第11話 千尋の過去との向き合い
九月の中旬、秋の気配が感じられるようになった頃、千尋にとって予想外の来客があった。椿庵で午後のお茶の準備をしていると、見覚えのある女性が石段を上ってきた。
「千尋?本当に千尋なの?」
その声に千尋は振り返った。そこに立っていたのは、以前の会社で同期だった中村美穂だった。
「美穂さん!どうしてここに?」
美穂は三十代前半の女性で、千尋と同じ商社で働いていた同僚だった。バリバリのキャリアウーマンで、千尋が会社を辞める時も理解を示してくれなかった一人だった。
「SNSで椿森神社のことを見つけて、まさかと思って来てみたの。本当にあなただったのね」
美穂はスーツ姿で、都会的な雰囲気を漂わせていた。千尋の巫女装束姿を見て、驚いたような表情を浮かべている。
「椿庵にいらっしゃいませんか?お茶でもいかがですか?」
千尋は美穂を椿庵に案内した。美穂は周りを見回しながら、興味深そうに観察していた。
「こんなところで働いているのね。全然想像できなかったわ」
千尋は美穂にお茶を淹れながら、複雑な気持ちだった。美穂の存在は、自分の過去を思い出させた。
「美穂さんは、まだあの会社にいるのですか?」
「ええ、今は課長になったの。千尋が辞めた後、私が千尋の仕事も引き継いだのよ」
美穂は誇らしげに言った。確かに、美穂は優秀で野心的な女性だった。
「それは素晴らしいですね。おめでとうございます」
「ありがとう。でも、千尋はどうしてこんなところに?正直、理解できないわ」
美穂の言葉に、千尋は少し戸惑った。確かに、以前の自分なら美穂の気持ちも理解できただろう。
「私は、ここで自分らしい生活を見つけたんです」
「自分らしい生活?千尋、あなたはもっと大きなことができる人よ。こんなところで時間を無駄にしているなんて」
美穂の言葉は、千尋の心に複雑な感情を呼び起こした。確かに、以前の千尋は美穂と同じような価値観を持っていた。
その時、常連客の田中一郎がやってきた。
「千尋さん、こんにちは。いつものお茶をお願いします」
千尋は田中さんにお茶を淹れながら、美穂に紹介した。
「田中さん、こちらは私の以前の同僚の美穂さんです」
「はじめまして。千尋さんには、いつもお世話になっています」田中さんが丁寧に挨拶した。
美穂は田中さんを見て、少し困惑したような表情を浮かべた。
「千尋さんのお茶は、本当に心を癒してくれるんです」田中さんが続けた。「亡くなった妻のことで落ち込んでいた時、千尋さんに救われました」
美穂は田中さんの言葉を聞いて、驚いたような表情を浮かべた。
田中さんが帰った後、美穂は千尋に言った。
「あの人、本当に感謝していたのね」
「はい。田中さんだけでなく、多くの方がここに心の支えを求めて来てくださいます」
「でも、千尋、それって本当にあなたがやりたいことなの?」
美穂の質問に、千尋は考え込んだ。確かに、以前の自分なら想像もできない生活だった。
その時、山田花子と息子の健太がやってきた。
「千尋さん、こんにちは」花子が明るく挨拶した。
「健太くん、最近どうですか?」千尋が健太に声をかけると、健太は照れながら答えた。
「おかげさまで、家族との会話も増えました。この神社に来るようになってから、気持ちが落ち着いて」
花子も嬉しそうに言った。
「本当に、千尋さんには感謝しています。息子がこんなに変わるなんて」
美穂は山田親子の様子を見て、さらに困惑したような表情を浮かべた。
山田親子が帰った後、美穂は千尋に言った。
「みんな、あなたを慕っているのね」
「私は、ただお茶を淹れているだけです」
「でも、千尋、あなたには もっと大きな可能性があるのよ。会社に戻ってこない?今なら、良いポジションを用意できるわ」
美穂の提案に、千尋は動揺した。確かに、経済的な安定や社会的な地位を考えれば、会社に戻る方が良いのかもしれない。
その時、佐藤美咲がやってきた。
「千尋さん、お疲れさまです」美咲が挨拶すると、千尋は美穂に紹介した。
「美咲さんは小学校の先生をされています」
「先生ですか。大変なお仕事ですね」美穂が興味を示した。
「はい、でも千尋さんのおかげで、子どもたちとの接し方を学ばせていただいています」美咲が感謝を込めて言った。
「千尋さんから?」美穂が驚いて聞き返した。
「千尋さんは、人の心を理解する天才なんです。私が悩んでいた内向的な生徒のことも、千尋さんのアドバイスで解決できました」
美咲の言葉に、美穂は考え込んだ。
美咲が帰った後、美穂は千尋に言った。
「千尋、あなた変わったのね」
「変わった、ですか?」
