第1話 椿森神社への到着
桜の花びらが舞い散る四月の午後、白石千尋は重いキャリーバッグを引きずりながら、古い石段を一歩一歩上っていた。都心から電車を乗り継いで二時間、下町の住宅街を抜けた先にある小高い丘の上に、椿森神社はひっそりと佇んでいる。
石段は思っていたよりも急で、二十二歳の千尋でも息が上がった。振り返ると、瓦屋根の家々が密集する下町の風景が一望できる。遠くには高層ビル群も見えるが、ここまで来ると都会の喧騒は嘘のように静まり返っていた。
「本当に、こんなところに来てしまったのね」
千尋は小さくつぶやいた。三日前まで、彼女は都内の大手商社で働いていた。大学を卒業してすぐに就職し、一年間必死に働き続けた。しかし、毎日終電近くまで続く残業、上司からの理不尽な叱責、同期との競争に疲れ果て、ついに心身ともに限界を迎えてしまった。
そんな時、故郷の祖母から一通の手紙が届いた。
『千尋ちゃん、都会の生活はいかがですか。もし疲れたら、いつでも帰っておいで。それと、東京に椿森神社という古い神社があります。宮司さんは私の古い友人で、とても良い方です。もし興味があれば、一度訪ねてみてはいかがでしょうか』
祖母は千尋が幼い頃から、山間部の実家で民間信仰や薬草の知識を教えてくれた人だった。都会に出てからは疎遠になっていたが、祖母の温かい言葉に救われた思いがした。
会社を辞める決意を固めた千尋は、すぐに椿森神社に連絡を取った。電話に出た宮司の椿森和彦は、祖母の話を聞くと快く千尋を迎え入れてくれた。
「神社の手伝いをしながら、ゆっくり休んでください。境内に小さな住居もありますから、しばらく滞在していただいても構いません」
和彦の優しい声に、千尋は涙が出そうになった。
石段を上り切ると、朱色の鳥居が見えてきた。鳥居をくぐると、境内は思っていたよりも広く、手入れの行き届いた美しい空間が広がっていた。正面には立派な拝殿があり、その奥に本殿が見える。境内の中央には、樹齢数百年はありそうな巨大な椿の木がそびえ立っていた。
「あの椿が、神社の名前の由来なのね」
千尋は椿の木を見上げながら歩いていると、拝殿の方から白い髭を蓄えた初老の男性が現れた。白い神職の装束を身にまとい、穏やかな表情を浮かべている。
「白石さんですね。お疲れさまでした。私が椿森和彦です」
宮司の和彦は丁寧に頭を下げた。千尋も慌てて挨拶を返す。
「はじめまして、白石千尋です。この度は、突然のお願いを聞いていただき、ありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそ。お祖母様には昔、大変お世話になりました。千尋さんがいらしてくださって、とても嬉しく思います」
和彦の温かい笑顔に、千尋の緊張は少しずつほぐれていった。
「まずは、神社をご案内しましょう。荷物はそちらに置いて構いません」
和彦に案内されて、千尋は境内を歩いて回った。拝殿、本殿、社務所、そして境内の奥にある古い茶室まで、一つ一つ丁寧に説明を受けた。
「椿森神社は、江戸時代初期に創建された古い神社です。御祭神は縁結びと商売繁盛の神様で、昔はこの辺りの人々の信仰を集めていました」
和彦の説明を聞きながら、千尋は神社の歴史の重みを感じていた。しかし、同時に少し寂しげな雰囲気も漂っていることに気づく。
「最近は、参拝者が減ってしまって」和彦は苦笑いを浮かべた。「若い人たちは神社に足を向けなくなり、お年寄りも高齢化で参拝が難しくなってきました。このままでは、神社の維持が困難になってしまいます」
千尋は和彦の表情に、深い憂いを感じ取った。代々続く神社を守る責任の重さと、時代の変化に対する無力感が伝わってくる。
「それで、何か新しいことを始めようと考えているのです」和彦は境内の奥にある茶室を指差した。「あの茶室を改装して、小さなカフェを開こうと思っています」
「カフェですか?」
「はい。神社とカフェという組み合わせは珍しいかもしれませんが、多くの人に神社に足を運んでもらうきっかけになればと思います。御神水で淹れたお茶や、季節の和菓子を提供して、参拝者だけでなく一般の方にも利用していただけるような場所にしたいのです」
千尋は茶室を見つめた。確かに古いが、趣のある美しい建物だった。少し手を加えれば、素敵なカフェになりそうだ。
「素晴らしいアイデアですね。きっと多くの人に愛される場所になると思います」
「ありがとうございます。実は、千尋さんにもお手伝いいただけたらと思っているのです。もちろん、無理にとは申しませんが」
千尋は少し驚いた。自分にそんなことができるだろうか。しかし、和彦の真摯な眼差しを見ていると、何かお役に立ちたいという気持ちが湧いてきた。
「私で良ければ、ぜひお手伝いさせてください」
「本当ですか?ありがとうございます」和彦の顔が明るくなった。「それでは、まずは神社の作法から覚えていただきましょう。巫女の修行も兼ねて、神道の基本を学んでいただければと思います」
巫女の修行。千尋は少し緊張した。祖母から聞いた話では、巫女は神様と人々を結ぶ大切な役割を担っているという。自分にそんな重要な役目が務まるだろうか。
「大丈夫です。最初は簡単なことから始めましょう」和彦は千尋の不安を察したように優しく微笑んだ。「まずは、お住まいをご案内します」
