第2話 カフェ開店準備
椿森神社での生活が始まって一週間が過ぎた。千尋は毎朝早起きして境内の清掃を手伝い、和彦から神道の基本を学んでいた。都会での慌ただしい生活とは正反対の、ゆったりとした時間の流れに、心身ともに癒されていくのを感じていた。
「千尋さん、今日は特別な日ですよ」
朝の清掃を終えた後、和彦が嬉しそうに声をかけてきた。
「特別な日、ですか?」
「はい。千尋さんに巫女装束を着ていただこうと思います。正式な修行を始める前に、まずは装束に慣れていただきましょう」
千尋は少し緊張した。巫女装束を着るということは、正式に神様にお仕えするということだ。自分にその資格があるのだろうか。
「大丈夫です。千尋さんなら、きっと立派な巫女になれます」和彦は千尋の不安を察したように優しく微笑んだ。
社務所の奥で、和彦が大切に保管していた巫女装束を見せてくれた。真っ白な白衣に朱色の袴、そして白い足袋。どれも丁寧に手入れされており、神聖な雰囲気を漂わせていた。
「これは、昔この神社にいた巫女さんの装束です。サイズも千尋さんにちょうど良いと思います」
千尋は装束を受け取り、丁寧に着付けを教わった。白衣を着て、袴を履き、髪を結い上げる。鏡に映った自分の姿を見て、千尋は驚いた。
「まあ、とても似合っていますね」和彦が感心したように言った。「まるで、生まれながらの巫女のようです」
千尋は鏡の中の自分を見つめた。確かに、巫女装束が自然に馴染んでいる。まるで、この装束を着ることが運命だったかのように。
「それでは、正式な修行を始めましょう」
和彦に案内されて、千尋は拝殿に向かった。巫女装束を着て歩く境内は、いつもとは違って見えた。一歩一歩に重みがあり、神聖な気持ちが湧いてくる。
拝殿の前で、和彦が祝詞の読み方を教えてくれた。古い言葉で書かれた祝詞は難しかったが、千尋は一生懸命覚えようとした。
「神道では、言霊という考え方があります。言葉には魂が宿り、正しく唱えることで神様に想いが届くのです」
和彦の説明を聞きながら、千尋は祝詞を練習した。最初はたどたどしかったが、だんだんと滑らかに読めるようになってきた。
その時、不思議なことが起こった。千尋が祝詞を唱えていると、境内の空気が変わったのだ。まるで、神様が降りてきたかのような、神聖な雰囲気に包まれた。
「素晴らしい」和彦が感動したように言った。「千尋さんには、本当に巫女の素質がありますね」
千尋自身も、何か特別なものを感じていた。祝詞を唱えている間、椿の木からの温かいエネルギーがより強く感じられたのだ。
午後になると、茶室の改装作業が始まった。地元の大工さんや電気工事の職人さんたちが集まり、古い茶室をカフェに改装する作業を開始した。
「椿森さん、本当にカフェを作るんですね」大工の棟梁が感心したように言った。「神社にカフェなんて、面白いアイデアですね」
「はい。多くの人に神社に親しんでもらいたいと思いまして」和彦が答えた。「こちらが、お手伝いしてくださる白石さんです」
千尋は巫女装束のまま、職人さんたちに挨拶をした。最初は驚かれたが、すぐに温かく迎え入れてもらえた。
「巫女さんがカフェの手伝いをするなんて、珍しいですね」電気工事の職人さんが笑いながら言った。「でも、きっと素敵なカフェになりますよ」
千尋は職人さんたちの作業を見学しながら、カフェの完成予想図を頭に描いていた。厨房の配置、客席のレイアウト、窓からの景色の活かし方など、細かい部分まで考えていく。
「千尋さん、何かアイデアがあれば、遠慮なくおっしゃってください」和彦が声をかけてきた。
「そうですね...お客様が庭園を眺めながらお茶を楽しめるように、窓際の席を多めに作ってはいかがでしょうか」
「それは良いアイデアですね。庭園の美しさも、カフェの魅力の一つになりますから」
