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5 三日月


 割れた皿のようだと言い、鎌のようだとも言った。

 ようやく暮れ始めた色の空に引っかかった三日月を指して、浴衣姿の恋人はロマンや色気を素通りして、物騒この上なく例えた。

「せめて、ナイフとか……」

「それが、ロマンや色気?」

 くすくすと肩を竦めて笑う可憐な恋人に、男のロマンさ……胸を張って応えた。


 ざくざく……。

 ざくざくざく……。

 日暮れ時の山の斜面では、土の色などわからない――ただ、掘り起こす土の匂いは湿り気を帯び、微細な生命の生々しさを感じさせた。

 木立の向こう、黒々と影になる樹々の隙間から微妙に明るさを残した空に、うっすらと引っ掻き傷のような月が見えていた。

 あの月が消えてしまうまでに済ませれば、完璧だ……。

 朝、出張として家を出る姿は近所に目撃させているし、最寄り駅の改札の防犯カメラにも写っているはずだ。秘かに家に戻ったことは、誰にも知られてはいない。

 大型スーツケースの中の妻は、昼を跨いで買い物にでかけ――帰宅時に、玄関先で先日も立ち話をしていた近所に住むという老人と挨拶を交わしているので、その時間まで生きていたことは証明されるだろう。

 妻のワンピースを身に付け、大きなサングラスと日よけのストールで、人目をはばかり旅立とうとする姿を装って顔と体型を隠しつつ、ほど良く通りの商店や信号のある交差点等の監視カメラに足跡を残しておいた。

 出張先のホテルのチェックインは、朝の最寄り駅の改札同様――恋人が男装して済ませておいてくれる手筈だ。

 アリバイは成立している。

 夫の出張中に妻が失踪――あとは、近頃、妻の様子がよそよそしく、隠し事をしているようだった……夫婦の恥をさらさざる得ない苦渋の表情を浮かべて見せ、己の不甲斐なさを省みて、捜索を断念することにすれば……深く追及されずに終わるだろう。

 ざくざく……。

 ざくざくざく……。

 就職してこの方、仕事内容は営業職だが、学生時代は上下関係の厳しい運動部にいたのだ――穴掘りくらいの肉体労働は、昔取った杵柄というもの。当時の理不尽な命令や体罰を思えば、なんてことはない。

 ざくざく……。

 女性とは言え大人ひとりを埋めようと思えば、大きく深い穴が必要だ。スーツケースに収まった、膝を抱えたままの姿であれば、深さの方がより必要だろう。

 他人のおいそれと寄り付かない場所であることは事前に確認していた。それは、油断していたのかもしれないが、それ以上に一心に掘り進めていたため、さくさくと、土を掘るより軽い足音が背後に迫っていたことに気付かなかった。


「ぐっ……」


 それは、衝撃だった。

 実際、背中に突撃を受けていた。

 穴の淵に立っていれば、落下は必然――それでも、頭を打つ打とか首の骨を折るだとか、致命傷を免れたのは、土が柔らかかったからだろう。しかし、何事かと身体を起こそうとしたところで、背骨を掠めて――激痛と違和感に襲われた。

「なっ……?」

 見上げるいびつに丸いそこに、人影を認めるより早く――どさり…硬くはないが、重たく冷たいものが投げ落とされる。かろうじて押しつぶされないですんだのは、それが穴の壁の何か所かに数回ひっかかり勢いが削がれてくれたおかげで――のしかかる四肢が、スーツケースに詰めて運んできた妻であることと、穴の淵に置いた懐中電灯の光に照らされたそこに立つ人物が恋人であることを了解したのは、ほぼ同時だった。

「な…、な……」

 なぜ?……問う声は、出なかった。

「あなたが、ナイフがロマンだと言った」

 にもかかわらず、応えた声は――しかし、常の恋人のそれではなかった。


 妻の声に聞こえた――。


「ナイフがいいと言った」

 繰り返す声を聞いた時には、どさり…もう一度――衝撃が、今度は降り落ちてきた。

 みしり……。

 ぽくり……。

 身体のどこかが軋み、弾けた。

 恋人の身体が落ちてきたのだと、他人事のように理解した。

 身体の内側から咽喉へと、競り上がってくるもの――。

 痛みは感じない、身体が動かない、音も聞こえない――しかし、なぜか視界と意識だけは鮮明だった。

『そりゃあ、お前さんの奥さんのご要望だね』

 どこかで聞いたことのある声が、頭の中で響く。

『わたしの言えた義理じゃぁないが、ひとの身で無体なことをするもんじゃないよ』

 老人の口調は、子供を嗜めるように優しげだったが、そこに些かの救いも感じなかった。

『お前さんはこれから、朽ちていくまでそのままだ』

 腐り、虫に食われ、骨になり、粉々になってしまうまで……。


『痛くも苦しくもないんだから、そのくらいは我慢しておあげ』


 諭すような声が、遠ざかっていく。

 眼前にある妻の顔は、両目と口が互い違いの三日月を形作っていた。




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