1 まっさら
ちくしょう……。
退勤時間をすでに三時間超過し、形ばかりの働き方改革の煽りで照明の落とされたフロアの壁際のデスク――男はディスプレイの輝きだけを頼りにポインターを操り、忙しなくキーボードに指を走らせていた。
期限の間近なプログラムに、後々のアップデート時の障害になりかねない不整合を発見した。管理職に報告し、納期を少しばかり遅らせてもらうための交渉を求めたが、現状に問題はなく、故にチェッカーに引っかかることもなく、デモンストレーションも滞ることはなかったため――問題の発生した時に対処しろと、現状通りの締め切りで納品せよと厳命された。
ふざけろ……とっさ、口にしなかったことは褒めてもらいたいと思ったものだが、むしろ言ってしまえばよかったと、今になっては思えてならない。
いや、今までも幾度となく考えた。
今回のチームのメンバーは経験の浅い若者が多く、納期までに無理をして調整しなおすよりも後日、顧客からアップデートの依頼を受けかつ不具合が生じた際に対処すればよいと、管理職の指示を全面的に歓迎した。しかしながら、男は経験上、それが言うほど簡単なことでないことを知っていた。チームリーダに指名されるようになってからであれば、ここまでぎりぎりで発覚するのは初めてだったが――過去に納期を優先させて、小さなミスに目をつぶったあげく、以降、アップデートのたびに不安定さを誤魔化す回り道を重ねに重ね……不格好で綱渡りのような運用を誤魔化し続けている案件は、ひとつふたつのことではない。そして、対処という名の尻拭いに労力と時間を費やすのは、納期厳守を決定した管理職ではなく、常に自分達エンジニアだ。
納品したシステムの現場での運用が開始されてしまえば、そうそう他社に乗り換えられることはないと管理職は踏んでいるのだろうが、カスタマイズと称したアップデートを繰り返すほどに、顧客の信用が失われていく現実を彼らはどう見ているのだろう? もちろん、顧客全体に対して見れば、一部の案件であることは否めないが。
後に発覚したのであれば諦めもつく――しかしながら、現段階で時間さえあれば修正も可能であるところ、現状の運用は可能であるからと不完全とわかっているもので売買契約を完了させてしまうのは、社会通念的にもいかがなものだろうか……正義漢ぶるつもりはないが、エンジニアとしてのプライドもある。
結局は、いい加減な管理職と仕事を早く切り上げたがる若手への反発かもしれないが――ひとりででも納期ギリギリまであがいてやろうとして、現状に至っていた。
くそっ……。
納品は、明日の午前九時――かろうじて、残り十二時間……いや、もう切ったか……。
もともとチーム開発だったくらいだ、ひとりでは手に余ることはわかっていた。
それでも……と、ひたすら黙々と作業を続ける。
残り十時間……八時間……。
いっそ、全てをまっさらなところから組み直す方が早いのでは……たびたび浮上する、到底現実的とは思えない迷いは、おそらく睡眠不足のせいだ。それでも、ここまで来て、仮眠をとる余裕はないし、眠れるとも思えない……。
あぁ、でもいっそ……。
ふと、なぜ自分ひとりがこんなことをしているのだろう?……浮かんだ疑問は、ごわごわと胸をざわつかせた。
「いや、俺はなにを……」
ほんの刹那、意識をよぎった衝動に――目が覚めるどころか、気を失いそうなほど胸が冷えた。
そんなことは、許されない――。
『それは、誰が決めたんだい?』
否定する端、問いかける声がした。
「な……っ?」
誰もいないはずだ……驚愕と本能的な恐怖心とに覚えず顔をあげた先、ブラインドのない遠い窓にディスプレイの光にぼんやりと浮かび上がる自身の姿と――。
『やるなら、派手な方が面白い』
背後に、白い影――弾かれるように振り向けば、予感に反して消えもせず着物姿の老人がひとり立っていた。老人というが、夏物らしき麻の着物に揃いの羽織を文字通り肩に羽織る背はすっくと伸び、襟足で縛られているのかもしれない艶を失くした真っ白な髪はまだまだ豊かを保っている。目尻や口元に皺が刻まれ心持ち頬の緩んだ顔立ちからは、若い頃はさぞかし美形であったのだろう気配がうかがえ――いや、現在でも人好きのする穏やかさと品を湛えていた。
明らかに部外者であるのだが、いつの間に?…とは思えど――どこから?…との疑問はなぜか浮かばなかった。
『お前さんには、それができるんだろう?』
好々爺然とした優し気な声と口調で誘いかけられる。
いや、唆されているのだ――自覚は充分にあった。
しかしながら……。
その通り。
俺には完璧な仕事ができる――。
席を立つ――向かうのは、この小さな会社の心臓部。
電子キーの暗証番号くらい、知っている。
扉を開ければ、暗闇にちかちかと瞬く――いくつもの光点。
外部にもバックアップの委託はしているが、多少の細工でどうとでもできる自信が、男にはあった。
戻してしまえ、まっさらに……。
翌朝、現代社会において不自然なほど静かなフロアの奥で、ただ虚空を見つめて佇むひとりの男が発見された。
問いかけられ肩を掴まれて揺さぶられても首を傾ぐでもなく、誰の問いかけも耳に届くことはなく――男もまた、どこまでもまっさらになっていた。