社務所の奥に、小さいながらも清潔な住居があった。畳の部屋に必要最低限の家具が置かれ、窓からは境内の椿の木が見える。
「ここが千尋さんのお部屋です。何か不便なことがあれば、遠慮なくおっしゃってください」
「ありがとうございます。とても素敵なお部屋ですね」
千尋は荷物を置いて、改めて窓の外を眺めた。椿の木の向こうに夕日が差し込み、境内全体が金色に染まっている。都会の喧騒とは全く違う、静寂で神聖な空間だった。
「それでは、今日はゆっくりお休みください。明日から、少しずつ神社のことを覚えていただきましょう」
和彦が去った後、千尋は一人で部屋に座っていた。窓の外では、夕闇が徐々に境内を包み始めている。
ふと、椿の木の方から微かな音が聞こえてきた。風の音だろうかと思ったが、何か違う。まるで、誰かが優しく語りかけているような、不思議な響きだった。
千尋は窓を開けて、耳を澄ませた。すると、確かに椿の木の方から、言葉にならない何かが伝わってくる。それは温かく、包み込むような感覚だった。
「歓迎します」
千尋は驚いて立ち上がった。今、確かに声が聞こえた。しかし、境内には誰もいない。
「気のせいかしら」
千尋は首を振って、窓を閉めた。都会での疲れが溜まっているのかもしれない。
しかし、その夜、千尋は不思議な夢を見た。椿の木の下で、白い着物を着た美しい女性が微笑んでいる。女性は何も言わないが、千尋を温かく見守っているような眼差しだった。
翌朝、千尋は清々しい気分で目を覚ました。窓を開けると、朝の光が境内を照らし、椿の木の緑が鮮やかに輝いている。鳥のさえずりが聞こえ、遠くから参拝者の足音も聞こえてきた。
「おはようございます」
和彦の声に振り返ると、宮司が朝の清掃をしていた。
「おはようございます。私も手伝います」
「ありがとうございます。それでは、まず境内の掃除から始めましょう」
千尋は箒を受け取り、境内の落ち葉を掃き始めた。単純な作業だが、なぜか心が落ち着く。都会での慌ただしい生活とは全く違う、ゆったりとした時間の流れを感じた。
掃除を終えると、和彦が神道の基本的な作法を教えてくれた。手水の作法、拝礼の仕方、祝詞の読み方など、一つ一つ丁寧に指導を受けた。
「神道は、自然と調和し、清浄な心を保つことを大切にします。千尋さんには、その素質があるように感じます」
和彦の言葉に、千尋は少し照れた。しかし、確かに神社にいると心が安らぐのを感じる。
午後になると、茶室の見学をした。古い建物だが、骨組みはしっかりしており、少し手を加えればカフェとして使えそうだった。
「ここに厨房を作って、あちらに客席を配置します。窓からは庭園が見えるので、とても良い雰囲気になると思います」
和彦の説明を聞きながら、千尋は完成したカフェの様子を想像した。きっと、多くの人に愛される素敵な場所になるだろう。
「メニューはどのようなものを考えていらっしゃるのですか?」
「御神水で淹れたお茶をメインに、季節の和菓子や軽食を提供したいと思います。私は料理が趣味なので、精進料理風のヘルシーなメニューも考えています」
千尋は和彦の料理への情熱を感じた。きっと美味しいものを作ってくれるだろう。
夕方になり、千尋は一人で境内を散歩していた。椿の木の下に立つと、また昨夜と同じような不思議な感覚を覚えた。
今度は、もっとはっきりと感じられた。椿の木から、温かいエネルギーが流れてくる。それは歓迎の気持ちであり、同時に何かを伝えようとしているようだった。
「あなたは、特別な人ですね」
千尋は振り返ったが、やはり誰もいない。しかし、今度は確信を持って言えた。これは気のせいではない。本当に、何かが自分に語りかけているのだ。
その時、椿の木の根元に小さな白い花が咲いているのに気づいた。季節外れの椿の花だった。千尋がそっと手を伸ばすと、花びらが光るように輝いた。
「これは...」
千尋は驚いて手を引っ込めた。しかし、花は確かに光っていた。そして、その光と共に、千尋の心に温かい感情が流れ込んできた。
それは、神社を愛する気持ち、人々を大切に思う心、そして千尋自身への期待だった。椿の木に宿る神様が、千尋を歓迎し、これからの活動を応援してくれているのだと感じた。
「ありがとうございます」
千尋は椿の木に向かって、深く頭を下げた。この神社で、きっと素晴らしいことが始まるだろう。そんな予感が、千尋の心を満たしていた。
その夜、千尋は日記を書いた。
『今日から椿森神社での新しい生活が始まりました。宮司の和彦さんはとても優しい方で、神社の歴史や神道について丁寧に教えてくださいます。カフェの計画も素晴らしく、きっと多くの人に愛される場所になると思います。
そして、不思議なことですが、境内の椿の木から何かを感じます。まるで、神様が私を歓迎してくださっているような。祖母がよく言っていた「自然の声を聞く」ということが、少し分かったような気がします。
都会での疲れた心が、少しずつ癒されていくのを感じます。ここで、新しい自分を見つけられるかもしれません』
千尋は日記を閉じて、窓の外を見た。月明かりに照らされた椿の木が、静かに佇んでいる。明日からの新しい生活に、期待と希望を抱きながら、千尋は眠りについた。
椿森神社での千尋の物語が、今、始まろうとしていた。