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こむぎ日和  作者: 双鶴


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3/6

3話

 夕方五時前。高遠美咲は、こむぎの餌を買いに「さくらベーカリー」へ向かっていた。桜新町駅から少し離れた住宅街の角にあるその店は、木製の看板に手描きのパンの絵が描かれていて、どこか絵本のような雰囲気があった。


 店内に入ると、焼きたてのパンの香りが鼻をくすぐった。レーズンロール、クリームパン、バゲット。棚に並ぶパンたちは、まるで整列した小さな兵隊のように、きちんと並んでいた。


 「こんにちは」


 美咲は、少しだけ声を張って言った。レジに立っていたのは、昨日喫茶さくらんぼで見かけた店員――田村さんだった。彼は、相変わらず無口そうだったが、美咲の顔を見ると、ほんの少しだけ目元が緩んだ。


 「レーズンロール、焼きたてです」


 「こむぎが好きなんです。……いや、私が好きなんですけど」


 美咲は、言葉が少しだけもつれてしまった。田村さんは、袋にパンを入れながら「猫ですか?」と聞いた。


 「はい。茶トラで、ちょっとわがままです」


 「うちの裏庭にも、よく猫が来ますよ。夕方になると、パンの匂いにつられて」


 美咲は、袋を受け取りながら「今度、こむぎも連れてきます」と言いかけて、すぐに「いや、たぶん無理です」と訂正した。こむぎは、外に出るとすぐに草むらに隠れてしまうのだ。


 帰り道、美咲はパンの袋を抱えながら、こむぎの好物の餌を買い忘れたことに気づいた。駅前のペットショップに寄ろうと、少しだけ遠回りをすることにした。


 そのときだった。スマホが震えた。静香からのメッセージだった。


 「こむぎ、いない。窓、開いてたかも」


 美咲は、思わず立ち止まった。さくら荘の窓は、午後の陽射しを入れるために少しだけ開けていた。こむぎは、網戸を押して外に出る癖がある。


 「今から探す」


 美咲は、パンの袋を抱えたまま、桜新町一丁目公園へ走った。こむぎが初めて見つかった場所。ベンチの下、砂場の隅、滑り台の影。彼女は、しゃがみ込みながら「こむぎ」と呼び続けた。


 十分ほどして、静香が自転車で駆けつけた。図書館の制服のまま、息を切らしていた。


 「見つかった?」


 「まだ。でも、たぶんこのあたりにいると思う」


 姉妹は、団地の裏手にある小さな空き地へ向かった。そこは、こむぎがよく昼寝していた場所。草が少しだけ揺れていた。


 「……いた」


 静香が指さした先に、こむぎがいた。パンの袋の匂いにつられたのか、美咲の腕の中にすんなりと収まった。


 「こむぎ、パンの湯気に誘われた?」


 「たぶん、レーズンロールの魔力だね」


 姉妹は笑った。こむぎは、くしゃみをひとつして、美咲の腕の中で丸くなった。


 帰り道、静香は言った。


 「田村さん、優しそうだったね」


 「え、見てたの?」


 「図書館の帰りに、ちょっとだけ。……美咲、恋してる?」


 美咲は、こむぎの頭を撫でながら、少しだけ考えた。


 「うん。たぶん、パンの湯気くらいの恋」


 「それ、けっこう熱いよ」


 姉妹は、夕暮れの桜新町を歩いた。商店街の灯りが少しずつ灯り始め、こむぎの尻尾が、袋の端をちょんと叩いた。


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