千尋の提案が採用され、窓際に特別な席が設けられることになった。自分の意見が反映されることで、千尋はカフェへの愛着がさらに深まった。
夕方になり、職人さんたちが帰った後、千尋と和彦はカフェのメニューについて話し合った。
「御神水で淹れるお茶をメインにしたいと思うのですが、どのような種類が良いでしょうか」和彦が尋ねた。
「季節に合わせて変えてはいかがでしょうか」千尋が提案した。「春は桜茶、夏は薬草茶、秋は紅葉茶、冬は柚子茶など」
「素晴らしいアイデアですね。季節感を大切にするのは、とても日本的で良いと思います」
和彦は千尋の提案に感動していた。千尋自身も、祖母から教わった薬草の知識が役に立つことを嬉しく思った。
「和菓子についてはいかがでしょうか」
「私が作ってみたいと思います」千尋が言った。「祖母から和菓子作りを教わったことがあるんです」
「本当ですか?それは心強いですね。ぜひ、お願いします」
二人でメニューの詳細を詰めていくうちに、カフェの全体像が見えてきた。神社の神聖な雰囲気を活かしながら、多くの人に愛される温かい場所にしたいという想いが共通していた。
その時、茶室の縁側に小さな白い影が現れた。真っ白な毛玉のような小さな猫が、恐る恐る様子を窺っている。
「あら、可愛い猫ちゃんね」千尋が声をかけると、猫は警戒するように身を縮めた。
「野良猫でしょうか」和彦が心配そうに言った。「最近、この辺りで見かけるようになったんです」
千尋はゆっくりと猫に近づいた。猫は逃げようとしたが、千尋が優しく手を差し出すと、不思議なことに警戒を解いた。
「大丈夫よ、怖くないから」
千尋が優しく語りかけると、猫は恐る恐る千尋の手に鼻を近づけた。そして、安心したように千尋の膝の上に飛び乗ってきた。
「まあ、すごいですね」和彦が驚いた。「あの猫は人を警戒していたのに、千尋さんにはすぐに懐きましたね」
千尋は猫を優しく撫でながら、不思議な感覚を覚えていた。猫の気持ちが、なんとなく分かるような気がするのだ。この猫は迷子で、寂しい思いをしている。そして、温かい場所を探していた。
「この子、迷子みたいです」千尋が言った。「飼い主を探しているけれど、見つからなくて困っているようです」
「千尋さんには、動物の気持ちが分かるのですか?」
千尋は少し戸惑った。確かに、猫の気持ちが分かったような気がしたが、それが特別な能力なのかどうかは分からない。
「よく分からないのですが、この子がとても寂しがっているのは感じます」
「それでしたら、しばらく神社で面倒を見てあげましょう」和彦が優しく言った。「神社には昔から動物が住み着いていましたから、この子も神様のお使いかもしれません」
千尋は猫を抱き上げた。猫は安心したように千尋の胸で丸くなった。
「この子の名前、何にしましょうか」
「真っ白だから、白雪はいかがでしょうか」和彦が提案した。
「白雪ちゃん、素敵な名前ね」千尋が猫に語りかけると、猫は小さく鳴いて答えた。
その夜、千尋は白雪と一緒に部屋で過ごした。白雪は千尋の膝の上で満足そうに眠っている。
千尋は白雪を撫でながら、今日一日のことを振り返った。巫女装束を初めて着て、正式な修行を始めた。カフェの改装も順調に進み、メニューのアイデアも固まってきた。そして、白雪との出会い。
不思議なことに、白雪と一緒にいると、動物の気持ちがより分かるような気がした。これも、神社での生活が自分に与えてくれた変化の一つなのかもしれない。
翌日から、千尋の日課に白雪の世話が加わった。朝の清掃の時も、白雪は千尋の後をついて回る。参拝者の中には、白雪を可愛がってくれる人も多く、神社の新しいアイドルになりつつあった。
「白雪ちゃん、とても人懐っこいのね」ある日、参拝に来た年配の女性が白雪を撫でながら言った。「この神社に来ると、心が癒されるわ」
千尋は嬉しくなった。白雪の存在が、神社をより温かい場所にしてくれているのだ。
