第3話 初めてのお客様
桜が満開を迎えた四月下旬、ついにカフェ「椿庵」の開店日がやってきた。千尋は朝早くから準備に取りかかっていた。巫女装束の上にエプロンを着けた姿は少し不思議だったが、和彦は「神社らしくて良い」と笑顔で言ってくれた。
茶室を改装したカフェは、想像以上に素敵な空間になっていた。古い木材の温もりと現代的な設備が調和し、窓からは手入れの行き届いた庭園が見える。客席は八席ほどの小さなカフェだが、一つ一つの席に心を込めて準備した。
「千尋さん、緊張していますか?」和彦が声をかけてきた。
「はい、少し」千尋は正直に答えた。「でも、楽しみでもあります。どんな方が来てくださるのでしょうか」
「きっと、素敵な出会いがありますよ」
開店時間の午前十時が近づくと、千尋は最後の準備を確認した。御神水で淹れたお茶、手作りの和菓子、精進料理風の軽食。どれも心を込めて作ったものばかりだ。
白雪は千尋の足元で、まるで開店を祝福するように鳴いている。小太郎も遠くから様子を窺っているのが見えた。
「それでは、開店いたします」
和彦が「椿庵」の看板を掲げると、千尋は深呼吸をして扉を開けた。
最初の一時間は、誰も来なかった。千尋は少し不安になったが、和彦は「焦らなくて大丈夫」と励ましてくれた。
そして午前十一時頃、最初のお客様が現れた。
「おはようございます」
声をかけてきたのは、七十歳ほどの初老の男性だった。背筋がまっすぐで、品の良い雰囲気を漂わせている。千尋は慌てて迎えに出た。
「いらっしゃいませ。椿庵へようこそ」
そういえば、和彦が毎朝お参りに来てくださる初老の紳士が居ると言っていた。
確か名前は…
「もしかして、田中一郎さんですか…?」
「ふむ…よくご存じですね。毎朝こちらの神社に参拝させて頂いてるのですが、何やら見慣れない物がありましたのでね」
「ありがとうございます。どうぞ、お好きな席にお座りください」
田中は窓際の席を選んだ。庭園を眺めながら、ゆっくりと座った。
「メニューはこちらです」千尋が手作りのメニューを差し出した。
「御神水のお茶というのは珍しいですね」田中が興味深そうに言った。
「はい。神社の御神水で淹れた特別なお茶です。今の季節でしたら、桜茶がおすすめです」
「それでは桜茶をお願いします。和菓子も一緒に」
千尋は厨房に向かい、丁寧にお茶を淹れた。御神水は確かに普通の水とは違う。まろやかで、どこか神聖な感じがする。桜の花びらを浮かべた薄紅色のお茶は、見た目にも美しかった。
「お待たせいたしました」
千尋がお茶と和菓子を運ぶと、田中は感心したように見つめた。
「美しいお茶ですね。まるで芸術品のようです」
「ありがとうございます」
田中が一口飲むと、表情が和らいだ。
「これは...とても美味しいですね。心が落ち着きます」
千尋は嬉しくなった。最初のお客様に喜んでもらえて、緊張が少しほぐれた。
田中はゆっくりとお茶を飲みながら、庭園を眺めていた。その表情には、どこか寂しげな影があった。千尋は気になって、そっと声をかけた。
「庭園、いかがですか?」
「とても美しいですね。妻が生きていたら、きっと喜んだでしょう」
田中の声には、深い悲しみが込められていた。千尋は椅子を引いて、田中の向かいに座った。
「奥様を亡くされたのですね」
「はい。三年前に病気で。四十五年間連れ添った妻でした」田中は遠くを見つめるような目をした。「毎朝神社にお参りしているのも、妻の冥福を祈るためです」
千尋は田中の深い愛情を感じた。四十五年間という長い年月を共に過ごした夫婦の絆は、どれほど深いものだったのだろう。
「きっと、奥様も田中さんの想いを感じていらっしゃると思います」
「そうでしょうか」田中が千尋を見つめた。「時々、妻の声が聞こえるような気がするのです。でも、それは私の願望なのかもしれません」
その時、千尋は不思議な感覚を覚えた。田中の周りに、温かい気配を感じるのだ。それは愛情に満ちた、優しい女性の存在だった。
「田中さん」千尋は慎重に言葉を選んだ。「奥様は、いつもあなたのそばにいらっしゃるような気がします。そして、あなたが毎日お参りしてくださることを、とても喜んでいらっしゃるのではないでしょうか」
