第4話 迷子の神様
椿庵の開店から一週間が過ぎた。毎日数人のお客様が訪れ、千尋は少しずつカフェの運営に慣れてきていた。田中一郎は約束通り毎朝のお参りの後に立ち寄り、山田花子も息子との関係が少しずつ改善していることを嬉しそうに報告してくれた。佐藤美咲も、内向的な生徒との距離が縮まったと感謝の言葉を述べていた。
ある朝、千尋は境内の清掃をしていて、普段は気づかなかった場所に小さな祠があることを発見した。境内の奥、椿の木の陰に隠れるように建っていたその祠は、長年の風雨にさらされて傷んでいた。
「和彦さん、あの小さな祠は何ですか?」
千尋が指差すと、和彦は少し困ったような表情を浮かべた。
「ああ、あれは道祖神の祠です。昔からあるのですが、最近は手入れが行き届かなくて」
道祖神。千尋は祖母から聞いたことがあった。旅の安全や道案内を司る神様で、特に迷子や道に迷った人を助けてくれると言われている。
「とても傷んでいますね。修復できないでしょうか?」
「そうですね。実は以前から気になっていたのですが、なかなか手が回らなくて」和彦が申し訳なさそうに言った。
「私にお手伝いできることがあれば、ぜひやらせてください」
和彦は千尋の申し出に感謝した。午後の営業が終わった後、二人で祠の状態を詳しく調べることにした。
祠は思っていたよりも古く、江戸時代後期に建てられたもののようだった。木材の一部が腐食し、屋根も雨漏りしている。しかし、基本的な構造はしっかりしており、丁寧に修復すれば元の美しさを取り戻せそうだった。
「まずは腐った部分を取り除いて、新しい木材で補修しましょう」和彦が説明した。
千尋は初めての修復作業に緊張したが、和彦の指導のもと、慎重に作業を進めた。古い木材を取り除くと、祠の中に小さな石像が安置されているのが見えた。
「これが道祖神様ですね」
石像は手のひらほどの大きさで、優しい表情をした神様が彫られていた。長年の風雨で表面は少し摩耗していたが、その温かい表情は今でもはっきりと分かった。
「この神様は、昔からこの地域の人々を見守ってくださっていたのです」和彦が説明した。「特に、道に迷った人や困っている旅人を助けてくれると言われていました」
千尋は石像を見つめていると、不思議な感覚を覚えた。まるで、神様が自分を見つめ返しているような気がするのだ。
修復作業は数日かかった。千尋は毎日カフェの営業が終わった後、和彦と一緒に祠の修復に取り組んだ。新しい木材で腐った部分を補修し、屋根を修理し、全体を丁寧に清掃した。
作業をしている間、千尋は道祖神について和彦から多くのことを学んだ。
「道祖神は、境界を守る神様でもあります」和彦が説明した。「この世とあの世、聖なる場所と俗なる場所の境界を守り、悪いものが入ってこないようにしてくれるのです」
「それで、神社の境内にいらっしゃるのですね」
「はい。そして、道に迷った人だけでなく、人生に迷った人も導いてくれると言われています」
千尋はその言葉に深い意味を感じた。自分も、都会での生活に迷い、この神社にたどり着いたのかもしれない。
修復作業の最終日、千尋は祠の前で手を合わせた。
「道祖神様、長い間お疲れさまでした。これからも、この地域の人々をお守りください」
その時、千尋は不思議な体験をした。祠の中から、温かい光が漏れてきたのだ。そして、その光の中に、小さな人影が見えた。
手のひらほどの大きさの、優しい顔をした老人の姿だった。白い髭を蓄え、杖を持ち、旅装束を身にまとっている。まさに、道祖神そのものの姿だった。
「ありがとう、若い巫女よ」
小さな神様が千尋に向かって話しかけた。千尋は驚いて目を擦ったが、神様の姿ははっきりと見えていた。
「道祖神様...本当にいらっしゃるのですね」
「長い間、この祠は忘れられていた。しかし、お前が心を込めて修復してくれたおかげで、再び力を取り戻すことができた」