カフェの改装も順調に進んでいた。厨房の設備が整い、客席も形になってきた。千尋は毎日、完成に近づいていくカフェを見るのが楽しみだった。
ある日、千尋は和彦と一緒に近所の商店街を歩いていた。カフェで使う食材を調達するためだ。
「椿森さん、本当にカフェを作るんですね」八百屋のおじさんが声をかけてきた。「楽しみにしていますよ」
「ありがとうございます。新鮮な野菜を使った料理も提供したいと思っていますので、よろしくお願いします」和彦が答えた。
「こちらが、カフェを手伝ってくださる白石さんです」
千尋は丁寧に挨拶をした。商店街の人々は皆温かく、千尋を歓迎してくれた。
「巫女さんがカフェの手伝いをするなんて、面白いですね」豆腐屋のおばさんが笑いながら言った。「きっと、美味しいものを作ってくれるでしょう」
千尋は地域の人々の期待を感じ、責任の重さも感じた。しかし、それ以上に、多くの人に愛されるカフェを作りたいという気持ちが強くなった。
商店街を歩いていると、千尋は様々な食材にインスピレーションを受けた。新鮮な野菜、手作りの豆腐、地元で作られた味噌など、どれも美味しそうで、カフェのメニューに活かせそうだった。
「千尋さん、何かアイデアが浮かびましたか?」和彦が尋ねた。
「はい。地元の食材を使った精進料理風のランチセットはいかがでしょうか。野菜中心で、体に優しいメニューです」
「それは素晴らしいアイデアですね。神社らしい、心身を清める料理になりそうです」
千尋は商店街の人々との交流を通じて、地域に根ざしたカフェを作ることの大切さを学んだ。単に美味しいものを提供するだけでなく、地域の人々とのつながりを大切にすることが重要なのだ。
夕方、神社に戻ると、白雪が千尋を迎えてくれた。千尋の膝の上で甘えるように鳴く白雪を見ていると、心が温かくなった。
「白雪ちゃん、今日も良い子にしていたのね」
千尋が白雪を撫でていると、境内の奥から別の猫の鳴き声が聞こえてきた。見ると、茶トラの雄猫が様子を窺っている。
「あら、また新しい猫ちゃんね」
千尋が近づこうとすると、茶トラ猫は警戒して距離を取った。白雪とは違い、この猫はなかなか人に慣れそうにない。
「あの子は小太郎です」和彦が説明した。「最近現れた野良猫で、とてもやんちゃなんです。昨日も、お供え物を狙って叱られたばかりです」
千尋は小太郎を見つめた。確かに警戒心が強そうだが、その奥に寂しさも感じられた。きっと、白雪と同じように、温かい場所を求めているのだろう。
「小太郎くんも、きっと仲良くなれますよ」千尋が言うと、小太郎は一瞬こちらを見たが、すぐに茂みの中に隠れてしまった。
その夜、千尋は日記を書いた。
『今日は巫女装束を初めて着ました。鏡に映った自分を見て、本当に巫女になったのだと実感しました。和彦さんから神道の基本を教わり、祝詞も少しずつ覚えています。
カフェの改装も順調に進んでいます。地域の職人さんたちや商店街の人々が、とても温かく迎えてくれて嬉しいです。みんなでカフェを作り上げているという感じがします。
白雪ちゃんとの出会いも特別でした。動物の気持ちが分かるような気がするのは、気のせいでしょうか。でも、白雪ちゃんと一緒にいると、とても心が安らぎます。小太郎くんとも、いつか仲良くなれたらいいなと思います。
神社での生活が始まって二週間。毎日が新しい発見の連続です。カフェが完成したら、どんな人たちが来てくれるのでしょうか。今から楽しみです』
千尋は日記を閉じて、窓の外を見た。月明かりに照らされた境内で、白雪が静かに歩いている。小太郎の姿も、茂みの影にちらりと見えた。
明日も、きっと新しい一日が始まる。千尋は期待に胸を膨らませながら、眠りについた。
椿森神社のカフェ「椿庵」の開店まで、あと少し。千尋の新しい人生が、着実に形になっていく。






