3 鏡
彼女は、鏡をひどく怖がった。
長らく独居だったという彼女は、介護施設入所の際の聞き取りで、自室の鏡の撤去を強く希望した。施設内の共用部分の鏡も遠回りしたり顔を伏せたり――介護入浴の際には、バスタオルで浴室内の鏡を隠さなければ気を失ってしまいそうになるほどの怯えぶりで、介護士たちも慌てるほどだった。
彼女には、幼馴染みがいた。
大人達には似た背格好の仲良し二人組と言われていたが、ただ近所に住む同い年の同性と言うだけで――本当のことを言えば、彼女は幼馴染みのことをそれほど好きなわけではなかった。
骨太な体躯に真っ黒な硬い髪質、外遊びが好きなわけでもなかったが、大人たちの固定観念により戸外に放り出されるため日焼けに荒れた肌、親戚からもらったお古を着ていることが常の彼女と、ほっそりと華奢な手足に、さらさらと柔らかく揺れる栗色の髪、色白で目鼻立ちも少女漫画の主人公のように愛らしく、ひとりっ子であるためいつも真新しい流行りのデザインの服を身に付けた幼馴染み――連れ立っていれば当然、周囲はふたりを見比べる。どちらをより誉めそやすかは、説明するまでもないだろう。
くわえて、自分の提案が受け入れられないことがあるとは思ってもいない幼馴染みは、彼女が気乗りしないそぶりを見せるや不機嫌をあらわにし――それを目撃した大人は、勝手に彼女が聞かん気なのだと決めつけ、肩を竦めるのだ。結果、彼女はいつも幼馴染みに振り回され――友人同士というより、子分にされたような気分を味わわされていた。
大きな町でもなければ、学校に通うようになってもクラスがわかれることもなく――幼馴染みの方も相変わらず、自分が呼べば彼女は付き合ってくれるものと決めてかかってやまなかった。
小学五年生の夏だった――その頃、全国的に小学校の階段の踊り場に設置された鏡の怪異が話題になっていた。彼女らの通っていた小学校は、怪談話が語り継がれるほど歴史のある校舎ではなかったが、それでも――階段の踊り場に大きな鏡が設置されていれば、児童たちは色めき立った。
深夜零時に階段の踊り場の鏡をのぞくと、将来の結婚相手が写る――。
後年、思い返せば――現在より、噂の電波には時間がかかった時代のこと、伝言ゲームのように重要な一部が忘れられたり尾鰭がつけられたり、およそ『鏡』にまつわる都市伝説がつぎはぎされたような内容だ。いい加減なことこの上なくはあったが、大人に憧れ異性を気にし始めていても具体的な恋愛というものを知らない十や十一の少女たちには、『結婚』という言葉は大人の世界を思わせる甘美な存在だった。
「行ってみようよ」
言い出したのは幼馴染みだったが、夜中の学校に忍び込むことはもちろん、そもそも家を抜け出すことも、彼女にとっては論外だった。もし、見つかれば、どうせ彼女が幼馴染みを冒険に誘ったのだと思われて、彼女ばかりが叱られるに決まっている。
「結婚相手だよ。気にならないの?」
幼馴染みは、彼だといいな……と、クラスメイトの名前をあげて無邪気にはしゃいだが、彼とは自分の方が仲がいいはずだ、なんでもかんでも思い通りに手に入ると思うな……苛ついたと同時に、ふと思い出したのは、姉の購読している雑誌で読んだ、もうひとつの鏡の怪異。幼馴染みを含めたクラスの女子児童はみんな知らなかったようだが、世間的にはむしろそちらの方が有名であるらしかった。
「わかった。いいよ――今夜ね」
少し怖がらせるくらい、いいか……と思った。
あの頃の学校のセキュリティは、昨今のように厳しくはなかった。もちろん、職員室や校長室、各教室に廊下や昇降口――ひと通り施錠はされていた。しかしながら、目立たない窓のクレセント錠を外しておいても気付かれなかったし、夜中に窓を開けても鳴り響くような警報装置は設置されていなかった。
