第8話 みどりとの出会い
お盆が過ぎて数日後、千尋は境内の奥にある小さな池を清掃していた。この池は昔から神社にあったもので、雨水が溜まって自然にできた池だった。しかし、長年の間に落ち葉や泥が溜まり、水も濁ってしまっていた。
「この池も、きれいにしてあげたいですね」千尋が和彦に相談すると、和彦も同感だった。
「そうですね。昔は、この池にも神様が宿っていると言われていました。きれいにすれば、きっと喜んでくださるでしょう」
千尋は白雪と小太郎と一緒に、池の清掃作業を始めた。まず、浮いている落ち葉や枯れ枝を取り除き、底に溜まった泥をすくい上げた。
作業を続けていると、池の底で何かが動いているのに気づいた。
「あら、何かしら?」
千尋が水の中を覗き込むと、そこには一匹の亀がいた。甲羅の大きさは手のひらほどで、緑がかった美しい色をしている。
「亀さんがいるのね」
千尋が優しく声をかけると、亀はゆっくりと顔を上げた。その目は、とても穏やかで知恵深い表情をしていた。
不思議なことに、千尋は亀の気持ちを感じ取ることができた。この亀は長い間この池に住んでいて、池の変化を見守り続けていたのだ。
「ずっとここにいたのね。寂しかったでしょう」
千尋が心の中で語りかけると、亀からも温かい感情が返ってきた。それは感謝の気持ちと、同時に安堵の想いだった。
「和彦さん、池に亀がいました」
千尋が報告すると、和彦は驚いて池を覗き込んだ。
「本当ですね。こんなところに亀がいたとは。きっと、昔からここに住んでいたのでしょう」
「この子の名前、何にしましょうか?」
「緑色の美しい甲羅をしているから、みどりはいかがでしょうか」
「みどりちゃん、素敵な名前ね」
千尋がみどりに話しかけると、亀は嬉しそうに首を伸ばした。
それから千尋は、みどりのことを考えながら池の清掃を続けた。亀が快適に暮らせるように、水質を改善し、亀が休める場所も作ってあげたいと思った。
数日かけて池の清掃を終えると、水は見違えるほどきれいになった。透明度が上がり、底まではっきりと見えるようになった。
みどりも、きれいになった池を喜んでいるようだった。以前よりも活発に泳ぎ回り、時々千尋の方を見て首を振るような仕草を見せた。
「みどりちゃん、気に入ってくれたのね」
千尋がみどりに話しかけていると、椿庵のお客様の一人である田中一郎がやってきた。
「千尋さん、池がとてもきれいになりましたね」
「ありがとうございます。実は、池に亀がいることが分かったんです」
千尋がみどりを紹介すると、田中は興味深そうに見つめた。
「亀は長寿の象徴ですからね。きっと、この神社を長い間見守ってくれていたのでしょう」
田中の言葉に、千尋は深い意味を感じた。確かに、みどりからは長い年月を生きてきた知恵と、静かな力強さを感じることができた。
その日の夕方、千尋は一人で池のそばに座り、みどりと向き合っていた。
「みどりちゃん、あなたはどのくらい長く生きているの?」
千尋が心の中で問いかけると、みどりから様々な映像が伝わってきた。それは、この神社の長い歴史の断片だった。
昔の神社の様子、多くの参拝者で賑わっていた頃、戦争の時代、そして現在に至るまで。みどりは、すべてを静かに見守り続けていたのだ。
「あなたは、この神社の生き証人なのね」
千尋は感動していた。みどりは単なる動物ではなく、神社の歴史を知る貴重な存在だった。
翌日、千尋は椿庵でみどりのことを話題にした。
「池に亀がいるなんて、素敵ですね」山田花子が興味深そうに言った。「息子にも見せてあげたいわ」
「亀は縁起が良いと言いますからね」佐藤美咲も嬉しそうだった。「子どもたちも喜ぶと思います」
お客様たちの反応を見て、千尋はみどりが神社の新しい魅力になることを確信した。
数日後、山田花子が息子の健太と一緒に椿庵を訪れた。健太は高校生で、最近は反抗期で家族との会話も少なかったが、みどりを見ると興味を示した。
「本当に亀がいるんですね」健太が池を覗き込みながら言った。
「みどりちゃんよ。とても賢い亀なの」千尋が紹介すると、健太は真剣にみどりを観察し始めた。
「亀って、どのくらい生きるんですか?」
