雨とミルクの記憶
短編の雨の午後、君と
別のお話を書きました。
もしよければ前作も見てくれると嬉しいかも
もちろん、この話だけでも楽しめると思います
朝の光がカーテンの隙間から差し込んで、目を覚ます。
隣で遥がまだ寝息を立てている。黒い髪が枕に広がって、頬が少し上気している。
昨夜、遅くまでスケッチを描いていたんだろう。
遥の指先には鉛筆の粉が残っていて、私はそっとそれを拭う。遥の肌はいつも、柔らかくて温かくて、触れるだけで心が落ち着いていた。
「ん…綾?」
遥の声が眠そうに響く。目を細めて、私の顔を覗き込む。
「もう朝? まだ寝かせて…」
私は笑って、遥の額にキスをする。
「仕事だよ、遥。今日も頑張ってね」
遥は不満げに唇を尖らせるけど、結局体を起こして、私の首に腕を回す。
朝のハグは、毎日の大切な習慣。これは私にとってもエネルギーの補充だった。
遥の匂い――少し甘い香りと、昨夜のインクの匂いが混ざったものが、私の服に染みつく。
キッチンでトーストを焼くのは、今日は私の役目。遥はコーヒーを淹れてくれる。遥の淹れるコーヒーは、苦みが優しくて、毎朝の目覚めを鮮やかにする。
「綾のトースト、焦げてるよ」
遥がからかう。私は肩をすくめて、「遥のコーヒーみたいに完璧じゃないよ」と言う。
私は遥みたいにきちんとできない、できないというより面倒が勝ってしまって大ざっぱになってしまう。
食卓で向かい合って、昨日の出来事を話す。遥の新しい依頼の話、私の会社のくだらない小噺。
遥はフォークを止め、まっすぐ私を見て言う。
「綾の話、好き。もっと聞かせて」
その視線が、胸の奥をあたためる。
私の話なんて愚痴なのにそうやって心の闇を洗ってくれて、気持ちよく会社に出勤させてくれている。
本当にありがとうって感謝してキスでもしたいんだけど、止まらなくなって遅刻する可能性があるから早く準備しないと。
準備をしながら、窓の外を見る。今日は雨の予報。空が灰色に染まって、心が少し重くなる。
玄関で靴を履くと、遥が後ろから抱きついてくる。
「行ってらっしゃい。早く帰ってきてね」
遥の声が耳に残る。私は振り向いて、軽く唇を重ねる。
ミルクのような甘い味。遥のキスは、雨の日を晴れに変えてくれる。
会社はいつもの騒がしさ。デスクで資料をまとめ、上司の指示に追われる。午後の会議で、雨が窓を叩き始める。外の景色がぼやけて、ふと遥のことを思う。あの出会いの雨を。去年の春、ずぶ濡れのカフェで、遥のスケッチブックが私の視界に入った瞬間。
遥の描く線が、私の孤独を優しく撫でた。あれから、遥は私の雨を、すべて受け止めてくれるようになった。
夕方、残業を切り上げてアパートへ急ぐ。傘を差して歩く道中、雨粒がコートに跳ねる。
いつも鍵を回す手が震えてしまう。遥のことが心配だったり、この生活が実は幻なんじゃないかと思っちゃう不安が入り混じる。
ドアを開けると、キッチンからクリームシチューの温かな香りが迎えてくれる。
遥はエプロン姿で、鍋をかき混ぜている。
黒髪が湿気で少しうねって、頬にシチューの欠片がついている。
「おかえり、綾。雨、すごいね」
遥の声に、疲れが溶けていく。私はコートを脱ぎながら、遥の背中に寄りかかる。
「ただいま。遥のシチュー、いい匂いだね。もうルーを溶かした後?」
遥は笑って振り向く。
「うん、煮込み終わりかけ。ちょっと味見して、熱いから気をつけてね」
遥の手が私の腰に回って、離してくれない。
指で遥の頬を拭うと、ついキスをしてしまう。
甘くてミルクの味。
「もう、完成間近なのに」と言うと、遥は照れるけど、頬が赤い。
「腰を回してホールドする遥が悪いと思う」
夕飯の仕上げを手伝う。私はスプーンで味見をして、塩を少し加える提案をし、遥はパンを温めてくれる。
このさりげない共同作業が、雨の湿気を忘れさせる。