道祖神は感謝の気持ちを込めて、千尋に頭を下げた。
「これからも、困っている人々を助けたいと思っている。お前の力を貸してもらえるだろうか」
「はい、喜んで」千尋は迷わず答えた。
道祖神は満足そうに微笑むと、光と共に祠の中に消えていった。千尋は一人残されたが、心は温かい気持ちで満たされていた。
翌日、千尋がカフェで営業をしていると、境内で子どもの泣き声が聞こえてきた。急いで外に出ると、五歳ぐらいの男の子が一人で泣いている。
「どうしたの?」千尋が優しく声をかけると、男の子は涙を流しながら答えた。
「ママがいない...迷子になっちゃった」
千尋は男の子を抱き上げて、カフェの中に連れて行った。温かいお茶を飲ませながら、詳しい話を聞いた。
「お名前は?」
「たかし」
「たかしくん、ママとはどこで離れ離れになったの?」
「公園で遊んでて...気がついたらママがいなくなってた」
千尋は困った。この辺りには公園がいくつかあり、どこの公園なのか分からない。警察に連絡するべきかと考えていた時、祠の方から微かな光が見えた。
道祖神が現れたのだ。小さな神様は千尋にだけ見える姿で、祠の前に立っていた。
「あの子を家族の元に帰してあげよう」道祖神が言った。
「でも、どこの公園なのか分からないんです」
「心配いらない。私が案内する」
道祖神は杖を振ると、空中に小さな光の道筋が現れた。それは神社から外に向かって伸びており、まるで道案内をしているようだった。
「たかしくん、ママを探しに行きましょう」千尋が男の子に声をかけた。
「本当?」たかしの目が輝いた。
千尋はたかしの手を引いて、光の道筋に従って歩き始めた。道祖神は先頭に立って案内してくれる。
神社から十分ほど歩くと、住宅街の中にある小さな公園に着いた。そこで、一人の女性が必死に誰かを探している姿が見えた。
「ママ!」たかしが叫んで駆け出した。
「たかし!」女性もたかしに気づいて、涙を流しながら抱きしめた。
「どこに行ってたの?心配したのよ」
「神社のお姉さんが、ママを探してくれたの」たかしが千尋を指差した。
女性は千尋に深々と頭を下げた。
「本当にありがとうございました。どうやって、ここが分かったのですか?」
千尋は少し困った。道祖神の存在を説明するわけにはいかない。
「たかしくんの話を聞いて、この辺りかなと思ったんです」
「神社の方ですか?」
「はい。椿森神社でカフェをしています」
「椿森神社...実は私の母がよくお参りに行っていました。今度、お礼を兼ねて伺わせていただきます」
母子が帰っていくのを見送りながら、千尋は道祖神に感謝した。
「ありがとうございました。無事に家族の元に帰すことができました」
「これが私の役目だ」道祖神が微笑んだ。「困っている人を助けることが、私の喜びなのだ」
神社に戻ると、和彦が心配そうに待っていた。
「千尋さん、迷子の子どもを助けたそうですね」
「はい。無事に家族の元に帰すことができました」
「素晴らしいですね。きっと、道祖神様がお導きくださったのでしょう」
和彦の言葉に、千尋は驚いた。道祖神の存在を知っているのだろうか。
「道祖神様は、本当にいらっしゃるのでしょうか?」
「神様の存在は、信じる心によって決まります」和彦が優しく微笑んだ。「千尋さんのように純粋な心を持つ人には、きっと神様も姿を現してくださるでしょう」
その夜、千尋は修復された祠の前で手を合わせた。
「道祖神様、今日はありがとうございました。これからも、困っている人々をお助けください」
祠の中から、温かい光が漏れてきた。道祖神が応えてくれているのだと、千尋は感じた。
翌日、たかしの母親が約束通りカフェを訪れた。
「昨日は本当にありがとうございました」
「いえいえ、無事で良かったです」
「実は、私の母から椿森神社の話をよく聞いていたんです。道祖神様がいらっしゃって、迷子を助けてくれるって」
千尋は驚いた。地域の人々の間では、道祖神の存在が語り継がれていたのだ。