「種類にもよりますが、とても長生きします。中には百年以上生きる亀もいるんですよ」
健太は驚いたような表情を浮かべた。
「百年以上...僕のひいおじいちゃんよりも長生きなんですね」
千尋は健太の言葉に、何か特別な意味を感じた。
「みどりちゃんは、きっとこの神社の長い歴史を知っているのよ。あなたのひいおじいちゃんのことも、見ていたかもしれないわね」
健太は興味深そうにみどりを見つめた。
「本当ですか?だとしたら、すごいですね」
その日から、健太は定期的に神社を訪れるようになった。最初はみどりを見るためだったが、だんだんと千尋や和彦とも話をするようになった。
「健太くん、最近よく神社に来てくれるのね」山田花子が嬉しそうに言った。「みどりちゃんのおかげで、息子が変わったみたいです」
確かに、健太は以前よりも落ち着いて、家族との会話も増えたようだった。
ある日、千尋はみどりと一緒にいると、不思議な体験をした。みどりが池の中で特別な動きをすると、水面に小さな渦ができた。そして、その渦の中に映像が浮かんだのだ。
それは、この神社の未来の姿だった。多くの人々が訪れ、笑顔で過ごしている様子。子どもたちがみどりと触れ合い、お年寄りが池のそばで静かに瞑想している光景。
「みどりちゃん、あなたは未来も見えるの?」
千尋が驚いて問いかけると、みどりから穏やかな感情が伝わってきた。それは希望と確信に満ちた想いだった。
その日の夜、千尋は和彦にみどりの不思議な能力について話した。
「みどりは、ただの亀ではないようですね」和彦が感心して言った。「きっと、池の神様の使いなのでしょう」
「池の神様?」
「はい。昔から、この池には水を司る神様がいると言われていました。みどりは、その神様からのメッセージを伝えてくれているのかもしれません」
千尋は納得した。確かに、みどりからは普通の動物とは違う、神聖な力を感じることがあった。
翌日、椿庵に新しいお客様が現れた。六十代の男性で、環境保護活動をしているという。
「こんにちは。環境保護団体の代表をしている松本と申します」
松本さんは、神社の池がきれいになったという話を聞いて、興味を持って訪れたという。
「最近、都市部の自然環境が悪化していて、動物たちの住む場所が減っています。こちらの神社のように、自然を大切にしている場所は貴重ですね」
千尋は松本さんをみどりのいる池に案内した。
「素晴らしい池ですね」松本さんが感動して言った。「亀も元気そうで、水質も良好のようです」
「みどりちゃんが、この池を守ってくれているんです」
松本さんはみどりを見つめながら、深く頷いた。
「亀は環境の指標動物とも言われています。亀が元気に暮らせる環境は、他の生き物にとっても良い環境なんです」
千尋は松本さんの話を興味深く聞いた。みどりの存在が、環境保護の大切さを教えてくれているのだ。
「もしよろしければ、こちらの神社を環境保護のモデルケースとして紹介させていただけませんか?」
松本さんの提案に、千尋と和彦は快く同意した。
数週間後、松本さんが主催する環境保護のイベントが椿森神社で開催された。多くの家族連れが参加し、みどりとの触れ合いや、池の生態系について学んだ。
「亀のみどりちゃんは、この池の環境が良好であることを示してくれています」松本さんが参加者に説明した。「私たちも、みどりちゃんのように、自然を大切にしていきましょう」
子どもたちは、みどりに興味津々だった。
「みどりちゃん、こんにちは」小さな女の子がみどりに話しかけると、みどりは首を伸ばして応えた。
「わあ、みどりちゃんが返事してくれた」
千尋は子どもたちの純粋な喜びを見て、心が温かくなった。みどりは、人と自然をつなぐ大切な架け橋になっているのだ。
イベントの最後に、参加者全員でみどりの池の周りに集まり、環境保護の誓いを立てた。
「私たちは、みどりちゃんと一緒に、この美しい自然を守っていくことを誓います」
その時、不思議なことが起こった。みどりが池の中央に泳いでいくと、水面に美しい波紋が広がった。そして、その波紋が虹色に輝いたのだ。
「まあ、きれい」参加者たちが感動の声を上げた。
千尋には分かった。これは、池の神様からの祝福だった。人々の環境保護への想いが、神様に届いたのだ。