田中の目に涙が浮かんだ。
「本当に、そう思いますか?」
「はい。愛する人への想いは、決して消えることはありません。きっと、奥様もあなたを見守っていらっしゃいます」
田中は静かに涙を流した。それは悲しみの涙ではなく、安堵の涙のようだった。
「ありがとうございます。久しぶりに、心が軽くなりました」
田中がお茶を飲み終えると、千尋は新しいお茶を淹れた。今度は、心を落ち着ける効果のある薬草を少し加えた。祖母から教わった、特別なブレンドだった。
「これは?」
「心を癒すお茶です。よろしければ」
田中は感謝の気持ちを込めて、そのお茶を飲んだ。表情がさらに穏やかになったのを、千尋は見逃さなかった。
田中が帰る時、千尋は丁寧にお見送りした。
「また、お参りの後にお立ち寄りください」
「はい、ぜひ。素晴らしいカフェですね。妻も喜んでいると思います」
田中の後ろ姿を見送りながら、千尋は温かい気持ちになった。最初のお客様との出会いは、とても特別なものだった。
午後になると、二人目のお客様が現れた。四十代半ばの女性で、少し疲れた様子だった。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは。山田花子と申します。近所に住んでいるのですが、カフェができたと聞いて」
山田花子は、近所の主婦だった。エプロン姿で、買い物帰りのようだ。
「ありがとうございます。どうぞ、お好きな席に」
山田は田中とは違い、カウンター席を選んだ。千尋と話しやすい位置だった。
「何かおすすめはありますか?」
「今の季節でしたら、桜茶がおすすめです。それと、手作りの和菓子もございます」
「それでは、それをお願いします」
千尋がお茶を淹れている間、山田は疲れたようにため息をついた。
「お疲れのようですね」千尋が声をかけると、山田は苦笑いを浮かべた。
「家族のことで、少し悩んでいまして」
千尋はお茶を差し出しながら、山田の話を聞く姿勢を示した。
「よろしければ、お聞かせください」
山田は一口お茶を飲んでから、ゆっくりと話し始めた。
「高校生の息子がいるのですが、最近反抗期で。勉強もしないし、家族との会話も避けるようになって。主人は仕事が忙しくて、息子のことは私に任せっきりで」
千尋は山田の話を静かに聞いた。子育ての悩みは、多くの母親が抱える問題だろう。
「息子さんは、何か特別な興味や関心はありますか?」
「昔は野球が好きだったのですが、最近は部活も辞めてしまって。何に興味があるのか、よく分からないんです」
千尋は考えた。反抗期の子どもは、自分の存在意義や将来への不安を抱えていることが多い。
「息子さんと、最後にゆっくり話したのはいつ頃ですか?」
「そういえば...もう半年以上前かもしれません」山田が困ったような顔をした。
「もしかしたら、息子さんも話したいことがあるのかもしれませんね。ただ、どう話していいか分からないのかも」
「そうでしょうか」
「お母さんから、息子さんの好きだったことについて話しかけてみてはいかがでしょうか。野球の話とか、昔の思い出とか」
山田の表情が少し明るくなった。
「そうですね。最近は叱ってばかりで、楽しい話をしていませんでした」
千尋は新しいお茶を淹れた。今度は、心を穏やかにする効果のある薬草をブレンドした。
「これは、心を落ち着けるお茶です。息子さんと話す前に、お母さん自身がリラックスすることも大切だと思います」
山田はそのお茶を飲んで、深く息を吸った。
「不思議ですね。心が軽くなったような気がします」
「息子さんも、きっとお母さんの愛情を感じていらっしゃいます。時間はかかるかもしれませんが、きっと分かり合える日が来ますよ」
山田は涙ぐみながら、千尋に感謝の言葉を述べた。
「ありがとうございます。久しぶりに、希望が持てました」
山田が帰る時、千尋は手作りのクッキーを小袋に入れて渡した。
「息子さんと一緒に食べてください」
「ありがとうございます。また来させていただきます」
夕方近くになると、三人目のお客様が現れた。二十代後半の女性で、教師のような雰囲気だった。
「こんにちは。佐藤美咲と申します」
「いらっしゃいませ。椿庵へようこそ」
