5話
夜八時。さくら荘の二〇三号室には、カレーの香りが漂っていた。高遠静香が玉ねぎを炒め、美咲がじゃがいもを切る。こむぎは、食卓の下で丸くなっている。
「今日のカレー、ちょっとだけスパイス強めにしてみた」
「いいね。こむぎがくしゃみするくらいがちょうどいい」
姉妹は笑った。キッチンの蛍光灯は少しだけちらついていたが、それもこの部屋の癖のようなものだった。
食卓には、カレーとサラダ、そして静香が淹れた紅茶が並んだ。美咲は、スケッチブックを脇に置きながら、スプーンを手に取った。
「今日、田村さんに“パンの湯気も描けるんですね”って言われた」
「それ、褒め言葉だよ」
「うん。でも、ちょっと照れた。……恋って、照れの連続だね」
静香は、カレーを一口食べてから言った。
「私は、恋って“記憶の予感”だと思ってる」
「予感?」
「まだ何も起きてないけど、いつか思い出になる気がする。そういう予感」
美咲は、少しだけ黙っていた。こむぎがくしゃみをひとつした。
「じゃあ、こむぎとの出会いも、予感だったのかな」
「うん。あの雨の日、公園で震えてたこむぎを見つけたとき、なんとなく“この子はうちに来る”って思った」
姉妹は、カレーを食べながら、過去と未来を行き来していた。窓の外では、桜新町の灯りが静かに滲んでいた。
「美咲、将来って考える?」
「うん。時々。でも、遠くには考えられない。せいぜい、来週のパンの湯気くらい」
「それでいいと思う。未来って、遠くにあるものじゃなくて、毎日の中にあるものだから」
美咲は、スケッチブックを開いた。今日描いたのは、こむぎとレーズンロール。湯気が、猫の尻尾のようにくるりと描かれていた。
「この絵、町づくり展に出してみようかな」
「いいね。桜新町の記憶として、残るかもしれない」
姉妹は、食器を片付けながら、静かに夜を迎えた。こむぎは、窓辺で丸くなり、外の灯りを見つめていた。
「結婚しなくても、私たちにはこの生活があるね」
「うん。紅茶と猫と、ちょっとした湯気があれば、それで十分」
夜は、静かに深まっていった。さくら荘の二〇三号室には、今日もささやかな幸福が満ちていた。