「お母様も、道祖神様のことをご存知なのですね」
「はい。昔、母も道に迷った時に、不思議な老人に助けられたことがあるそうです。その老人は、まるで神様のようだったと言っていました」
千尋は感動した。道祖神は昔から、この地域の人々を見守り続けていたのだ。
その日の夕方、千尋は境内を散歩していると、鈴木太郎という男性が現れた。三十代半ばのフリーライターで、神社やカフェに興味を持っているようだった。
「こんにちは。私、鈴木太郎と申します。フリーライターをしているのですが、こちらの神社カフェについて記事を書かせていただけないでしょうか」
千尋は和彦に相談してから答えることにした。
「宮司さんに確認してから、お返事いたします」
「ありがとうございます。実は、昨日の迷子の件も聞いたんです。とても興味深い話ですね」
鈴木は昨日の出来事を知っていた。地域の人々の間で、話題になっているようだ。
「どのようにして、迷子の子どもを見つけたのですか?」
千尋は慎重に答えた。
「たまたま、その公園の近くを通りかかったんです」
「でも、この辺りには公園がたくさんありますよね。なぜ、その公園だと分かったのでしょうか?」
鈴木の質問は鋭かった。千尋は困ったが、正直に答えることにした。
「直感、でしょうか。なんとなく、そちらの方向に行けば良いような気がしたんです」
「直感...面白いですね。神社という神聖な場所にいると、そういう感覚が研ぎ澄まされるのかもしれませんね」
鈴木は興味深そうにメモを取った。
和彦に相談すると、記事の件は快く承諾してくれた。
「神社のことを多くの人に知ってもらえるのは良いことです。ただし、あまり大げさに書かれると困りますが」
「分かりました。そのことも、鈴木さんにお伝えします」
数日後、鈴木が再び訪れて、詳しい取材を行った。千尋は神社の歴史、カフェの開店経緯、日々の出来事などを話した。道祖神のことは直接的には話さなかったが、神社には不思議な力があることをほのめかした。
「とても興味深い話ですね。神社とカフェという組み合わせも斬新ですし、千尋さんの人柄も素晴らしい」
「ありがとうございます」
「記事が掲載されたら、きっと多くの人が訪れるようになりますよ」
千尋は少し不安になった。あまり有名になりすぎると、神社の静寂な雰囲気が失われてしまうかもしれない。
「でも、神社の平和な雰囲気は大切にしたいんです」
「もちろんです。その点も記事に書かせていただきます」
鈴木が帰った後、千尋は道祖神の祠の前で手を合わせた。
「道祖神様、これからもっと多くの人が神社を訪れるようになるかもしれません。どうか、皆さんをお守りください」
祠の中から、温かい光が漏れてきた。道祖神が応えてくれているのだと、千尋は感じた。
その夜、千尋は日記を書いた。
『道祖神様の祠を修復して、本当に良かったです。神様は確かにいらっしゃって、困っている人々を助けてくださいます。たかしくんを無事に家族の元に帰すことができたのも、道祖神様のおかげです。
鈴木さんという記者の方が、神社の記事を書いてくださることになりました。多くの人に神社のことを知ってもらえるのは嬉しいですが、静かな雰囲気も大切にしたいと思います。
神社には、まだまだ知らないことがたくさんありそうです。これからも、一つ一つ学んでいきたいと思います』
千尋は日記を閉じて、窓の外を見た。月明かりに照らされた祠が、静かに佇んでいる。道祖神様も、きっと見守ってくださっているのだろう。
白雪が千尋の膝の上で丸くなり、小太郎も遠くから様子を窺っている。神社の動物たちも、道祖神様の存在を感じているのかもしれない。
椿森神社には、多くの神様が宿っている。千尋は、その神様たちと共に、人々の心を癒していきたいと思った。
明日も、きっと新しい出会いと発見が待っている。千尋は期待に胸を膨らませながら、眠りについた。