3話
夕方五時前。高遠美咲は、こむぎの餌を買いに「さくらベーカリー」へ向かっていた。桜新町駅から少し離れた住宅街の角にあるその店は、木製の看板に手描きのパンの絵が描かれていて、どこか絵本のような雰囲気があった。
店内に入ると、焼きたてのパンの香りが鼻をくすぐった。レーズンロール、クリームパン、バゲット。棚に並ぶパンたちは、まるで整列した小さな兵隊のように、きちんと並んでいた。
「こんにちは」
美咲は、少しだけ声を張って言った。レジに立っていたのは、昨日喫茶さくらんぼで見かけた店員――田村さんだった。彼は、相変わらず無口そうだったが、美咲の顔を見ると、ほんの少しだけ目元が緩んだ。
「レーズンロール、焼きたてです」
「こむぎが好きなんです。……いや、私が好きなんですけど」
美咲は、言葉が少しだけもつれてしまった。田村さんは、袋にパンを入れながら「猫ですか?」と聞いた。
「はい。茶トラで、ちょっとわがままです」
「うちの裏庭にも、よく猫が来ますよ。夕方になると、パンの匂いにつられて」
美咲は、袋を受け取りながら「今度、こむぎも連れてきます」と言いかけて、すぐに「いや、たぶん無理です」と訂正した。こむぎは、外に出るとすぐに草むらに隠れてしまうのだ。
帰り道、美咲はパンの袋を抱えながら、こむぎの好物の餌を買い忘れたことに気づいた。駅前のペットショップに寄ろうと、少しだけ遠回りをすることにした。
そのときだった。スマホが震えた。静香からのメッセージだった。
「こむぎ、いない。窓、開いてたかも」
美咲は、思わず立ち止まった。さくら荘の窓は、午後の陽射しを入れるために少しだけ開けていた。こむぎは、網戸を押して外に出る癖がある。
「今から探す」
美咲は、パンの袋を抱えたまま、桜新町一丁目公園へ走った。こむぎが初めて見つかった場所。ベンチの下、砂場の隅、滑り台の影。彼女は、しゃがみ込みながら「こむぎ」と呼び続けた。
十分ほどして、静香が自転車で駆けつけた。図書館の制服のまま、息を切らしていた。
「見つかった?」
「まだ。でも、たぶんこのあたりにいると思う」
姉妹は、団地の裏手にある小さな空き地へ向かった。そこは、こむぎがよく昼寝していた場所。草が少しだけ揺れていた。
「……いた」
静香が指さした先に、こむぎがいた。パンの袋の匂いにつられたのか、美咲の腕の中にすんなりと収まった。
「こむぎ、パンの湯気に誘われた?」
「たぶん、レーズンロールの魔力だね」
姉妹は笑った。こむぎは、くしゃみをひとつして、美咲の腕の中で丸くなった。
帰り道、静香は言った。
「田村さん、優しそうだったね」
「え、見てたの?」
「図書館の帰りに、ちょっとだけ。……美咲、恋してる?」
美咲は、こむぎの頭を撫でながら、少しだけ考えた。
「うん。たぶん、パンの湯気くらいの恋」
「それ、けっこう熱いよ」
姉妹は、夕暮れの桜新町を歩いた。商店街の灯りが少しずつ灯り始め、こむぎの尻尾が、袋の端をちょんと叩いた。




