4 口ずさむ
気が付くと口ずさんでいる歌があった。
いつから歌っているのか憶えていないし、歌っていながら歌詞も今ひとつはっきりしない――もしかしたら、子供の頃に聞いた歌をなんとなく歌っているうちに自分で作り変えてしまったのかもしれない。学生時代にはすっかり自覚していたので、友人や大人たちに問うてみたりもしたのだが、誰もそんな歌も似た歌も知らなかった。
普段はさほど気にも留めないのだが、時々、妙に歌の正体を知りたくなる波がある。
動画投稿サイトに似たような、うろ覚えのメロディーを投稿してコメントを求めているアカウントをみつけ、いくつか探して聴いてみたのだが、どれも自分の口ずさんでしまう歌とは似ていなかった。
いつも本当に気付くと口ずさんでいるのだが、意識して思い出そうとするとき湧いてくるイメージは、夏の夕焼けだった。夕立の去ったあとの夕闇が降りてくるまでの今少しの時間、オレンジともピンクともつかない光に包まれた世界。あれは、亡くなった母の生家に預けられていた時の思い出だろうか? 物心ついてしばらくした頃から修学するまでの数年間、病に倒れた母と仕事で家を空けねばならぬ父、加えて自身の気管支も弱かったため、さほど有名ではないが夏にはそこそこ賑わう避暑地で土産物屋を営んでいた母の生家で祖父母と暮らしていた。
ならば、その頃に覚えた歌だろうか……?
祖父母とも多少小洒落たひとで、ウクレレで古い洋画の主題歌を爪弾きながら夕涼みをするようなこともあったが、やはりそういったメロディでもない。
牧歌的で……子守歌よりは、童謡のような――いつまでも遊んでいる子供たちを帰途に追い立てるような、なにかを囃し立て呼び寄せるような……断片的に、それは確かだろうと思われる詞は『来う』だの『去ね』だの歌っていた。
近くには、別荘を持っていて夏の数日から数週間滞在する祖父母の顔馴染みもいた――彼らの誰かが、ひとり遊びをする子供に気紛れに教えてくれた、知らない土地に伝わる歌だった可能性もあるかもしれない。思い浮かぶイメージに、自分以外にも誰かがいたような気もした。
あの夕焼けは、あの日の……?
それは、祖父母のもとでの最後の夏――その日、たまたま出会った少し年嵩の少年と一日駆けまわって過ごした夕方。
突然、鮮明に思い出すのは、いつもの帰り道――夏ならではの長い夕刻の歩道で、擦れ違いざま耳を掠めたハミングをその歌と認識するから。
「待って……」
とっさに振り返り、高く澄んだ声の主を探す。
立ち止まり、振り向いたのは華奢な少年だった。色白の肌に黒目がちな瞳、鼻や口元は小づくりで、性別未分化な年ごろの愛らしい顔立ち。さらさらと額に揺れる黒髪の襟足を短く刈り込み、細い首周りをとりまく真っ白な襟は、どこかの小学校の制服だろうか? 皺も汚れもない半袖シャツと中央にプレスの効いた膝丈の黒いボトム、白いハイソックスの足元は、つま先の丸い黒のストラップシューズ。
そこにいたのは、あの日の少年だった。
いや、そんなはずはない――あの少年は、自分より確かに年上だった。あれから、自分が大人になるほどの歳月が過ぎている、そのままの姿のはずはない。
しかし、もしか……息子としては年の頃が合わないかもしれないが、甥であるとかいずれか、縁ある少年ということはあり得るだろうか?
戸惑い、次の言葉に迷ううちに、少年は静かに踵を返し人波に消えゆこうとする。
「待っ……!」
「待つのは、あんただ」
手を伸ばし、追いすがろうとした足は、それでも――鋭い制止の声に、覚えず従っていた。
「え……?」
驚いて見遣れば、背の高い青年の憂いを帯びた横顔がわずかに見上げるすぐ隣にあった。
「追いかけちゃいけない。その歌も忘れてしまう方がいい」
穏やかだが、有無を言わせぬ口調だった。
「深追いは、身を危険にさらす」
短く告げられる言葉の意味を理解しようとする間に、青年もまた通りの騒めきに溶けるように消えていた。
とはいえ、気付けば口ずさんでいるのだ――深追いはせずとも忘れられるものではない。
『お前さんが、自分で呼んだんだよ』
ごきり……。
ぐちゃり……。
自分の壊れていく音の合間に、幼い日に一度だけ聞いた声がした。




