4話
高遠静香は、桜新町図書館の書架の間をゆっくりと歩いていた。午後三時、館内は静かで、ページをめくる音と空調の微かな唸りだけが響いている。彼女は、昨日届いた寄贈資料の整理を任されていた。
寄贈されたのは、昭和三十年代の世田谷区の古地図。黄ばみかけた紙に、手描きの線で町の輪郭が記されている。静香は、地図の端に「桜新町駅前通り」と書かれた文字を見つけた。今のサザエさん通りだ。だが、そこに「さくら荘」の名前はなかった。
「やっぱり、うちって後からできたんだ」
彼女は、地図をそっと広げながら、指先で町の変遷をなぞった。喫茶さくらんぼの場所には、確かに小さな印がある。店名は違っていたが、形は同じだった。
そのとき、背後から声がした。
「高遠さん、これ、面白いですよ」
同僚の司書・村井さんが、古い写真集を手にしていた。昭和四十年代の桜新町の風景が並ぶその本には、商店街の開店当初の様子が写っていた。八百屋の看板、銭湯の煙突、そして、喫茶さくらんぼの前に立つ若い女性。
「この人、誰だろう」
「店主の奥さんじゃないですか?昔、絵を描いてたって聞いたことあります」
静香は、その言葉に少しだけ反応した。絵を描く女性。美咲と重なるような気がした。
仕事を終えた静香は、地図のコピーを一枚持ち帰った。さくら荘の居間で、美咲がこむぎの背中をブラッシングしている。
「これ、見て。昭和三十年代の桜新町」
「うわ、細かい。……さくら荘、ないね」
「でも、喫茶さくらんぼはある。名前は違うけど、場所は同じ」
美咲は、地図をじっと見つめた。彼女の目は、絵を描くときのそれだった。集中して、何かを見つけようとする目。
「この地図、絵にしてもいい?」
「もちろん。町の記憶を描くって、素敵だと思う」
美咲は、スケッチブックを広げ、地図の線をなぞり始めた。こむぎは、彼女の膝の上で丸くなり、静香は紅茶を淹れながら、その様子を見守った。
「昔の町を描くって、今を描くことでもあるんだね」
「うん。記憶って、重なるものだから」
姉妹は、地図と絵と猫に囲まれて、静かな夜を過ごした。窓の外では、桜新町の灯りが少しずつ滲み始めていた。