「以前のあなたは、もっと...どう言えばいいのかしら。今のあなたの方が、なんだか輝いて見える」
千尋は美穂の言葉に驚いた。
夕方になると、新しい常連客の雅子、健一、正夫がやってきた。三人は既に家族のような関係になっていて、楽しそうに会話していた。
「千尋さん、いつもありがとうございます」雅子が感謝を込めて言った。
「僕も、ここに来るようになってから人生が変わりました」健一が続けた。
「私も、生きがいを見つけることができました」正夫も嬉しそうに言った。
美穂は三人の様子を見て、深く考え込んでいた。
三人が帰った後、美穂は千尋に言った。
「千尋、私間違っていたかもしれない」
「どういうことですか?」
「あなたが会社を辞めた時、私は理解できなかった。でも、今日ここで見たものは...あなたは本当に多くの人を幸せにしているのね」
千尋は美穂の言葉に感動した。
「美穂さん...」
「私は、成功とは地位や収入だと思っていた。でも、あなたを見ていると、本当の成功とは人を幸せにすることなのかもしれないと思えてきた」
美穂の言葉に、千尋は自分の選択が間違っていなかったことを確信した。
その夜、千尋は美穂と一緒に境内を散歩した。
「この神社、本当に美しいのね」美穂が感嘆した。
「はい。四季それぞれに違った美しさがあります」
二人は池のそばに座り、みどりを見つめた。
「あの亀、とても穏やかな表情をしているのね」
「みどりちゃんです。この神社の歴史を知っている、特別な亀なんです」
美穂は千尋の話を興味深く聞いていた。
「千尋、あなたは本当に変わったのね。以前のあなたは、もっと焦っていて、いつも何かに追われているような感じだった」
「そうでしたね。あの頃は、成功することばかり考えていました」
「でも、今のあなたは、とても穏やかで...なんだか、本当の自分を見つけたような感じがする」
千尋は美穂の言葉に深く頷いた。
「美穂さん、私は確かに変わりました。でも、それは成長だと思っています」
「成長...そうね、あなたは成長したのね」
二人は静かに夜空を見上げた。
「千尋、私も考え直してみるわ。本当の幸せとは何なのか」
「美穂さんにとっての幸せを見つけてください。それは、私とは違うかもしれませんが」
「ありがとう、千尋。今日来て良かった」
翌朝、美穂は帰ることになった。
「千尋、本当にありがとう。あなたに会えて、いろいろなことを考えさせられた」
「美穂さんも、お体に気をつけて。いつでも、ここに遊びに来てください」
「ええ、きっと来るわ。今度は、もっとゆっくりと」
美穂が帰った後、千尋は自分の過去と現在について深く考えた。
確かに、以前の自分は美穂と同じような価値観を持っていた。成功、地位、収入。それらが人生の目標だと思っていた。
しかし、今の自分は違う。人々の心を癒し、幸せにすることに喜びを感じている。それは、以前の自分では想像もできなかった幸せだった。
その日の午後、和彦が千尋に声をかけた。
「千尋さん、昨日のお客様は、以前の同僚の方でしたね」
「はい。久しぶりに会って、いろいろなことを考えました」
「どのようなことを?」
「以前の自分と今の自分の違いについてです。私は、本当に変わったのでしょうか?」
和彦は優しく微笑んだ。
「千尋さんは、確かに変わりました。でも、それは本来の自分を見つけたということだと思います」
「本来の自分...」
「はい。千尋さんには、人を癒す特別な力があります。それは、生まれ持った才能なのでしょう」
和彦の言葉に、千尋は深く納得した。
その夜、千尋は日記を書いた。
『美穂さんとの再会は、私にとって大きな意味がありました。過去の自分と現在の自分を比較することで、自分の成長を実感することができました。
以前の私は、成功や地位を求めて焦っていました。でも、今の私は、人々の心を癒すことに喜びを感じています。
美穂さんの言葉で、私の選択が間違っていなかったことを確信できました。これからも、多くの人の心の支えになれるよう、精進していきたいと思います』
千尋は日記を閉じて、窓の外を見た。秋の夜空に星が輝いている。過去の自分への感謝と、現在の自分への確信が、星のように心に輝いていた。
白雪、小太郎、みどりも、それぞれの場所で静かに休んでいる。動物たちも、千尋の成長を見守ってくれているのだろう。
過去との向き合いは、千尋にとって大きな成長の機会となった。自分の選択への確信が深まり、これからの人生への希望も膨らんだ。
椿森神社での生活は、千尋にとって単なる逃避ではなく、本当の自分を見つけるための大切な旅だったのだ。