校内に時計は多かったが、階段の踊り場からはいずれも見えないので、姉の腕時計を失敬して出かけた。ついでに、手のひらより少し大きな――それも。
時間通りに現れた幼馴染みと校門の格子戸を越える。開けておいた窓から校舎に入るまでの道程は、拍子抜けするほどあっけなかった。
校舎のなかは、廊下の窓が大きなせいか、階段を目的の踊り場まで昇るくらいなら支障のない程度に明るい。
件の鏡は、一番古い物のことであるらしい。主にかつての卒業生の寄付であるらしい大きな鏡の隅には、寄贈年が記されている。誰が探したのかはわからないが、かなり早くから鏡は特定されていた。
踊り場の一方の側面の壁を覆う、大きな鏡だった。
「夜の鏡って、ちょっと怖い……」
幼馴染みのつぶやきは、今さらすぎだが――昼間も見ているはずの、逆転した鏡の中の世界は、夜であるという違いだけで妙な現実味を帯びて感じられた。
今、昇ってきたばかりの階段に置き去りの暗闇や隅に写り込む階上の廊下の手すりの隙間から、知らない何かが現れるのではないか……変化のないことを確かめたくて、凝視してしまわずにいられない。
将来の配偶者とやらは、鏡の中の階段を下りてくるのだろうか?
いや、誰もいない……今は、まだ。
時計を確かめる――デジタル表示は、二十三時五十六分。三分前にセットしておいたアラームは、このタイミングなので解除した。
「ドキドキするね」
幼馴染みはどこまでも無邪気に、大きな鏡に両手をついて間近に覗き込んでいた。
「あと何分?」
「もう、あと一分」
ボトムのポケットから、それを取り出す。
三十七、三十六、三十五……幼馴染みのカウントは、気が急くのか少しずつ早くなる。
「二、一、ゼロ……!」
五秒ほど進み過ぎだ――大きな鏡に貼りつく幼馴染みの背後にそれをかざす。
「ねぇ、合わせ鏡って知ってる?」
午前零時ぴったりに幼馴染みは振り向いた。
幼馴染みの驚いた顔は、大鏡の中の自分が手にした手鏡の中に見た。
深夜零時に合わせ鏡をすると、鏡の世界への入り口が開く――。
彼女は、幼馴染みを大きな鏡に向かい、突き飛ばした。
翌日、幼馴染みは教室に姿を見せず――午後には集団下校になり、ひと月ほど大人に付き添われての登下校になった。
幼馴染みは、行方不明になっていた。
そのまま、見つかることはなかった。
「あら?」
夜の見回りをしていた介護士は、廊下の先に小さな人影を認めて足を止めた。
現在、深夜徘徊する癖のある入居者はいないはずだが、突如始まることもある――たまたま、夢見が悪くて少し歩いてこようと思うこともあるかもしれない。いずれにせよ、足腰の弱った高齢者ばかりの施設のこと、転んで怪我などしないうちに追いついて、安全に部屋に帰ってもらわなければ……早足を踏み出した介護士は、しかし再び立ち止まっていた。
「子供……?」
軽い足取りで遠ざかる人影は、白いシャツに膝上の黒いハーフパンツと白いハイソックス――小学生の制服姿を思わせる、少年のように見えないだろうか……?
親子で面会に訪れる家族はいるが、出入りにはもちろん受付を通り、入館証の貸与と返却が行われる――こんな時間まで、おそらく孫にあたるだろう子供が残されているはずはない。
追いかける必要より、その少年が鏡を怖がる彼女の部屋から出てきたように思われることの方が気になった。
案の定、彼女の部屋の引き戸は空いていて――覗き込めば、廊下の薄明かりにベッドの上に不自然に屈み込む影が見えた。
慌てて駆け寄ると、彼女は身体をふたつに折るように前のめりに倒れていた。
力なく投げ出された手の先に、大人の手のひらほどの手鏡が落ちていた。