イベントが終わった後、千尋はみどりのそばに座って感謝の気持ちを伝えた。
「みどりちゃん、ありがとう。あなたのおかげで、多くの人が自然の大切さを学んでくれました」
みどりは千尋を見つめて、満足そうな表情を浮かべた。
その夜、千尋は日記を書いた。
『みどりちゃんとの出会いは、私にとって大きな学びとなりました。動物との交流能力がさらに発達し、みどりちゃんを通じて神社の歴史や未来を垣間見ることができました。
また、環境保護の大切さも学びました。みどりちゃんは、自然と人間の共存の象徴のような存在です。
健太くんが神社に興味を持ってくれたのも、みどりちゃんのおかげです。動物には、人の心を開く不思議な力があるのですね。
これからも、みどりちゃんと一緒に、多くの人に自然の素晴らしさを伝えていきたいと思います』
千尋は日記を閉じて、窓の外を見た。月明かりに照らされた池で、みどりが静かに泳いでいるのが見えた。
白雪と小太郎も、みどりを受け入れて、神社の動物ファミリーの一員として迎え入れていた。三匹とも、それぞれ違う個性を持ちながら、調和して暮らしている。
翌日、千尋は池のそばで瞑想をしていると、みどりから新しいメッセージを受け取った。
それは、池をさらに美しくするためのアイデアだった。水生植物を植えて、小魚を放し、より豊かな生態系を作るという提案だった。
「みどりちゃん、素晴らしいアイデアね」
千尋は早速和彦に相談し、池の環境改善プロジェクトを始めることにした。
松本さんにも協力してもらい、専門家のアドバイスを受けながら、池に水生植物を植えた。蓮の花、水草、そして小さな魚たちも放した。
数週間後、池は見違えるほど美しくなった。蓮の花が咲き、小魚が泳ぎ、トンボも飛んでくるようになった。
みどりは、この変化をとても喜んでいるようだった。新しい仲間たちと一緒に、より豊かな環境で暮らせるようになったのだ。
ある日、椿庵に年配の女性が訪れた。
「こんにちは。池に亀がいると聞いて、見に来ました」
女性は七十代で、昔からこの地域に住んでいるという。
「実は、私の亡くなった主人が亀を飼っていたんです。とても可愛がっていて、亡くなる前に『亀は長生きだから、きっと私の分まで生きてくれる』と言っていました」
千尋は女性をみどりのいる池に案内した。
「まあ、本当に立派な亀ですね」女性が感動して言った。「主人が飼っていた亀にそっくりです」
女性がみどりを見つめていると、みどりは女性の方に泳いできて、首を伸ばした。
「あら、まるで主人を覚えているみたい」女性が涙ぐみながら言った。
千尋は、みどりから温かい感情を感じ取った。それは、亡くなったご主人への想いと、奥様への慰めの気持ちだった。
「きっと、ご主人様の愛情を感じ取っているのですね」千尋が優しく言うと、女性は安らかな表情を浮かべた。
「そうかもしれませんね。主人も、きっと喜んでくれているでしょう」
その日から、女性は定期的に神社を訪れ、みどりに会いに来るようになった。みどりも、女性を特別に慕っているようだった。
千尋は、みどりが多くの人々の心を癒していることを実感した。動物には、人間の心に直接働きかける不思議な力があるのだ。
秋が近づいてきた頃、千尋はみどりと一緒に池のそばで過ごす時間が増えた。みどりからは、季節の変化を敏感に感じ取る能力や、自然のリズムに合わせて生きることの大切さを学んだ。
「みどりちゃん、あなたは私の大切な先生ね」
千尋がみどりに感謝の気持ちを伝えると、みどりは満足そうに首を振った。
椿森神社の動物たちは、それぞれが特別な役割を持っていた。白雪は人々の心を癒し、小太郎は警戒心を解いて心を開かせ、みどりは長い目で物事を見る知恵と、自然との調和を教えてくれる。
千尋は、これらの動物たちと共に、さらに多くの人々の心を癒していきたいと思った。みどりとの出会いは、千尋の動物との交流能力を大きく発展させ、自然保護への意識も高めてくれた。
夏の終わりが近づく中、椿森神社には新しい命と希望が満ちていた。みどりが運んでくれた新たな出会いと学びは、これからの千尋の成長にとって、かけがえのない財産となるだろう。