佐藤美咲は、近くの小学校で教師をしている女性だった。仕事帰りの様子で、少し疲れているようだった。
「神社にカフェがあると聞いて、興味を持ちました」
「ありがとうございます。お疲れのようですね」
「はい。仕事で少しストレスが溜まっていまして」美咲は苦笑いを浮かべた。
千尋は美咲を窓際の席に案内した。庭園の緑が、疲れた心を癒してくれるだろう。
「何かおすすめはありますか?」
「疲労回復に効果のある薬草茶はいかがでしょうか。体と心の両方に優しいお茶です」
「それは良いですね。お願いします」
千尋が薬草茶を淹れている間、美咲は庭園を眺めていた。その表情には、深い疲労が刻まれていた。
「お仕事は大変ですか?」千尋がお茶を差し出しながら尋ねた。
「小学校の教師をしているのですが、最近の子どもたちは難しくて」美咲がため息をついた。「家庭環境が複雑な子も多く、どう接していいか分からないことがあります」
千尋は美咲の話を真剣に聞いた。教師という職業の大変さは、想像以上のものがあるだろう。
「具体的には、どのようなことで悩んでいらっしゃるのですか?」
「クラスに、とても内向的な子がいるんです。友達とも話さず、授業中も発言しない。家庭訪問をしても、両親は忙しくて子どもに関心が薄いようで」
千尋は考えた。内向的な子どもは、心の中に豊かな世界を持っていることが多い。
「その子は、何か特別な才能や興味を持っていませんか?」
「そういえば、絵を描くのが好きなようです。休み時間に一人で絵を描いているのを見かけます」
「それは素晴らしいですね。絵を通じて、その子とコミュニケーションを取ってみてはいかがでしょうか」
美咲の目が輝いた。
「絵を通じて、ですか?」
「はい。その子の絵を褒めたり、一緒に絵について話したり。きっと、心を開いてくれると思います」
千尋は新しいお茶を淹れた。今度は、創造力を高める効果があると言われる薬草をブレンドした。
「これは、心を豊かにするお茶です。子どもたちと接する時に、きっと役に立ちますよ」
美咲はそのお茶を飲んで、表情が明るくなった。
「不思議ですね。心が軽くなって、新しいアイデアが浮かんできそうです」
「子どもたちは、先生の愛情をちゃんと感じています。時間はかかるかもしれませんが、きっと心を開いてくれますよ」
美咲は感謝の気持ちを込めて、千尋に頭を下げた。
「ありがとうございます。明日から、また頑張れそうです」
美咲が帰る時、千尋は小さな折り紙を渡した。
「子どもたちと一緒に作ってみてください」
「ありがとうございます。きっと喜びます」
一日の営業を終えて、千尋は和彦と一緒に片付けをしていた。
「千尋さん、素晴らしい一日でしたね」和彦が嬉しそうに言った。
「はい。三人のお客様と、とても良い出会いができました」
「千尋さんには、人の心を癒す特別な力がありますね」
千尋は少し照れた。確かに、お客様の悩みを聞いているうちに、自然と適切な言葉が浮かんできた。それは、祖母から教わった知識と、神社での生活で身につけた感性が組み合わさったものかもしれない。
「明日も、きっと素敵な出会いがありますね」
千尋は窓の外を見た。夕日に照らされた境内で、白雪が静かに歩いている。小太郎も、遠くから様子を窺っているのが見えた。
椿庵の初日は、大成功だった。三人のお客様との出会いは、千尋にとって大きな学びとなった。人それぞれに抱える悩みは違うが、誰もが愛情と理解を求めているのだと感じた。
その夜、千尋は日記を書いた。
『椿庵の開店日でした。三人のお客様が来てくださり、それぞれの悩みを聞かせていただきました。田中さんの奥様への深い愛情、山田さんの息子さんへの想い、美咲さんの子どもたちへの愛情。皆さん、大切な人を思う気持ちは同じなのだと感じました。
私にできることは小さなことかもしれませんが、お客様の心が少しでも軽くなったなら嬉しいです。神社という神聖な場所で、人々の心を癒すお手伝いができることを、とても光栄に思います。
明日も、新しい出会いが待っているでしょう。楽しみです』
千尋は日記を閉じて、窓の外を見た。月明かりに照らされた椿の木が、静かに佇んでいる。きっと、神様も今日の出来事を見守ってくださっていたのだろう。
椿庵での新しい物語が、今日から始まった。