ猫の手星雲は、燃えるような絵画だった。どこか愛らしい顔で見つめかえしてくる、ふくろう星雲は蒼く霞のように浮かんでいた。あの丘で咲いていた薔薇がローズピンクの星雲になって萌えていることもあった。水色に輝いた、かに星雲は、金やだいだい翡翠ひすい色の糸が絡まった芸術的作品のようだった。虹色の幻想的な星雲には、この世界にある色がすべてあるように思えた。言葉を失うような絶景は、鍾乳石のようでもあり、馬がいなないているようにも見えた。

 星々の世界は想像の枠を遥かに超えて、彼女の心をしだいに喜びで満たしていった。歓喜が心におさまりきらないと感じた瞬間、アイシャは溢れんばかりの思いを超新星のよう爆発させることしかできなかった。喜びという光と悲しみという光に自由を与えたのだ。

 ――素晴らしい、すべてが素晴らしい! なんと美しい世界なのでしょうか。はじめて見るものばかりなのに、なんだか懐かしい感覚がするのはなぜなのでしょうか? 不思議でしかたがありません。なにもかも知っているような気がするのです。なぜわたくしはあの先に天の川銀河があり、太陽系があり、冥王星があり、その先にある海王星へ向かっていることがわかるのでしょうか? 確かに、わたくしは海王星で生まれ育ちました。ですけれども、両親の顔さえ知らない孤児でした。そうです、海王星で生まれたのかすら本当は定かではないのです。いったいわたくしは、どこからきてどこへゆくのでしょうか? それでもなお、この胸は、あらゆるものを知っていると囁くのです。いったいわたくしはどうなってしまったのでしょうか? それでもわかるのです。わたくしにはわかるのです。そう、本当のところエロス様は海王星のエルジュワーン根拠地にはおりません。いま、エロス様は、そこから出発された宇宙船の中でお眠りになっているのです。<アンドレイア・フィーリア>号の冷凍睡眠カプセルの中で、ゆっくりとお休みになっているのです。楽しい夢をご覧になっておられるのです。そしてこの先、エロス様は……。いけません、それを考えてはならないのですアイシャなどが。わたくしが知るべきことではないのです。ええ、知ることはできます。いいえ違うのです、思い描くことができると言えばいいのでしょうか。そうです、わたくしは知っているのです、エロス様の未来の行く末を。知りたい、知ってしまいたい。けれどもそれが悲しい未来に繋がっているのだとしたら、何一つ知りとうないのです。でも、知りたいという気持ちを抑えることもまた難しいのです。そうすれば、このアイシャがなにかエロス様の役に立てるかもしれないのですから。そうです、いま未来を知ることは不幸なことなのです。思い描いてみるにしても、しょせんはいまのわたくしが知る世界の中でしか思い描けないということが、未来を不幸にしてしまうような気がするのです。かといって、知らない世界を知り尽くすためには、今のあたくしなどには力不足だと感じるのです。なにかが、なにかが足りないと感じるのです。信じること。それはわたくしにとってはたやすいことなのです。しかし、その先にはきっと何かがあるのです。そしてそれは、こうして言葉にすることで儚くも失われてしまうと感じるのです。言葉にすることは、愛しきお方、エロス様のお名前さえ口にしてはいけないとさえ思うのです。ましてや、声に出して言おうものなら、粉々に砕け散って、きっと未来は永遠に失われてしまうのでしょう。声にさえできない悲しみとは、なんと辛いものなのでしょうか。声にできない悲しみに、わたくしは、アイシャは、耐えていけるものなのでしょうか。声にできないとても深い悲しみを、わたくしはどうすればよいのでしょうか。こんなことを考えてしまうわたくしは一体何者なのでしょうか? 自分自身がわからなくなりました。自分がとても遠く、とても深い悲しみに暮れていることだけはわかるのです……。

 「星々よ! この悲しみをどうすればいいというのですか? 答えてください!」

 アイシャの閉じられた目尻から、涙の滴が、ひとつぶ、またひとつぶと宇宙へ漂っていった。

 ――目を開けなさいアイシャ、目を閉じていることであなたの心は悲しみに支配されてしまうのですから。目を開けるのですアイシャよ! わたくしはわたくしなのです。アイシャはアイシャでしかないのです。ただ目の前にあるものを見つめ、ただこの脈打つ心臓に宿っていると思える心を信じるしかないのです。目を閉じてはなりません。目を開けるのです、アイシャよ。

 見開かれた彼女の瞳には、海王星が映っていた。

「わかりました、エロス様。あたくしがなにをするために此処へやってきたのかが。エロス様、アイシャはただなすべきことをなします。それが、きっとわたくしでないようなわたくしをも満足させるのでしょう。そう信じることにいたします」

 光の鱗粉を漂わせながら、海王星の衛星ネレイドにあるウルジュワーン根拠地に降り立ったアイシャに、もう迷いはなかった。

 手にしたトネリコの杖はまだわずかに青緑に輝いていたが、しだいにその光は弱まっていくようだった。

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