1話
朝の光が、すりガラス越しに淡く差し込んでいた。桜新町の古いアパート「さくら荘」は、築四十年の木造二階建て。外壁は少し色褪せたクリーム色で、階段の手すりには朝露が残っている。二〇三号室に住む高遠姉妹は、今日も変わらぬ朝を迎えていた。
高遠静香は、キッチンの棚からダージリンの缶を取り出し、慎重に蓋を開けた。茶葉の香りがふわりと広がる。彼女は、紅茶を淹れるときだけ少しだけ饒舌になる。湯を沸かす音が、古い給湯器の低い唸りと混ざって、部屋に心地よいリズムを刻んでいた。
「こむぎ〜、そこは乗っちゃダメだよ〜」
隣の部屋から聞こえてきたのは、妹の高遠美咲の声。柔らかく、少し眠たげで、猫に話しかけるときだけ語尾が甘くなる。
「また冷蔵庫の上?」 静香が声をかけると、美咲が顔を出した。髪は寝癖でふわりと広がり、パジャマの袖が片方だけめくれている。
「うん、しかもパンの袋を枕にしてる。昨日のレーズンロール、潰れてるかも」
こむぎは、姉妹が拾った茶トラの猫。桜新町一丁目公園のベンチの下で震えていたのを、美咲が見つけたのだった。あの日は雨上がりで、公園の砂場に水たまりが残っていた。美咲は傘を差しながら、こむぎにそっと声をかけた。「うち、狭いけど、静かだよ」と。
静香はティーポットに湯を注ぎながら、窓の外に目をやった。サザエさん通りの八百屋がシャッターを開ける音がした。遠くでパン屋の看板が揺れている。桜新町の朝は、いつも少しだけのんびりしている。
「今日は図書館、午後からだから、午前中は喫茶さくらんぼに行ってみようかな」 美咲が言った。彼女はフリーのイラストレーターで、昭和レトロな喫茶店のメニューを描く仕事をしている。
「またあのナポリタン?」 「うん。湯気がね、描きたくて。あと、あの銀の皿の反射が好き」
静香は微笑みながら、カップを二つ並べた。美咲の分にはミルクを少しだけ垂らす。姉妹の朝は、いつもこんなふうに始まる。特別なことは何もないけれど、紅茶と猫と、少しの会話があれば、それで十分だった。
「昨日の図書館、どうだった?」 「古地図の寄贈があってね。昭和三十年代の桜新町が描かれてた。さくら荘、まだなかったよ」
「へえ。じゃあ、ここって、わりと新参者なんだ」 「そう。でも、地図の端っこに“喫茶さくらんぼ”って書いてあった。あの店、ずっとあるんだね」
美咲はこむぎを抱き上げ、潰れたレーズンロールを確認した。猫の毛がパンに少しだけついていたが、彼女は気にせず皿に並べた。
「今日も、いい日になるといいね」 静香が言った。窓の外では、通学途中の小学生がランドセルを揺らして歩いている。
「うん。こむぎがパンを枕にしない日が来たら、もっといいかも」
姉妹は笑い、こむぎはくしゃみをひとつした。部屋の空気が、少しだけ春めいていた。




