2話
午後一時すぎ。桜新町の空は、雲ひとつない青だった。高遠美咲は、スケッチブックと色鉛筆の入ったトートバッグを肩にかけ、サザエさん通りを歩いていた。商店街のアーケードには、季節外れの風鈴がまだ残っていて、風が吹くたびに控えめな音を立てていた。
「今日はナポリタンの湯気を描くんだよ、こむぎ」
そう言って、美咲はスマホの待ち受けにしている猫の写真に目をやった。こむぎは今頃、さくら荘の窓辺で丸くなっているはずだ。静香は午後から図書館勤務。姉妹の生活は、互いに干渉しすぎず、でもいつも隣にいるような距離感だった。
喫茶さくらんぼは、桜新町駅から徒歩三分。昭和四十年代から続く店で、外観はレンガ調、扉にはステンドグラス風の装飾が施されている。店内に入ると、ベルが鳴った。
「いらっしゃい、美咲ちゃん。いつもの席、空いてるよ」
店主の佐々木さんは、七十代の男性。白髪をきちんと撫でつけ、エプロンには「さくらんぼ」の刺繍がある。美咲は窓際の席に座り、スケッチブックを広げた。
「ナポリタン、お願いします。あと、アイスコーヒー」
「はいよ。今日は湯気、描くんだろ?」
「え、なんでわかるんですか」
「昨日、静香さんが言ってたよ。“妹が湯気にこだわってる”って」
美咲は笑った。姉の静香は、口数は少ないが、時々こうしてさりげなく妹のことを話しているらしい。なんだか少し照れくさい。
店内には、常連客が三人。新聞を読む男性、編み物をする女性、そして窓の外をぼんやり眺める若い男性。美咲はその若い男性に目を留めた。どこかで見たことがあるような気がした。
「……あ、さくらベーカリーの人だ」
彼は、パン屋の店員だった。美咲がこむぎの餌を買いに行くついでに、レーズンロールを買う店。いつも無口で、でも袋を渡すときに「どうぞ」と言ってくれる。その声が、妙に優しかった。
ナポリタンが運ばれてきた。銀の皿に盛られた麺は、ケチャップの赤が鮮やかで、ピーマンと玉ねぎが彩りを添えている。湯気が立ちのぼり、光が反射して、皿の縁がきらりと光った。
美咲は鉛筆を取り、湯気の線を描き始めた。くるくると、ゆらゆらと、空気の中に溶けていくような線。彼女は湯気を描くのが好きだった。形がないものを、形にする作業。それは、こむぎの寝息や、静香の紅茶の香りにも似ていた。
「……あの、絵を描いてるんですか?」
声がした。さくらベーカリーの店員だった。彼は、コーヒーを持ったまま、少しだけ美咲の席に近づいていた。
「はい。ナポリタンの湯気を描いてます」
「……すごいですね。湯気って、描けるんですね」
「描けるかどうかは、まだわかりません。でも、描きたいんです」
彼は少し笑って、「パン屋にも湯気、ありますよ」と言った。
「レーズンロール、焼きたてのとき、湯気が出るんです」
美咲は、スケッチブックの端に小さく「レーズンロールの湯気」と書き加えた。
「今度、見に行ってもいいですか?」
「もちろん。焼きたては、朝九時です」
彼はそう言って、席に戻った。美咲は、ナポリタンの湯気を描きながら、心の中でこむぎに報告した。
「こむぎ、パンの湯気も描けるかもしれないよ」
午後の光が、喫茶さくらんぼの窓を通して、スケッチブックの上に落ちていた。湯気の線は、少しずつ、形になっていった。




