第3話 マレイカとアグリオス――男と女の騒動、再燃!
宇宙に中心があるとしたら、アプロディーテーの旅はそこからはじまった。箒にのった魔女の姿をした女神には、ロケットも宇宙服も必要なかった。どこまでいっても退屈をしのぐものを見つけられなかったアプロディーテーは、ときには光の速度さえらくらくと飛び越えて、楽しみを探す旅を続けていた。
「ほんとうにここは退屈な世界ね、きっと外の世界には生き物がいて、楽しいことがたくさんあると思っていたのに。あの丘にいた蛇や鷲、そういうものがいるとばかり思っていたのに」
アプロディーテーは、自分の体重さえ感じられない空間に、たいしたものを見いだせなかったのだ。石や土が寄りあつまり、あやふやな形になった塊り。あの丘にあった風と川が混ざりあいながら丸くなった塊り。そういったものがまばらに漂っていただけなのだ。時折り、虹色に輝いている美しい雲を見つけたり、自ら光を放つ太陽の群れに出会い、感嘆の吐息をもらすこともあった。しかし、美しさに惹かれて近づいてみると、そこにあるものは、やはりあやふやだったり丸かったりする塊りでしかなかったのだ。
「いった誰がこんなに退屈な世界を作ったの? あの丘にあったような面白さは、どこにもありはしないのかしら?」
アプロディーテーの胸に強い郷愁の感情が湧きあがりかけたとき、彼女はふとナニモノかの声を耳にしたのだった。
「なぜだ! なぜ私がエロスを探しにいってはいけないんだ! どけ! どくんだ! マレイカ!」
「アグリオス様、なりません! あたくしはエロス様からきつく云いつけられているのです。アグリオス様をお守りしろと」
「マレイカ? アグリオス? この声はいったいどこから? ――なんだか楽しくなってきたけれど、これは楽しいという感じではないわね」
アプロディーテーは、ぎらつく大きな目を、一層と大きく見開いて、
「なぜだかわからないけど、急がなければいけない気がしてきたわ」とつぶやくと、声のする方へ箒の柄を向けて、時空をひとっ飛びしたのだった。
声を頼りにやってきたアプロディーテーは、美しく青い球体を目にして、ぐうっと箒の速度を落とした。球体の部分部分には白い靄のようなものが渦巻き、その隙間からはあの丘にあった、まばゆいばかりのみどり色が見えていた。
「この丸っこいもの、これはこれで綺麗ね」
アプロディーテーは、思わず口からでた言葉とは裏腹に、その球体の美しさに心を奪われていた。そのとき、また声が聞こえてきた。
「私はやれるだけのことをしたんだ! 高次元砲も完成させたじゃないか。私は宇宙にある謎をこの頭脳で解き明かしたんだ、もう科学で手に入らないものはないんだ! だから、そこをどけ! マレイカ、どくんだ!」
「いけません! あたくしが罰を受けるのです。どうか、ご理解ください。アグリオス様は、あたくしを見殺しにするのですか!?……」
「いけない、いかなくちゃ! ――低い声と高い声が、かわるがわる聞こえるんだけど、これはどういうことなの?」
アプロディーテーは、心の中にあった好奇心が、なにか別のものに変わってゆくのを感じ取っていた。
――ふあん? ぎもん? なんだからわからないけど、そういうものらしいわね。
ぐぐっとスピードを上げた箒に乗った魔女の姿になった女神は、すぐさま目的の場所へとたどり着いた。声はさきほど見た青く美しい球体と比べたら、非常に小さなものから発せられていた(そのものは、さっき見た青く美しい、丸っこいものの三十分の一ほどの大きさだった)。
「あれはなに? いったいなんなの?」
女神の瞳が大きく見開かれた。彼女からしてみれば、いま感じている感覚は「こういうことだ」と語句にして説明することなどできないのだが、もしそれが出来るとしたら、アプロディーテーはこう言ったことだろう。
「驚きね!」と。
女神の瞳には、海王星の衛星ネレイドに建設された暗黒崇拝教の艦隊基地――四角錐の頂部を切りとった形状をした、ウルジュワーン根拠地が映っていたのだ。
「声はあの中から聞こえるようね。でもどうやってあの中に入ればいいのかしら?」
そのとき、アプロディーテーはあの丘で目にした、金色の流れ星を思い出した。
「きっと、中に入れるわ。さあいくわよ!」
魔女の姿をした女神は、えいや! っとばかりに、スピードをつけて、特殊鋼でできた根拠地の壁へと、箒もろとも体当たりを食らわせたのだ。
「いったーい!」
アプロディーテーの口から、自分自神知りもしない言葉が吐き出された。
「いまわたしなんて言ったの? というか、なんなの、この頭がくらくらする感覚ってば……」
痛みに耐えながら、ぶるぶると頭をふったアプロディーテーの傍らには、粉々になってしまった箒の破片が散らばっていた。
「なんてことなのでしょう! でもきっと中にはいる方法はあるはずよ」
建物に近づいた女神は、壁に一本、棒状ものが立てかけられているのを目にした。
「あれを使えばいいのかしら? たしか杖というんだったかな。お医者様のアポロンが持っているのを見たことがあるわ」
そう言って、アプロディーテーは壁に立てかけられていた杖を手にとった。手触りは悪くなかった。けれども、その時から彼女は、そわそわした気分を感じるようになったのだ。その杖は、榛の木でできた杖だった。
――よかん? よかんていうの? なんだか力が漲ってきたわ。この壁は通りぬけられるのよ。きっとそうよ。
「さあいくわよ!」
榛の杖を手にしたアプロディーテーは、えいや! っとばかりに、もういちど壁に体当たりを食らわせようとして、
「いったーい! いたいじゃないの!」と、ふたたび大声をあげたのだ。
あまりにも勢いがよかったせいか、女神は壁を突きぬけて、その先にある部屋を三つほど通りこして、地面に頭を打ちつけたのだった。かぶっていたフードが脱げてしまった頭には、赤くはれ上がった瘤がふたつできていた。
「なんということでしょう。こんなに簡単だとは思いもしませんでしたよ」
くすんだみどり色の額にできた瘤をさすりながら、アプロディーテーが立ち上がったとき、また声が聞こえてきた。それは、とても生々しい声だった。
「あたくしは女でございます。なぜエロス様がマレイカをアグリオス様の侍従になさったのか、おわかりになりませんか!?」
「女であろうと、男であろうと、そんな事は関係ない! 君はただの召使いじゃないか。それがどうしたというのだ!」
「落ちついてください、アグリオス様。もう大きな声を出すのはおやめください。お願いですから!」
――いけないわ。なんだかわかりませんが、止めなければなりません。
衝動に突かれたように歩き出したアプロディーテーは、いくつかの壁を通りぬけて声のする方へと足をはやめていった。そうして、彼女は視線の先に、ふたりの人間、男と女がいるのを目にしたのだった。 それは、アプロディーテーがはじめて目にしたヒトというものだった。