シチューをすする。
とろりと広がって、胸の内側まであったかい。遥の優しさが溶けている味に思えてくる。
「どう? 今日の味、特別だよ」
私は遥の手を握って、「やっぱり最高だね。遥の料理は毎日食べたい」私がそう伝えた。
「綾の場合は作りたくないからでしょ」って感じのいい柔らかい笑顔を向けてくれた。
間違いではないけどね。私が作るとどうしても大ざっぱになってしまうし、どうせ食べるのならおいしい方がいい。
夕飯の後、遥が突然、棚から古いボードゲームの箱を取り出す。
「雨の夜は、これで遊ぼう。綾、覚えてる? 同棲初日に、ルールを忘れて大喧嘩したやつ」
私は笑いながらテーブルを片付けて準備をする。
「忘れるわけないよ。あの時、遥が負けず嫌いで、カードを投げそうだった」
遥があそこまで負けず嫌いだったと知ったのはあれが初めてだった。
嫌になるどころか新しい一面が見られて私はすごくうれしくなったんだっけ。
喧嘩しているときはガチの口喧嘩してたけど。
相手に知ってもらいたいためにするのだから、こういう喧嘩もたまには、いいものだと思う。
感情優先でなじったり、暴力に発展するのはよくないけどね。
ゲームは「モノポリー」の簡易版。
サイコロを振って、架空の街を回る。遥のコマが私の土地に止まるたび、「家賃払え!」って私が勝ち誇る。
遥は悔しがって、テーブルをたたく。
「綾、ずるい! 最初に全部買うなんて」。
だってそういうゲームだし、私が買わなかったら遥も同じことをするじゃんとは心の中で言う。
すぐにお互いが笑う。
まるで雨の音と笑い声がデュエットするみたいなBGMになった。
遥の指がサイコロを振るしぐさがかわいくて、私はつい手を伸ばして、遥の手のひらを包む。
「負けても、遥の笑顔だから最後は私の勝ちだね」。
ゲームの途中で、雨が止んでいた。
窓を開けると、湿った風が入ってきて、遥が深呼吸する。
「この匂い、好き。雨上がりの街、描きたくなる」
遥は、結構雨が好きなんだなぁって思う。
私は遥の横顔を見て、思い出す。
あの春のカフェで、遥が私の似顔絵を描いた時も、こんな風に集中していた。
遥はゲームを中断して、スマホを見せてきた。
「見て、これ。去年の写真」
画面には、桜の公園で二人で撮った自撮り。遥の頰に花びらが張りついて、私が笑いながら拭っている。
「あのキス、覚えてる? 雨上がりのベンチで」
私は遥の肩を抱いて、写真を拡大する。
「うん。遥の唇、桜の味がしたみたい」
遥は照れてスマホを置いた。とても遥の目が優しい。
「綾、旅行に行こうよ。次は晴れた海。私のスケッチブック持って、綾の新しい顔を描く」
私は頷いて、遥の首に顔を埋める。
「いいね。海辺のアトリエで、遥の絵と私の散歩道とか」
夢の話が、ゲームの駒のように軽やかになる。
遥の夢の展覧会、私の新しい仕事の可能性。
遠くても、手を繋げば届く。
夜が更ける。ベッドで、遥が私の腰を引き寄せる。
指が背中をなぞり、息が耳にかかる。
「今日のゲーム、楽しかった。綾の勝ち顔、最高」
結局、最後は私がゲームに勝ってしまった。
私は振り返って、遥の唇を塞ぐ。
キスは深く、雨の残り香を溶かす感じに。
私は柔らかい遥のくちびるをいとおしそうに離した。
「遥の負け顔も、かわいいよ。明日も、ううん、これからもこんな感じで一緒にいたい」
私は柔らかい遥の胸元に顔をうずめてそう言った。
「綾は意外と甘えん坊だよね。そんなところもいとおしいよ」
遥の手が私の頭の上に乗り撫でてくれる。
遥の体温が、私の肌に染み込む。
窓の外に星が一つ瞬く。このマンション、遥と二人。
雨の記憶は、ゲームの駒のように転がる。
新しい街、新しい笑い、新しい夢。あの春から続く道は、曲がりくねっても遥の手がある。
今はそれで、十分。




