第2話 エロス様を探して
アイシャはもう長いこと主人の姿を探し求めていた。
「エロス様の気まぐれときたら、本当に困ったかぎりです」
ゆるやかな丘を登ってゆくアイシャの顔に疲れはなかった。空へとまっすぐにのびた葦に膝をくすぐられているのが心地よかった。穏やかな風が吹きおりてくる丘の頂には、背の高いトネリコの木が見えていた。
「きっとあそこにいらっしゃるんですね。この辺りで目につくものといえば――」
確信を胸に秘め、アイシャは丘を登る足取りをはやめた。ゆったりとした絹織りのキトンが、さらさらと音をたてている。まるで、その音をききつけたかのように、一匹の蝶がアイシャをトネリコの木へ、
「さあ、いそいで、さあ、いそいで」と、導いていた。
「あなたはエロス様の居所をご存知なのですか? よいでしょう、わたくしはあなたを信じます」
アイシャは青緑に輝くカラスアゲハとともに、葦のしげる丘をぐんぐんと登っていった。蝶は彼女の言葉を理解したかのように、アイシャが疲れて苔むした岩に腰かけて休んでいるあいだも、側を離れることはなかった。
「せっかちなのですね、あなたは。わかりました、いきましょう」
そんなふうにして、アイシャとカラスアゲハは、休んでは歩き休んでは歩きつづけた。ようやく彼女たちが丘を登りきったとき、そこにエロスの姿はなかった。
「なんてことなのでしょう」
思わずアイシャはため息まじりに非難の声をあげてしまった。その声に驚いたのか、カラスアゲハは、空高く舞い上がり、彼女のもとから飛び去っていった。アイシャはもうどこにも、陽光を照りかえす青緑のひらめきを見いだせなくなってしまったのだ。
「なんてことでしょう、あなたまで……」
――それにしてもここは不思議な星ですね。このように美しい星が宇宙にあるなんて、あたくし想像だにもしたことはありませんでした。
一人物思いにふけるアイシャの遥か頭上で、姿を消したはずのカラスアゲハが、トネリコの枝にとまっていた。
――カラスアゲハねえ。これもまたけったいだねえ。だいたいにおいてカラスっていうものは、不吉なものだよ。そういう蝶を心から信じるアイシャの純粋馬鹿さ加減は大したものだけど、物事そう上手くいかないんじゃないかい? きっと何かが起こるさ。というか、この夢はそういう悪戯をあたしにしていいって暗示だろ?
エロスはしばらくのあいだ、どうやってアイシャを困らせてやろうかと考えていた。
――あの娘は、少々のことで落ちつきをなくすような娘じゃない。はてさて、そのアイシャを動揺させようとなるとねえ。そうだよ、いい手があったよ! こうすりゃいいのさ! チチンプイプイっとな! ――われながら幼稚な呪文だとは思うが、まあいいだろう。ともかくも夢の続きが楽しみではあるのさ。
満面の笑みを湛えたまま、エロスの旅は続いていた。
するとどうだろう、枝にとまっていたカラスアゲハは、木と同化して一本の杖になり、高い空からアイシャのもとへと落ちていったのだ。カラスアゲハと木は消えさり、トネリコの木でできた一本の杖になったのである。不思議なことはもうひとつ起こった。アイシャの着ていたキトンもまたその瞬間、蒸発するかのように消えてしまったのだ。咲き誇った薔薇が、膝たけにのびた葦が、アイシャの恥辱に耐えかねる叫びになぶられた。
「どうなっているんですか!? 蝶が消え、木が消え、そしてわたくしの服までもが! なんてことでしょうか!!」
アイシャは裸であるという恥ずかしさを消し去ろうとして、身を隠すものを探してあたりを見まわした。
「ありません、ありません、ないのです、そんなものはどこにもありません! なぜなのでしょうか。なぜではありません、ないものはないのです。アイシャよ、落ち着きなさい。ないものはないのです」
羞恥心が絶望的なまでに高まっていたアイシャの目が何かにとまった。そこにあったのはトネリコの杖だった。
「いくらなんでも、これだけで大事な部分は隠せません。でもないよりは……」
杖を拾いあげたアイシャは、何かに触れるということが、何もないという気持ちをどこまでも和らげてゆく気がした。しだいに冷静さを取りもどしたアイシャは、
「むりです、隠せません。こうしてみても、こうしてみても、こうやってみても隠せはしません。できません、むりなのです」
などとつぶやきながら、杖と格闘しているうちに、あることに気づいたのだった。
「誰もおりません。エロス様もです。なにを恥ずかしがる必要がありましょうか。とりあえず杖もあります。大丈夫です。わたくしはこの美しい星を信じます。そうです、きっと奇跡は起こるのです」
そういうとアイシャはにっこりと青い空を見あげて微笑んでいたのだった。
――なんてこったい、呆れるねえ。純粋馬鹿もあそこまでいくと、あたしにはお手上げさ。
エロスは心の中で笑いを噛み殺しながら、アイシャの逞しさに肯き、次なる展開に楽しみを見いだそうと、心を決めたのだった。
トネリコの木が消えた丘を夕日が染めあげていた。
「いけませんね、このままでは夜が来てしまいます。きっと風邪をひきます。裸ですから。でも大丈夫なのです。信じさえすれば、不可能などありはしないのですから。きっと飛べます。わたくしは飛べるのです。夜空は寒くないのです。さあ行きましょうアイシャ。エロス様を探しに!」
類い稀なる天才芸術家の手になる彫像のようなアイシャの肢体は、沈みゆく夕焼けに抱かれて、神々しく美しかった。すでに自分を取り戻していたアイシャには何一つ恐れはなかった。
「さあ行きましょう、エロス様のもとへと!」
そう声を立てたアイシャは、トネリコの杖を手に丘を駆け下りはじめた。葦と薔薇が騒がしくゆらめかれる足取りになったとき、アイシャは杖をひとふりした。
「ケセラン・パセラン!(これは恋の呪文だったような気がしますが、かまわないでしょう、きっとききめはあります。わたくしはそう信じるのです。わたくしは恋がどういうものかも知りはしませんが) さあ、エロス様のもとへと導きなさい! (少し不安なので、もう一度唱えておきましょう)結接蘭 破接蘭! (念のためにいま一度)KE―SE―RUN PA―SE―RUN! さあ、エロス様のもとへと導きなさい!」
アイシャが三度杖をふり、三度呪文をとなえると、背中から透明な羽毛でできた翼が生えだし、鱗粉のようなきらめきがアイシャの全身を包みだした。それから、宵闇の空へと舞い上った裸の女神は、この世のものとは思われない生地で織られた、トーガを纏いながら、暮れかけた夕空へと駆け登っていった。青緑色の光の粒を輝かせながら。